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オリンピック銀メダリストは、なぜUberEats配達員を始めたのか?

2015年8月、ある男をTwitterでフォローした。

男の名は、三宅諒。現役のフェンシング選手で、ロンドンオリンピック男子フルーレ団体の銀メダリスト。たまたま目に入ったプロフィールがキャッチーだった。

「生まれてこのかた5km以上の距離を走ったことがありません」 

トップアスリートなのに、長距離を走ったことがないという矛盾に魅力を感じた。すぐにフォロバして頂き、ゆるやかに交流が始まった。

ハンドソープボール のイベントに遊びにきて頂いたり、二人でご飯を食べたり、承認フェンシングという新スポーツを一緒に考えたり。三宅さんは#ピストの上の哲学者と言われるように、哲学的にスポーツと向き合っていて、話していていつも飽きなかった。

そんなある日、驚きのニュースが目に飛び込んできた。

え?似てる…

でも三宅さんのわけがないよね…

いやいや剣持っちゃってるし!絶対三宅さんだ!!何してるんすか!!

どうしてオリンピック銀メダリストが、UberEats配達員をしているのか?どうにも気になり、三宅さんと小一時間話をすると、そこにはとっても深い理由があった。

現状とプライドを捨てるというスーパープレー

2020東京オリンピック ・パラリンピックが1年延期されることが決まり、アスリートたちはあらゆる動きを封じられた。三宅さんは言う。

「僕らは優勝をしたくでもできなくなった」

「練習が『向上』に繋がるか、不確かになってしまった」

三宅さんは悶々と悩み、哲学する時間を持った。そして「フェンシングが好き」「オリンピックに出たい」という二つのシンプルで強い想いが残った。

そのために自分が何をすべきか。三宅さんは、3社を個人スポンサーとしてつけていたが、「先が見えない状況で、継続出資をお願いするのは申し訳ないと思った」と考え、自ら更新を保留した。ここで現状を捨てている。

そして、時間の融通が効き、体力も維持でき、多少稼げる仕事をロジカルに考えた結果、Uber Eats配達員を選んだのだ。ここでプライドを捨てている。

話を単純化すると以上だ。

しかし、僕はその「スパッと捨てる」姿勢にドキドキした。同じように感じた人もTwitterに多くいた。

事実、三宅さんのこのアクションは、多くの人に「感動」めいた感情をもたらした。でもこれ、何かに似ていませんか?そう、アスリートの美しい「スポーツプレー」見たときのそれだ。つまり、三宅さんがUberEats配達員を始めたのは、「アスリート的」な決断、そして行為だったといえるのではないか。

「アスリート的ふるまい」が生む価値

アスリートが高めるべき価値は3つあると言われている。"PLAYER VALUE"と"MARKET VALUE"、そして"STORY VALUE"だ。コロナ渦における、練習も試合もできないアスリートは、いわば前者の2つを封じられている状態ともいえる。

だからこそ、フィールドの外でも積み上げることができる"STORY VALUE"を高めるべきで、それは「アスリート的」ふるまいが生み出す価値ともいえるだろう。

「アスリート的ふるまい」とは何だろう?僕は「アスリート力の拡張」だと思っている。つまり、普段はコートや競技場やフィールドの中で発揮しているパフォーマンスを、その外に応用していくふるまいのことだ。

どのような「アスリート定義」を持っているか

で、より"STORY VALUE"の高いアスリート的ふるまいをするためには、それぞれのアスリートが、どのような「アスリート定義」を持っているのかが鍵を握る。一つ極端な例を挙げよう。

このように「監督に従順であること」というアスリート定義を核に持っていると、その力は中々スポーツ外では発揮されにくいだろう。翻って、三宅諒選手が持っている「アスリート定義」は何だろう?

これは、僕が5年ほど三宅選手を観察してきた上で勝手にまとめた「三宅さんのアスリート定義」ではあるが、大きくは間違っていないと思う。分厚い定義だ。このアスリート定義を、三宅選手のアスリート的ふるまいに置き換えるとこうなる。

「今できることを追求し続け」「しなやかに、スピーディに、力強く」という定義を持っていたから、世界中のどのアスリートよりも早くUber Eats配達員を始める、という決断をできたのではないか。その姿に、僕らが「感動」したのは当たり前だ。それは、三宅さんにとっては日頃のアスリート定義をそのままスポーツ外にスライドさせた、アスリート的ふるまいだったからだ。

予定説と古代オリンピック思想

ここまで三宅さんと話していて、一つ疑問に思った。三宅さんのアスリート定義にある「定めたベクトルに向かって」は今何なのか?前述したような「オリンピック に出たい」だとすれば、スポンサー契約は継続しつつ、これまでのライフスタイルを崩さなくてもよかったのではないか?

すると、三宅さんが意外なことを口にした。

「オリンピック選手だったら、コロナ渦においてこう振る舞うだろうという予定説に従ったんです」

まさかの予定説。マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神性」でまとめられているように、「予定説」とは、人の救いとはあらかじめ神によって決められているという、カルヴァン思想である。

禁欲的で「目の前に労働にフルコミットし100%集中することで、自分が神の栄光を表す道具として選ばれていることの傍証になる」と信じたカルヴィニストたちの振る舞いが、資本主義の礎をつくっちゃったという話ではあるけれど、ウェーバーの話はこれくらいにして、さておき、三宅諒である。

つまり三宅さんは、見えざる神との対話を試みたプロテスタントよろしく、「オリンピアンだったら、先が見えない曖昧な状態の中でスポンサー継続をしないのではないか」と、見えざるオリンピックの神との対話を繰り返していたのだ。

この話を聞いて僕は、古代オリンピック のことを思い出していた。今日のIOCファースト、放映権ありきのオリンピックとは違い、古代オリンピックの目的とは、全能の神ゼウスを含めた神々を崇めるための競技祭だった。

そこでオリンピアンたちが求めたのは「カロカガティア」という、簡単にいうと、「思考と感情と身体と魂が、すごく美しく強く調和された理想的な人間像」だったんですね。これ、2020年の現代において、予定説に従って行動した三宅選手と、似ています。偶然?いや、偶然ではない。そもそも、これこそがオリンピック選手の原点なのだから。

アスリートの人生はスポーツそのもの

改めて最初の質問に戻る。なぜオリンピック銀メダリストは、UberEats配達員を始めたのか?

答えは、「そもそも分厚いアスリートの定義を持っていた」。その上で「予定説に従ったから、アスリート的ふるまいへのシフトを滑らかに行えた」。その結果として「現状とプライドをスパッと捨てられた」。だからこそUberEats配達員へと辿りついた。

三宅さんは、2021年に開催予定の東京オリンピックに向けて、今日もアスリート的に考え、行動している。その人生からは益々目が離せない。そう、先が見えないスポーツの試合のように。

三宅諒twitter:   https://twitter.com/miyake_fencing







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