見出し画像

受験マンガ(2013)

受験マンガ
Saven Satow
Feb. 24, 2013

「そこで、キミ自身の技術は、他のだれのものでもない。そして、受験技術ですら、キミ自身のものを持つたことは、将来の役にもたつはずである」。
森毅『数学受験術指南』

 2月は受験の季節です。少子化と言っても、やはり受験は子どもたちにとって大変な出来事です。ただ、最も受験競争が激しかったのは70年代です。当時は「受験戦争」とまで称されています。今の受験生はもちろんのこと、親たちにもあの頃の気分を知らない人が少なくないでしょう。

 受験戦争のために、子どもたちに総動員体制が敷かれています。「月月火水木金金」や「欲しがりません勝つまでは」といった戦時下のフレーズが受験生にそのまま適用できるほどです。

 「四当五落」という四文字熟語がよくささやかれています。4時間睡眠で勉強すれば合格するが、5時間寝ていては落ちるという意味です。睡眠は身体の成長や修復の時間帯です。成長期の子どもが睡眠不足では健康に悪影響があります。

 その後は戦争終結に向けていかに動員解除をするかが最重要の教育課題の一つになります。

 けれども、70年代、受験生の登場する作品は限りなくあるものの、受験を舞台にしたマンガは必ずしも多くありません。代表作と言えば、聖日出夫の『試験(テスト)あらし』(1976)や『生徒ドンマイ』(1978)、小林よしのりの『東大一直線』(1976)でしょう。

 他にも、少数ですが、受験マンガはあります。ただ、ヒットしたとは言えません。70年代から少し外れますが、柳沢きみおが浪人生の心情を描いた『正平記』(1982)を表わしています。これは、柳沢の代表作の一つ『月とスッポン』の登場人物だった藤波正平を主人公に、その浪人生活を等身大で綴った物語です。けれども、人気は『月とスッポン』に遠く及びません。

 聖作品は受験を包括的に捉えています。受験をめぐる環境、試験問題、受験勉強、カンニング方法、受験生の心情などが等身大でユーモアをこめて描かれています。聖日出夫は独白や回想、心情の語りなど内面描写を多用します。これが精神を消耗させる受験によく合っています。

 余談ながら、聖日出夫に、『ツースリー』という野球マンガがあります。これは小学4年生の牧村まもるを主人公にした物語で、『小学4年生』に1974年4月号から一年間連載されています。小学4年生は「9歳の壁」の時期です。精神的発達において、規則を絶対視する段階から、お互いの同意によって変えることもできるとする段階へ移行する年齢です。また、学習内容に抽象性が導入されるため、学力格差が生じてきます。その4年生の主人公は、兄弟や上級生、幼なじみとの葛藤や友情、信頼、恋心、努力などを通じて成長していきます。主観表現が効果的にこの微妙な時期の心理を描いています。隠れた傑作と言えるでしょう。

 一方、小林作品は受験を媒介に極端な人物をコミカルに描いています。主人公は壊れた人物ですが、その破綻ぶりが受験戦争の中では違和感を覚えないのです。敵だらけの戦争態では繊細で悩める青春ではなく、他人を押しのけても勝ち残ろうとする強烈な個性もあり得るものです。ただ、小林作品は受験自体に関しては深く取り扱っていません。当時の受験戦争を受験よりも戦争の面から捉えた作品です。

 受験マンガとしては聖作品の方が小林作品よりも完成度が高いのですが、そこに登場する教師像となると、別の評価になります。70年代という時代を考慮すると、同時代の認識をつかんでいたのが小林作品で、聖作品はそれ以前なのです。

 山田浩之広島大学大学院教授は、『マンガが語る教師像』(2004)において、戦後マンガの教師像を時代別に三つに大別しています。それは「師範的教師像」・「仲間的教師像」・「アウトロー的教師像」です。

 この教育学者がこうした研究をしたのは、マンガは虚構性が強いため、子どもたちの願望が反映しやすいと考えたからです。子どもたちの教師に求める姿の推移がマンガを歴史的に分析すると、明らかになるわけです。

 第一の師範的教師像は師匠です。教師は生徒に大人の世界に導き入れる権威ある存在です。教師は大人、生徒は子どもという明確な区別があります。この教師像は終戦から60年代まで抱かれています。例を挙げるまでもありません。しかし、学園紛争を経て師範的教師像は崩れていきます。

 第二の仲間的教師像は同行者です。教師は、その役割を演じているだけで、子どもたちにとって友達です。作品世界において登場人物はみんな仲間で、わいわい楽しんでいます。これは70年代から80年代にかけて見られる教師像です。山田教授は、仲間的教師像の一例として、『東大一直線』の「チョンマゲ先生」を挙げています。

 70年代から80年代にかけた時期は少女マンガの黄金時代に相当します。少女マンガに登場する教師は大半がこの同行者です。少女マンガの黄金時代を考える際に、仲間的教師像を可能にした社会の気分を認識する必要があります。

 第三のアウトロー的教師像は代行者です。教師は、生徒がしたくてもできないことを代って行ってくれるのです。これは90年代以降に登場する教師像です。山田教授は、藤沢とおるの『GTO』(1997)に登場する元暴走族の教師鬼塚英吉をこの例に挙げています。

 陣内靖彦聖徳大学教授は放送大学の『教育の最新事情』の「第2回 社会の変化と教師の役割」においてこの三つの類型に加えて、21世紀に入ってから「スペシャリスト的教師像」が出現したと指摘しています。彼らはある専門分野で超人的な能力を発揮する教師です。武富健治の『鈴木先生』が好例でしょう。全体像がつかみにくく、細部の具体性やリアリティに意義を見出す時代にふさわしいとも言えます。

 多様化・相対化・複雑化した現代社会では、市民の意思決定への参加が重視されています。それに伴い、リテラシー教育やエンパワーメントなどが提唱されています。しかし、子どもたちの間では、むしろ、おまかせ意識が高まっているのは懸念されるところです。

 この三分類は時代に対応していますが、すべてのマンガに適用できるわけではありません。対象年齢がはっきりしている場合、読者の発達段階を考慮する必要があります。低学年向けのマンガであれば、今でも師範的教師像が望ましいのです。

 聖作品に登場する教師は師範的です。70年代において、それは前時代的です。聖作品と小林作品の講師増の違いは両者の年齢差のせいでもあるでしょう。聖日出夫は1946年、小林よしのりは1953年のそれぞれ生まれです。前者は団塊の世代、後者はしらけ世代で、両者の間で教師像が転換しているのです。マンガには読者の願望だけでなく、作者の認知も映し出されます。

 終戦からすでに長い時間を経た今日では、受験がマンガの題材になる可能性は低いでしょう。受験戦争はもう過去の出来事です。けれども、今の若い読者がマンガを通じて受験戦争の気分をうかがい知ることは困難です。受験マンガが少ないだけでなく、聖作品や『正平記』が示しているように、昔のものを読むこと自体が難しいのです。

 マンガは同時代の作品を目にするのは簡単でも、古典を手にするのは大変です。雑誌掲載されたものの、単行本化されなかったマンガは無数にあります。それどころか、かなり人気のあった作品の単行本でも絶版になったままというのもざらです。けれども、こうした作品を改めて読もうとしても、容易ではありません。一部の例外を除いて、マンガの雑誌・単行本は一般の図書館に所蔵されていません。しかも、かつての親はマンガを捨てたがりましたから、古本屋でもお目当てのものがなかなか見つかりません。

 マンガは虚構性が強いため、子どもたちの気分が反映しやすいものです。昔のマンガを読むことで、他の表現以上に当時のそれを顧みることが可能になります。しかし、古典に触れるのは恐ろしく制限が多いのです。マンガが世界に認知されながらも、こうした実態があるのです。残念な状況です。
〈了〉
参照文献    
陣内靖彦他編著、『教育と社会─子ども・学校・教師』、学文社、2012年
森毅、『数学受験術指南』、中公新書、1981年
山田浩之、『マンガが語る教師像─教育社会学が読み解く熱血のゆくえ』、昭和堂、2004年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?