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おすすめの古典――『徒然草』③(2018年4月8日)

 先に私はメルマガを発行していたことをお知らせしました(2018年1月5日「メルマガに関するお詫びと真実」)が、廃刊にともないその内容がまったく閲覧できなくなりました。よって、廃刊にしたメルマガの中で、もう一度みなさんにも読んでほしいと思う情報を本ブログにて再録したいと思います。

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 前々回から、「第百五十二段~第百五十四段に登場する日野資朝がヤバい!」をテーマに、『徒然草』成立当時の思想について考察しています。兼好が百五十二段以下、資朝三部作(?)の三段を連続させている意味とは何か。今回は百五十三段を分析します。

 百五十三段では、為兼(ためかねの)大納言入道(権大納言藤原為兼)が捕えられ、武士たちに取り囲まれて六波羅にしょっぴかれるのを見た資朝が一言――「あな羨し。世にあらむ思い出、かくこそあらまほしけれ」。

 この資朝の発言、皆さんならどう解釈しますか。
 私には、「イケてる。俺も生きてる証に、ああいう風にスペクタクルに決めたい…」という資朝の声(現代語版)が聞こえてくるようです。

 今度は“資朝、お前中二病”か、って感じですが、資朝はこの後、討幕の陰謀が漏れて佐渡に流され(正中の変)、配所で斬られます。確かにスペクタクルだよ、資朝! でも、何か違ってないか!?と思うのです。
 前回でも触れたとおり、伝統(人々が何かを継承してきた事実)のみならず目に見えないものにも敬意を払い、そうした価値観に基づいて慎ましく、さっぱりとした生活を良しとする人としての従来のあり方を放棄した彼は、自分というものをどこまでも拡大したいという妄想に取りつかれたのかもしれません。

 といいつつも、この百五十三段にも、前段に相当する百五十二段にも、実のところ兼好のコメントは一切ありません。コメントのないときの兼好の考えは深いか、揺れているかを感じる時があります。
 資朝のような考え方、前回では、人間の智の可能性を拡大させて現実的・合理的な考えを頼りにする価値観、というとらえ方をしましたが、それに対して率直な批判をしない兼好――ひょっとしたら、何らかの迷いが生じているのでは?――そうとるのは深読みしすぎでしょうか。

 ――次は、百五十四段の分析いきます!


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