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久しぶりに手にした本(2013年11月4日)

 スランプです。

 生徒指導がうまくいかないと教科指導どころではありません。自分自身よく「勉強以前」という言葉を用いるのですが、学校には遅刻・欠席をしないとか、授業中は教科書・ノートを出してして集中するとか、提出物は期限を守るとか、身だしなみや言葉遣いや整理整頓とか、そういった日常生活における当たり前のことができなければ、子どもたちの本当の意味での成長は望めません。しかし最近、そうした当たり前のことができなくても何が悪いみたいな、開き直りのようなものを子どもたちから感じることが少なくありません。わかっていても言うことが聞けなくて反発するというのではなく、こちらの言い分がおかしいみたいなことをまるっきり理屈の通らない悪口雑言で返すというか…。

 社会・教育的なテーマの新書については、読んでしばらくするとブックオフなどに出していることが多いのですが(現代は、移り変わりが早いですからね)、なぜかこの本は枕元に立ててキープしておきました。

菅野仁『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書)


 菅野氏は「学校で一番大切なのは「欲望の統御の作法」を身につけること」であるとし、かつての管理教育についても、「子どもの自主性」をあまりにも重視する「自由主義教育」についても、両者ともにその極端さを否定します。
 そこで「規律と自由の「間(あいだ)をとる」」という方法を菅野氏は示します。

 「自主性と規範遵守性。「自分の判断で自由にふるまいなさい」という指導と、「定められた規則を守りなさい」という指導。時と場合に応じて、この二つを両方指導していかなくてはなりません。」

 しかし菅野氏は、「教師の権威を支える社会的コンセンサス(合意)がほとんど崩れている現状」では、「もはやクラスの主流の流れに自分も乗っていないと、ものすごく孤立化したり、生徒が言うことを聞かなくなるというリスクにさらされている」ことを述べます。例として、「学校の裏サイトに書かれている生徒への誹謗中傷をやめさせようとして、先生が自分の身元がわかるような形で削除依頼を出したところ、今度はその先生がクラスの子どもたちからの誹謗中傷のターゲットにされた」とありました。
 全く信じられないような内容ですが、現場に身を置く者としては、現実に起きうることだということがよくわかります。

 そんな時、私はなぜ教員を続けているのかを問うてみます。すると、私は当初から教師の仕事に憧れていたわけではなく、周囲から向いていると言われて転職し、長いこと続けているうちにこの仕事のやりがいのようなものがつかめてきたという人間だったということを思い出します。最初は無我夢中でしたが、それでも私が常に抱いてきたのは、生徒が大人になった時には自立できていることが大事だという思いでした。最近は、“別に私は人に好かれたくて教師をしているわけではないので、嫌われようが言わなければいけないことは言います”というのがほぼ口癖にもなっています。

 菅野氏も「先生は生徒の記憶に残らなくていい」と言います。自分が「「いい先生と思われたい」ということを絶対化すると、生徒や学生を前にして、いわば「大人として筋を通す」ということができなくなる」危険性を示してもいます。

 「よほど覚悟を決めるか、あるいは自分を支える強い倫理的信念か何かがないと難しい」とは、先に記した「今度はその先生がクラスの子どもたちからの誹謗中傷のターゲットにされた」という事例に対する菅野氏のコメントです。しかしながら、古文を読んできた私は、古文に記された〝人間として生きることの真実〟を学んでいるので、揺らぐまいと自分を信じることができます。先人の教えは偉大です(筆者は、プラトンの「真・善・美」を「真=ほんとう」「善=よいこと」「美=心地よさ」と置き換え、指導のポイントとするよう示唆しています)。

 私の希望は、生徒が大人になった時には自立できているということだと、先に述べました。
 
 「協同とともに相克がある」「支え合いがあるとともに競争がある」「達成されるとともに挫折がある」「承認があるとともに否定がある」「サンクション(賞賛と罰)がある」「公平があると同時に序列化がある」

 こうした「「現実のシビアなありよう」について子どもたちに教えねばならないこと」、また、その厳しさの中で「生きる力を子どもたちがそれぞれの個性に即して目覚めさせていくような仕掛け」の必要性については、私も菅野氏とまったく同意見です。

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