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主客融合クッキング

 日常的に食卓に並ぶ料理の名前を思い浮かべてほしい。「焼き魚」「唐揚げ」「茹で卵」「野菜炒め」、、、など。これらに共通するポイントはなんだろうか。美味しいとかではない。そう、受動・能動関係が曖昧になっている、という点である。そもそも「焼き」という行為の主体は人間だ。しかし、「焼かれて」いるはずの魚に「焼き」とついている。食材という客観的な物体の中に、調理法という手段を介して人間の主観的意識が混入している、これは由々しき問題である。しかるに、本来「焼き魚」という言葉は、目の前にあるその料理を忠実に表現するとならば、主客の点において「焼かれ魚」と訂正されるべきなのではないか。「唐揚げ」→「唐揚げられ」、「茹で卵」→「茹でられ卵」、「野菜炒め」→「野菜炒められ」、、、然り。

 そんなことを指摘するのはおかしい、焼き魚はいつも焼き魚なんだから黙って食え、と思うかもしれない(というかこんなことを世の中のみんなが考えていたらそもそも「焼かれ魚」でまかり通っているのである)。しかし、もう少し考えてほしい。ここで、対照的な英語の例をあげてみる。たとえば、先にも取り上げた「茹で卵」は英語で「boiled egg」、唐揚げは「fried chicken」。ほら見ろ、英語の世界では主客のルールが厳格化されているではないか。そこでは当然のように対象の主体性が認識され、それが態に反映されているではないか。実にクリアで、誤解のない表現である。他の言語を見ても大半が能動・受動関係にシビアで、そうなるとむしろ「茹でられ卵」や「唐揚げられ」が、グローバルスタンダードなのだ。というわけで、主客の曖昧化というのは特に日本語世界においてみられる現象であると考えられる。そもそもルーツ不明、言語一匹狼として捉えられがちな日本語であるが、主客の認識においてもこのようなギャップがあるというのには驚きだ。

 もちろん、日本主客融合クッキングは、茹で卵唐揚げ等の限りではない。この類でわたしが最も嫌うのが、「流しそうめん」である。流す必要のないそうめんを流していきがっている人間の愚かさがそこに描き出されているように感じられてならない。そこにあるのは哀れな「流されそうめん」と、「そうめんを流してやったぞ」という訳のわからない擬似的達成感に塗れた人間の真の姿、エゴである。夏の風物詩どころか地獄絵図だ。あとは、「里芋の煮っ転がし」。最悪だ。転がすな。全国各地で里芋を煮っ転がすババアどもは1人残らず地獄に叩き落とされて、里芋の気持ちが分かるまでぐつぐつ煮えた釜で煮っ転がされてみればいいと思う。名付けて「里芋煮っ転がされ地獄」。里芋は天国で微笑んでいる。

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