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風が変わった日─宮沢賢治の『風の又三郎』(4)(2022)

第4章 三郎としての賢治 
 高田三郎は川遊びの際に孤独や不安など転校生としての心理を見せている。戸惑いや動揺を覚えるのは転校性も同様である。転校生が身近な状況では、村の子どもだけでなく、三郎のような立場に置かれる子も少なくない。転校ではないが、黒澤明監督も、少年の頃のある夏休み、秋田県にある父の実家ですごしたことがある。自伝『蝦蟇の油』によると、背は高いものの虚弱だった監督がたくましくなるようにと父の意向である。実家も目的がわかっているので、ケガなどさせないように見守りの少年をつけて、生まれも育ちも東京の監督に野山でサバイバルごっこをさせている。さらに、地元の子たちとも遊ぶようになり、滝つぼでの度胸試しにもトライしている。監督はこの少年の日の思い出を『八月の狂詩曲』におけるリチャード・ギアを交えた子どもたちによる川遊びのシーンに生かしている。地元の子どもたちにとってどうだったかはわからないけれども、黒澤明監督にとって高田三郎的体験は異文化との出会いである。
 
 コラムニストのえのきどいちろうは、父が転勤族だったため、北海道から九州に至るまで引っ越しを経験し、転校を繰り返している。1959年生まれの彼は転校をリセットの機会と捉えていたと回想する。過去の自分を知る人はいないから、転校は新生を与えてくれる。それは、潜入捜査や諜報活動のように、変装のチャンスでもある。仕立てられた「私」には嘘が含まれる。けれども、「私」のパーソナリティの真偽の根拠は共同体での位置づけである。学校を含む地域に馴染んでも、いずれ去らなければならない。塩梅よく楽しんでその時まで過ごせばよい。
 
 そうしたえのきどいちろうは、かつて在校していた北海道の小学校を訪れた際の感慨について、『釧路』というコラムに記している。その中で、彼は「ぱたんぱたんと渡り廊下を歩いて、何の気なしに上の方を見たのである。そこで足が止まった。ショックを受けた」と次のように述べている。
 
 木のレリーフがいくつも並べてかけてあった。レリーフには彫刻刀で子供の顔がヘタクソに無数に彫りつけてある。縁には第何代卒業生一同となっている。それが渡り廊下の上方両脇にずらっと並んでいる。
 遺跡のようだった。そのとき何故か、みんな死んでしまったと思ったのである。みんな死んでしまった。いや、実際にはみんな、サラリーマンになったり、お母さんになったりしてどっかで元気にやっているだろう。だけど死んでしまったと思った。絶望的だった。もう間に合わない。みんな、子供としての死を迎え、ここに刻んである顔になった。僕が転校せずにずっとここにいれば第何代の卒業生になったか知らないが、きっとここに僕の顔を彫りつけていた。
 
 供養でもするような感じでレリーフの連なりにぺこんと頭を下げてやった。もうずっと昔にそれは終わったのだ。
 
 大人と子どもは決して連続していない。子ども時代の死を経験した後、すなわち共同体の中で象徴的な死の儀式を通じて人は初めて大人になる。子どもや大人という概念は共同体において形成されるので、そこに根拠を持てない者はいずれでもない。死は共同体的な制度である葬儀を通じて、初めて認められる。生も同様である。生は、絶えず、死と再生の儀式、すなわち通過儀礼を繰り返さなければならない。
 
 「私」は、生死に倣い、共同体的制度である。共同体において、儀式や儀礼は死と再生に基づいている。それらを通じて、時間・空間も共同体に属する。「私」はそこで定義される。
 
 えのきどは転校生である。迎え入れる側は転校生の過去を知らない。と同時に出て行く転校生の未来にも、どうしているかなと時々思うことがある。転校生は異なった空間と時間を知っている。反面、彼は死と再生の儀式に参加しなかったので、共同体的に生きているとも死んでいるとも言えない。だから、えのきどは「僕は一人だ」と自覚せずにいられない。
 
 『風の又三郎』論の中には、この9月初めの出来事を子どもたちにとっての通過儀礼と捉えているものがある。子どもたちは三郎と遊んでいる時に、何度か危ない経験をしている。それは彼らにとっての通過儀礼で、そこに誘った又三郎を最後に団結して追放する。子どもたちは新たな段階を迎えるが、もはや風の精と遊ぶことができない。しかし、えのきどの内省が示している通り、転校生が風の又三郎でなくても9月の出来事が通過儀礼という理解は成り立つ。また、三郎を超自然的存在とすれば、えのきどいちろうが転校生としての心理を語っているように、彼から葛藤や不安、孤独、歓喜、願望などの精神性を奪う。『風の又三郎』には転校生の心理をうかがわせるものが記されている。高田三郎を風の精として捉える論考の不十分さがここからもわかるだろう。
 
 こうした説よりも、むしろ、転校生が賢治自身と捉える方が有意義だ。賢治は、1921年(大正10年)12月3日から花巻農学校の教員をしている。4年4か月勤務した後、1926年3月31日をもって依願退職する。この就職と退職の理由には諸説あり、はっきりとしない。退職をめぐっては、弟には手紙で校長の異動に伴う「義理」と説明する一方で、1925年4月13日付杉山芳松宛書簡においては「本統の百姓」になるためと述べている。
 
 東京暮らしも経験、文学や音楽もたしなみ、先進的な教育法を試みる賢治先生は生徒集団には戸惑いながら、惹かれるものの、違和感を覚えずにいられない。しかも、突然現われ、突然去っていく。生徒にとって彼は高田三郎のような存在だっただろう。1991年、『先生はほほーっと宙に舞った―宮沢賢治の教え子たち』という記録映画が公開される。これは教育者の鳥山敏子が宮沢賢治の教え子15人にインタビューした作品である。教え子たちは70年近くたっているにもかかわらず、その強烈な印象を口々に語っている。「飽きが来たな、と思うといろいろ話をしてくれる」や「ゴム靴を履いたり、或いは、麦わら帽子を被ったりなんかして、へんな先生という印象」、「そこらへんの草をとってきて、これはどういうところに生える草だ、とか」、「何かを発見すると、突然、『ほほーつ』と言って飛び上がった」など愛すべき変人との証言に溢れている。こういった思い出を参考にするなら、転校生は賢治自身とする見方もあり得る。
 
 『風の又三郎』は、従前の賢治の散文作品と比べて、幻想性が希薄で、それが論点の一つともなっている。『風野又三郎』を書いた大正中期と違い、1930年代の東北は、世界恐慌の影響により、娘の身売りや欠食児童が社会問題化するなど極めて深刻な経済状況に置かれる。こうした苦しい生活の農民の中にはかつての教え子たちにもいる。こういった社会情勢が賢治の改作した一因とも考えられる。『風の又三郎』はあまりファンタジックでない反面、子どもたちの遊ぶ姿や口論を含めた会話に社会性としての精神性がよく描かれている。そこに教え子たちへの愛情が反映しているように見える。彼らのうちの15人は、カメラの前で鳥山敏子を相手に、懐かしそうに敬愛の情を持って賢治先生について語る。それは風によって変わった『風の又三郎』のその後の世界でもある。
〈了〉
参照文献
あすなひろし、『青い空を白い雲がかけてった』1、チャンピォンコミックス、1978年
天沢退二郎、『謎解き・風の又三郎』、丸善ライブラリー、1991年
えのきどいちろう、『妙な塩梅』、中公文庫、1997年
黒澤明、『蝦蟇の油 自伝のようなもの』、岩波現代文庫、2001年
徳田剛、『よそ者/ストレンジャーの社会学』、晃洋書房、2020年
宮沢賢治、『宮沢賢治全集』7、ちくま文庫、1985年
吉田和明、『宮沢賢治』、現代書館、1992年
 
DVD『エンカルタ総合大百科2008』、マイクロソフト社、2008年
 
グループ現代、『先生はほほーっと宙に舞った―宮沢賢治の教え子たち』、YouTube、2021年2月12日配信
https://www.youtube.com/watch?v=_4F5GhCRUd4
青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/
岩手県
https://www.pref.iwate.jp/
花巻市
https://www.city.hanamaki.iwate.jp/
 

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