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「吉田と申す馬乗」(徒然草)から考えたこと(2020年1月26日)

 前々回の記事で私は、「将来のAIの進化がどこまで到達するのかは未知数ですが、私は知識ではなく"人間の可能性"を教えるという点でまだAIに負けるとは思っていません。」と述べました。

 『徒然草』の第百八十六段の中には、私のその考えを励ますような力強い言葉がありました。

 吉田と申す馬乗の申し侍りしは、「馬ごとにこはきものなり。人の力、あらそふべからずと知るべし。乗るべき馬をばまづよく見て、強き所弱き所を知るべし。次に轡・鞍の具にあやふきことやあると見て、心にかかることあらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを、馬乗とは申すなり。これ秘蔵のことなり」と申しき。

 「吉田と申す馬乗」は、実際の「馬乗」をくり返しての経験から自分の考えを語っているはずで、決して「見る」だけではないはずなのです。だとしたら、少なくとも現段階では、人間の身体を持たないAIは馬にも乗れないし、生きている人間や動物の“体温”を実感することはないわけです。

 ※AIに身体を持たせて学校に通うといった実験をすれば、AIがいわゆる“人間らしさ”を学べるといった話は耳にしたことがあるのですが、現段階では“誘拐”(盗難)といった危険性を回避できないので実現していないそうです。

 「どの馬も手ごわいものである。人の力は、張り合うことができないと知らなければならない。」と言うのは、生徒も同じだと思います。

 この子でうまくいったやり方が、あの子でもうまくいくとは限らないし、最新の教材だとかメソッドだとかがクラス全員に適しているわけでもありません。個々の生徒の成長の度合いは違うので、3年とか6年とかいう通学期間で“結果”(教員の求めていることが、その生徒がすべきことではない可能性もありますね)を出すことのできない生徒もあります。

 教育の現場において、数字には表れない生徒の成長を促すのに長けた先生方がいらっしゃいます。
 しかしながら、それが目に見えないからとあまり評価されず、もしかすると、新しい教育の導入の名のもとに切り捨てられている気もします。

 AIができることを人間がするのは意味がありません。

 人間の可能性を見るという、決して数値化できない能力やその人間の持つ力を“信じる”想像力や洞察力、それらの源である身体の感覚(それは経験的なもののみならず直観的なものも含まれると私は考えます)こそが、変化の激しい現代に必要な“生きる力”であると私は疑っていません。


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