主体的って何だ問題

この前twitterでバズってたのを見て、もしかする未来展を見に行った。
その時、別の展示室で現代美術の展示もやっていたので、ついでがてらと思ってそっちも見に行った。
そしたら、結果的に一番心に残ったのは現代美術の展示の方だった。なぜだろうと考えて、それは「主体的な参加」にあるような気がした。体験型の技術展示よりも、置いてあるだけの美術展示の方が、自分の中では主体的に作品に参加できたような感覚があった。

でも不思議だ。体験型展示は自分から参加して体験しに行っているのに、見るだけのはずの美術展示の方が、主体的に参加したような感覚があるというのは、なんとなく逆であるような感じがする。
それは、体験型展示は展示されているものがすべてなのに対して、美術展示は展示されているものを見て、そこから自分の中でいろいろと考えを巡らせるフェーズがあるからではないか。

体験(体感)の持つ力は強い。
視覚だけでなく、五感で捉えられるすべての情報が、実際に目の前にある。
人は目の前に実際にあるものに弱い。
その五感で捉えられる内容がどんなに表層的なものだとしても、人はその「実在する」事のインパクトに影響されやすい。
けれど、その実際にある情報をあるように受け取るだけでは、本当に主体的に参加したと言えないのではないか。
体験型ではない、ただ作品がずんと置かれているような展示では、作品は大抵わかりやすく語ることをせず、押し黙っている。その有り様から、これはどうやって作られたのか、何でできているのか、どういう気持ちでこれを作るのか、そういえば何故人はこれをよくモチーフとして取り入れるのか等々、自分で考えながら見て回ることになる。この時、作品を見る人は自分でいろいろ考えることで、作品に対して「主体的に参加している」状態なのではないか。

自分は展示学とかそういうものは学んでないトーシロなので、最近の展示の動向とか詳しいことはよく分からない。書いてるうちに、体験型展示とそうでない展示って、どうやら目的とか客層が違うっぽいよなーとも考えた。
ただ、体験型展示の有用性だけが一人歩きして、従来の「作品と会話する」形式の展示が淘汰されるようなことにだけはなってほしくないと思った。

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