見出し画像

新田義貞と義に生きた熱い魂の男たち

 南北朝時代を楽しむ会主催の南北朝フェス〔プレフェス6月5日(土)、本フェス9月5日(日)開催〕に向けて、「南北朝推しメン企画」が本フェス開催までの毎月2回、Twitter等のSNSで展開されております。
 私は5月の第1回を担当し、新田義貞を紹介しました。

画像1


 上の記事が投稿されたあと、写真の場所や本文に記された人物についてもっと知りたいという声が「歴史を楽しむ会」の会員さんより寄せられ、4回にわたって〝連載〟した投稿をこのたびnoteに収録しました。
 〔以下の本文は、2021年5月4日から7日にかけて、SNSのグループに投稿した記事を、再録にあたり一部修正・加筆したものです。〕

 私がかつて高校生だった時は、新田義貞はあまり好きではありませんでした。剣で稲村ケ崎を割るとか嘘でしょ?とか、結局負けてかっこわる~とか。でも、歳をとったら変わりました。

 そんな私が、新田推し全開で義貞と新田軍団(大門軍団か⁉)について語りたいと思います。

**********************************

 まずは「新田觸(ふれ)不動尊」ですが、この写真〔下記note引用記事内参照〕は、去年10月に初めて南北朝の史跡巡りに参加した時のもので、大雨でした。

 新田義貞の挙兵をサポートしたというお不動様なのですが、古典『太平記』では不動尊ではなく天狗がその役割をになっています。

**********************************

 次に、新田義貞の弟の脇屋義助です。

画像2

 上の写真は、太田駅前の新田義貞像なのですが、立ち姿の像が義貞で、右脇は誰か探ったのですが大雨のせいもありよくわかりませんでした。私は義貞の息子の一人かと思ったのですが、史跡巡りでご一緒した方たちは脇屋義助ではないかとおっしゃっていました。

 先に、義貞の挙兵をサポートしたのはお不動様や天狗だというお話をしましたが、古典『太平記』では北条高時の使者を処分してしてまった義貞と一族が集まって話し合った時に、迷いのあった兄・義貞の背を押したのが義助です。

 義貞の最期も悲しいのですが、兄の死後もがんばって戦い続け、四国で迎えられてこれからって時に熱病であっけなく亡くなってしまった義助も、なんて運がないんだろうと泣けてきます。

 義助が後村上天皇に拝謁した時のエピソードもnoteでとりあげています。

 義貞の最期にまつわるこんなエピソードについてもnoteでとりあげています。

**********************************

 続いては、義貞の息子たちです。

 義貞の長男・義顕は、福井の金ケ崎城で自害を遂げています。義顕はお連れしていた尊良親王に逃げるよう進言したのですが、親王は〝頼みとしてきた臣の義顕と運命を共にする、自害の作法を見せてほしい〟と告げ、義顕はあばらまで折るほどの渾身の力で腹を切って果てます。義顕の刀を取った親王は、後を追い、義顕に折り重なるようにしてこと切れたのです(この場面、古典『太平記』自分的名場面ベスト10を作ったら、文句なしにトップランクに入ります。何度読んでも泣ける……)。

 義貞と義助の死後は、次男・義興、三男・義宗、脇屋義助の息子・義治が活躍します。

 義興は正妻の子ではなく、また義宗や義治より少し軽率なところがあったということで、べらぼうに強かったけれども畠山道誓(国清)とその部下にだまされて(義宗と義治は〝やめとけ〟って言ってうまい話にのらなかった……)、多摩川に沈められて怨霊となり、新田神社のご祭神となっている方です。

 武蔵野合戦以下の関東の戦いでは新田の息子たち&今話題の北条時行(週刊少年ジャンプ『逃げ上手の若君』の主人公)らでかなりのところまで尊氏を追い詰めますが、時代は彼らには味方しませんでした。

 YouTubeに『太平記』のそれらの場面をまとめた動画があるので、興味のある方はご視聴ください。

 新田義顕と尊義親王の最期についてはこちらをご覧ください。


 新田義宗・義興と脇屋義治の活躍した武蔵野合戦にについてはこちらをご覧ください。


 新田義興の最期についてはこちらをご覧ください。

**********************************

 最後は、「推しメン」投稿記事で名前を出した新田の家臣たちを紹介します。

 この記事の冒頭では、太田市・足利市の観光案内の写真を掲載しています。「太田」は義貞をイメージしたキャラクター、「足利」は尊氏をイメージしたキャラクターです。「太田」がやんちゃっぽい感じなのに対して、「足利」は何ともしなっとした貴族っぽい雰囲気です。

 尊氏のイメージが妥当か否かはおいておくにして、他で見たキャラクターなのですが、義貞についてはモロにヤ〇キーな出で立ちです(笑)。しかしまあ、古典『太平記』を読む限りはそれもうなずけます。そして、家臣たちもまたそうなのです。


 執事の船田入道(義昌)こそクールな感じですが、『逃げ上手の若君』でも鬼畜ぶりを発揮した五代院宗繁をはじめ、卑劣な人々を露骨に嫌悪するあたりは〝やはり新田の人、熱い……〟と思ってしまいます。
 ※参考までに、noteで展開している『逃げ上手の若君』応援の記事です。


 堀口貞満は、尊氏の言に従って和睦&還幸しようとして比叡山を出ようとしていた後醍醐天皇の輿を力ずくで止め、どうしても行くというのであれば新田の一族の首をすべて刎ねてからにしてくれと涙ながらに訴えます(←不敬を通り越した関東ヤ〇キーの本領発揮)。
 ※参考までにYouTubeの動画です。


 新田四天王は、栗生顕友(くりゅうあきとも)、篠塚重広、畑時能(はたときよし)、由良具滋(ゆらともしげ)の4人を指すそうですが、三井寺合戦では栗生と篠塚が巨大な卒塔婆を引き抜いて大活躍。何度読んでも痛快です。
 ※参考までに、南北朝時代を楽しむ会の史跡巡りのレポートにからめて、彼らの活躍の一部を記したnoteの記事です。

**********************************

 私が『太平記』を読み終えたら新田びいきになっていたのは、史実はさておき、現代の少年漫画にも通じるような、ベタといえばベタながら、かっこよくて泣けるキャラクターとストーリーにあったといえます。

 最後までおつきあいくださり、ありがとうございました。


 脇屋義助の記事を投稿したあとに、「軽野造船所」様より貴重な情報をいただきましたので、あわせてこちらで紹介いたします。

 伊豆にかつてあった東洋醸造という酒造会社が元は脇田家という家の家業でした。この脇田家、祖先は脇屋義治と称しており、墓所もあります。


 「軽野造船所」様も大変興味深い活動をされていますので紹介させていただきます。情報ありがとうございました!


  Facebookの投稿で本記事について補足をしました。

【先の「南北朝推しメン企画」記事の解説をnoteに収録しました。】 古典『太平記』は、新田を推しすぎですよね。……わかります。 私、教員時代、なぜかやんちゃ系にウケました。私自身はヤンでもなんでもないですし、最初は彼らはかなり苦手でした...

Posted by 矢崎 佐和子 on Thursday, May 13, 2021


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?