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サンディ・コーファックスに見る運命(2006)

サンディ・コーファックスに見る運命
Saven Satow
Jun. 23, 2006

「サンディ・コーファックスが僕の子どもの頃のアイドルだった」。
デーブ・スペクター

 2006年4月18日、北海道日本ハム・ファイターズの新庄剛志外野手が今シーズン限りでの引退をヒーロー・インタビューで発表します。阪神タイガース時代に、引退を宣言しながらも撤回したこともあって、真偽を含め、それをめぐり賛否両論が起きています。

 開幕直後の引退発表は日本プロ野球では異例ですが、アメリカの大リーグでは必ずしもそうではありません。「ミスター・オクトーバー」ことレジー・ジャクソンが1987年のシーズンで引退しました際、オークランド・アアスレチックスは彼の引退興行と化しています。「ロケット」ロジャー・クレメンスは、ここ2、3年、シーズン前に引退を示唆する発言をしながら、嬉しいことに、それを撤回しています。

 そんな大リーグであっても、1966年10月のワールドシリーズ後に発表されたサンディ・コーファックス(Sandy Koufax)の引退は驚きと戸惑い以外の反応はありません。肘の痛みに苦しみ、登板後に肘をアイシングしていたことは知られていたものの、このシーズンの彼の成績は27勝9敗、防御率1.73、317奪三振だからです。ナショナル・リーグの最多勝・最優秀防御率・最多奪三振のタイトルと自身3度目となるサイ・ヤング賞に輝いています。しかも、彼はまだ30歳です。

 記者会見で、このロサンゼルス・ドジャースのエースは「髪に櫛を入れられなくなる前に引退したい」と答えています。肘にメスを入れることなど考えられない時代ですから、それが原因と推測できますが、真意は曖昧です。ボストン・レッドソックスの4割打者テッド・ウィリアムスによる1960年10月の「釣り道具屋をやりたいから」という引退理由ほどではなかったにしろ、全米の野球ファンを納得させるものではありません。コーファックスの投球を見られなくなることに野球ファンは嘆きます。

 大リーグ史上最高のピッチャーは誰かという問いに対して、20世紀初頭から70年代に至るまでアメリカの野球を見てきた名将ケーシー・ステンゲルは「このユダヤの若者だ」と断言しています。通算成績や1シーズンの成績なら、彼を超える投手はいます。けれども、63年から66年までの4シーズンの成績は大リーグ史上最高です。

63年 25勝(完封11)5敗防御率1.88奪三振306
64年 19勝(完封7)5敗1S防御率1.74奪三振223
65年 26勝(完封8)8敗3S防御率2.04奪三振382
66年 27勝(完封5)9敗3S防御率1.73奪三振317

 この4シーズンに年完全試合1回を含めノーヒット・ノーランを3回(通算では62年から4年連続の4度)記録しています。64年、肘を痛めたため、登板試合数も減り、勝ち星も20勝に届いていませんが、それでもノーヒット・ノーランに相手を抑えこんでいます。対戦するチームは、毎試合ノーヒット・ノーランをされるのではないかと感じていたそうです。

 内角への厳しい攻めもしなかったため、三振をとられても不思議と腹が立たないと告げています。また、審判と判定でもめたこともありません。通算324勝をマークしたドン・サットンは「ファールなら、心の中では勝ちだった(A foul ball was a moral victory)」と彼の豪腕を評し、ピッツバーグ・パイレーツのウイリー・スタージェルは「コーファックスを打つのは、フォークでコーヒーを飲むものだ(Trying to hit Sandy Koufax was like trying to drink coffee with a fork)」と言っています。

 初の日本人大リーガー、マッシーこと村上雅則投手は大リーグでの一番の思い出としてコーファックスからヒットを打ったことを挙げています。ああいう投手は、おそらく、将来も二度と登場しないだろうと口にする人も多いのです。

 引退後の1972年、史上最年少の36歳で野球殿堂入りを果たしています。また、現在、彼の背番号32はドジャースの永久欠番です。

 けれども、実は、彼はプロ入り7シーズンは二流の投手にすぎません。特に、最初の3シーズンはまったくの泣かず飛ばずです。速球には光るものがありながら、力任せに投げるだけで、行き先はボールに聞いてくれという有様です。

 しかし、これは無理からぬことでもあります。と言うのも、少年時代、彼は野球よりも、バスケットボールに熱心だからです。

 サンディ・コーファックスは、1935年12月30日、ニューヨーク州ブルックリンで、ユダヤ系の家庭にサンフォード・ブラウン(Sanford Braun)として生まれています。けれども、幼年時代に父が失踪、母親はアール・コーファックスと再婚します。以後、彼はサンフォード・ブラウン・コーファックスになります。

 40~50年代のニューヨークで育ちながら、彼はバスケットボールが好きな少年です。ジョー・ディマジオやジャッキー・ロビンソン、デューク・スナイダー、ロイ・キャンパネラ、ウィリー・メイズ、ヨギ・ベラ、ミッキー・マントルが活躍し、この時期のミューヨークは黄金期にありMLBの中心地だったにもかかわらず、彼の眼はマジソン・スクウェア・ガーデンに向いています。その後、シンシナティ大学からバスケットボールでスポーツ奨学金を獲得します。

 建築家志望のこの大学生が、あるとき、野球の試合に借り出されます。それをブルックリン・ドジャースのスカウトがたまたま眼にとめ、1955年、契約することになります。契約から2年間はメジャーに登録されなければならないという当時の不思議な既定のため、19歳の若者はマイナーに送られることがありません。この左投げ右打ちの彼はほとんどプロのマウンドに立つべき経験も知識もないまま、ユニフォームに袖を通してしまったというわけです。

 見るに見かねたキャッチャーのノーム・シェリーから「もっと力を抜いて投げたらどうか」とアドヴァイスされ、それに従うようになってから、急激に変身を遂げます。1961年には18勝を挙げ、信頼されるローテーション・ピッチャーの一人となります。

 後に、コーファックスは、「私がいいピッチャーになったのは、打者に打たれないようするのをやめて、打たせようとしたからだ(I became a good pitcher when I stopped trying to make them miss the ball and started trying to make them hit it)」「思ったところに投げられるのがいいピッチャーということだ(A guy that throws what he intends to throw, that's the definition of a good pitcher)」と言っています。

 1963年、ドジャースは本拠地をロサンゼルスに移転します。当時のドジャースには長距離打者がいません。モーリー・ウィルスやウィリー・デーヴィスといった俊足のプレーヤーによる機動力と堅い守備力を武器に、スコアは1対0か2対1で逃げ切るというチームです。しかし、ドジャース最大の売り物は二人の投手、右のサイドスローのドン・ドライスデールと左の上手投げサンディ・コーファックスです。それは「ゴー・ゴー・ベースボール(Go Go Baseball)」と呼ばれています。

 ちなみに、このスチールを多用したドジャースの戦法を川上哲治監督の東京ジャイアンツが真似ています。ところが、狭い球場に、長嶋茂雄や王貞治といった長距離砲を擁していたにもかかわらず、送りバントを乱用するその戦法は、オリジナルとは似ても似つかないものになってしまいます。メディアはそれを「コー・コー・ベースボール(高校ベースボール)」と揶揄します。

 その高々と足を上げ、188cmの長身から投げ下ろすフォームはダイナミック且つ美しく、「オーケストラを指揮するコンダクター」、あるいは「芸術的才能を感じさせるピカソのような偉大な芸術家」と絶賛されます。

 1963年、ドジャースはナショナル・リーグでペナントを獲得しただけでなく、ワールドシリーズも制覇します。シリーズではニューヨーク・ヤンキースに対し一度も負けていません。コーファックスはワールドシリーズのMVPに輝いています。迷言家で知られるヤンキースのヨギ・ベラは「奴が25勝できた理由はよくわかった。ただ、わからないのはなんで5敗もしたんだ?(I can see how he won twenty-five games. What I don't understand is how he lost five)」と言っています。

 1965年、ドジャースはワールドシリーズに進出します。ところが、ミネソタ・ツインズとの初戦のマウンドにいたのはコーファックスではありません。その日がヨム・キプールだからです。

 ヨム・キプールとはユダヤ教の贖罪の日で、一切の労働が禁止されます。彼はこの戒律に従い、登板を回避しています。ユダヤ・コミュニティはこの姿勢により彼を最も模範的なユダヤ教徒と認めています。

 コーファックスは第2戦から登場します。このシリーズは第7戦までもつれ、中2日で登板したコーファックスがツインズ打線を3安打完封に抑え、ドジャースはワールド・チャンピオンとなります。コーファックス自身もワールドシリーズMVPを獲得しています。

 翌年、ドジャースはナショナル・リーグを連覇、ワールドシリーズに駒を進めます。しかし、コーファックスの調子が今ひとつで、勝ち星を挙げられず、優勝はボルチモア・オリオールズのものになります。

 このポストシーズン終了の1ヶ月後、突然、コーファックスがあの記者会見を行ったわけです。

 引退後の5年間はNBCで解説者を務めますが、以後は、ハワード・ヒューズばりに、公の場に現われることはありません。その一例として、ユダヤ系の作家ジェーン・リーヴィーにより2002年に出版されたコーファックスの伝記 "A Lefty's Legacy(ある左投手の遺産)"の経緯が挙げられます。彼に取材を申し込んだもの、拒否されています。その代わりに、彼の友人や知人が「コーファックスの許可の上で」、著者のインタビューに応じて書かれています。

 コーファックスは若い頃から内向的だったわけではありません。1964年のシーズン前、ドライスデールと共に、オーナーのウォルター・オマリーに対し、大リーグ初の代理人交渉に臨みます。これは悪名高い保留条項への異議申し立てです。結局、代理人交渉はオーナーに突っぱねられ、必ずしも成功したわけではありませんけれど、後のフリーエージェント制導入につながっていきます。

 現役14年間の通算成績は165勝87敗、防御率2.76、2396奪三振、137完投、40完封です。MVP1回(1963)、サイ・ヤング賞3回(1963、65、66)、最多勝3回(1963、65、66)、最優秀防御率5回(1962~66)、最多奪三振4回(1961、63、65、66)、オールスター出場6回(1961~66)です。

 この通算成績では、日本であれば、投手なら200勝以上を条件とする名球会に入れません。しかし、サンディ・コーファックスがいないような会が「名球」に値しないのは明らかです。そんな組織はアメリカでは生まれないでしょう。

 コーファックスの人生には「突然」がつきまとっています。突然、父が失踪し、突然、母が再婚します。突然、ドジャースから契約を申し込まれ、突然、大リーグのマウンドに立ちます。突然、ローテーション・ピッチャーとなり、突然、大リーグ史上最高の投手になります。突然、肘の痛みを感じ、突然、ヨム・キプールの登板を拒否します。突然、引退を発表し、突然、公の場から姿を消します。

 彼にとっては、本当に突然の出来事の場合もあれば、前々から熟慮していたけれども、周囲にはわからなかったケースがあるのかもしれません。

 それはまるで聖書の登場人物の運命のようです。なぜ、主がヨブやエレミアを選ぶのかその理由はわかりません。選ばれること自体が謎です。しかも、彼らにとって、選ばれることは喜びをもたらしてはくれません。彼らは課せられた試練を前に、おそれおののき、嘆くしかないのです。

 しかし、運命はそういうものなのでしょう。その理由が理解できてしまうものを運命とは呼びません。運命はたた選ぶだけです。その選ばれた人は戸惑い、おそれとおののきを覚えます。しかし、選ばれたものが些細であればあるほど、その嘆きは大きくなり、ほかならぬ何ものかを感じざるを得なくなります。そうしたとき、その突然の出来事を通じて、歴史や社会は変わるのです。

 サンディ・コーファックスはそういう運命の綾を感じさせてくれるのです。「ピッチングとはおそれを教えこませる技法である(Pitching is the art of instilling fear)」(サンディ・コーファックス)。
〈了〉
参照文献
玉木正之、『プロ野球大事典』、新潮文庫、1990年

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