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かつての蜜月

かつて私にもあなたを殺して私も死ぬという、現実の世界でそんな言葉を使う機会が訪れた奇跡に蹌踉めいては己の奇跡に陶酔し、そうした事態に陥っている運命に恍惚としては悦に入っている時期があった。私は迂闊にも客の一人に嵌まり込んでしまい、彼の居直りに憮然としたまま無意識のうちに包丁を持った手を震わせ、ふらふらとベランダに飛び出したのだが、そのとき見た初台の夜空はこれまで見たどんな空よりも汚らしく白く濁っていたのを覚えている。

そのとき見た空と、そうは言ってみたものの現実に空を見たかどうかはわからなかった。本当に刺すはずがないと高を括っていた男はベランダに飛び出した私に、早まったことをするなと、これまたありきたりな言葉を放ってその身体を羽交い締めにしている。彼は私の身の安全、というよりも、自らのそれを優先し、甲高い音を立ててベランダに落ちた包丁を踏み付けエアコンの室外機の下にそれを蹴飛ばした。もみくちゃのまま下半身を捻り、全神経を足の裏とその下にある刃物に集中させては、じわじわとそれを室外機の下に隠そうとしていた神妙な顔つきは滑稽としかいいようがなかったが、あなたを殺して私も死ぬという、そんな戯れ言を吐いた後にベランダに飛び出せば誰でもそこから飛び降りることを警戒するのは当然といえば当然だろう。

もちろん私はそんなことをするつもりはなかったし、ベランダに飛び出した明確な理由というのもなかった。私はただ彼の言葉を受け容れられなかっただけ、妻ではなく愛しているのはお前だけだというその言葉が大嘘であり、幼い娘がいて彼女だけは溺愛しているというのも真っ赤な嘘、本当の彼は既婚者でもなんでもなくまっさらな独身、結婚どころかこれまで私以外には誰とも付き合ったことがないとほどの内気な男、私はその言葉に神経ではなく肉体が追い付かなかっただけで、ばらばらになる全身の細胞の、その隙間を縫って疾走する血が今にも吹き出しそうなのを治めようとしていただけだった。これまでの八年間、不倫をしていたと思っていた私はただただ普通の恋愛をしていただけなのだ。それが余りに幸せであったから、既婚者を演じる彼をこれほどまでに愛してしまったから、私はもう彼とは一緒にいられないと、その恐怖に打ちのめされただけだった。

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