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おすすめの古典――『徒然草』④(2018年4月15日)

 先に私はメルマガを発行していたことをお知らせしました(2018年1月5日「メルマガに関するお詫びと真実」)が、廃刊にともないその内容がまったく閲覧できなくなりました。よって、廃刊にしたメルマガの中で、もう一度みなさんにも読んでほしいと思う情報を本ブログにて再録したいと思います。

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 「第百五十二段~第百五十四段に登場する日野資朝がヤバい!」をテーマに、『徒然草』成立当時の思想について考察しています。兼好が百五十二段以下、資朝三部作(?)の三段を連続させている意味とは何か。今回は百五十四段を分析します。

 百五十四段では、資朝が東寺の門で雨宿りをしています。すると、そのそばに「手も足もねぢゆがみ、うちかへりて、いづくも不具にことやうなる」という、身体に障害を持っている人たちが集まっていました。「最も愛するに足れり」――“最高”とばかりにじーっと見守っていた資朝…じきに一言――“キモッ”。
 そして帰宅した彼は、“こりゃ東寺にいた醜くて気持ち悪い奴らと一緒だ!”と思って、庭にコレクションして植えていた「変てこな曲りくねった木(今泉忠義先生訳。「変てこ」の訳語がほほえましい…)」を掘り起こして、全て捨ててしまいます。
 「変てこ」ゆえにゾクゾクしていた資朝が、手のひら返したように同じものを“キモッ”と思うあたり、“資朝、お前ゆがみすぎ”って感じですが、彼のバサラっぷりがよくわかる逸話だと思います。

 この段で興味深いのは、資朝三部作の最後を飾るこの段にのみ、兼好が「さもありぬべきことなり。」とコメントしていることです
 私はここに、正気に立ち返った筆者の安堵を見るような気がします。

 「ただすなほにめづらしからぬ物にはしかず」というのは、資朝が「変てこ」な植木コレクションを打ち捨てた理由です。「ありのままでまっすぐなものが最上」という価値観は、バサラとは対極にあるものです。三部作の前二段で、合理的ながらも当時の価値観からすれば転倒した価値観を誇っていた資朝が、おそらく当時のまっとうな価値観に立ち返っているのです。
 
 資朝の言動がとにかく気に入らなければ、三部作の全ての段でで批判的なコメントを入れることは可能だったと思います。現に、段によっては兼好の辛辣なコメントこそが面白いのですから。結果的に、三部作の最後で自分の考えを示した兼好ですが、それは、資朝が当時の価値観の全てに異を唱えたわけではなかった、とするものなのです。
 ――兼好の中にも、資朝を非難するには及ばない、従来の価値観を疑問視するようなあり方がどこかであったとしたら、この三部作の構成をすんなりと受け入れることはできないでしょうか。

 「さもありぬべきことなり。」――“そうだろうな、おれもそう思う。”

 ――次回で『徒然草』は最終回の予定です。
 意外な段落を手掛かりに、兼好に潜む危うい思想――人間の智の可能性を拡大させて現実的・合理的な考えを頼りにする価値観――について、考察してみたいと思います。


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