記憶
このまま、このまま、ずっと忘れていればいいのに、何も思い出さなければいいのに。このまま、このまま、ずっと。このまま何もかも、永遠に、今のまま。そうすれば、彼は、私のもの。ずっと私だけを見ている。私だけが彼を見ている。ずっと。このまま、ずっと。そしてそのまま二人きり。二人だけで歳を重ねて、見つめ合う。このまま。ずっと。
少しずつ、少しずつ、回復している。少しずつ、少しずつ。でも着実に。しきりに頑張る彼。健気な姿。もしかしたら、僕、結婚していたかもしれないです。身体が、なんとなく、覚えているのです。そんなことは知っている。だから、頑張って欲しい。その姿。懸命に記憶を取り戻す。それは光。希望。頑張って。頑張って。
ありがとう。ありがとう、ございます。やっと退院できます。もうほとんど記憶は戻りました。ありがとう、ありがとう。妻も、子供も感謝しています。あれほどの献身、感謝してもしきれません。もう、ほとんど記憶は戻りました。何から、何まで。あれだけの事故から復活できたのは奇蹟です。手取足取り、読み書きから日常の些細な動作まで、全て、その全てを再現することで、記憶が繋がりました。あ、あ……。
さようなら。さようなら。悲しいけれど、それが私の仕事。患者様、一人一人に寄り添って。こうして記憶を戻していくのです。さようなら、さようなら。どうか、末永く、お幸せに。あなたの手が、指が、冷たい肌を這う。その舌先が長く、熱く、私を焦がし続ける。あの夜。あの声。あの涙。私には、その記憶だけで十分ですの。
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