無題

公文書のバックアップは公文書にあらず(2019)

公文書のバックアップは公文書にあらず
Saven Satow
Dec. 06, 2019

「詭弁はよしたまえ。つまらんパラドックスは自分で自分を不幸にするようなものだ」。
永井荷風

 菅義偉官房長官は、2019年12月4日の記者会見において、4月に開かれた首相主催の「桜を見る会」をめぐり、内閣府が5月上旬に招待者名簿の電子データをサーバーから削除した後、外部媒体に残っていたバックアップデータについて「公文書ではなく、行政文書でもない」と述べている。公文書のバックアップは公文書にあらずという見解である。

 これはまるで「白馬は馬にあらず(白馬非馬)」だ。諸子百家の一つである名家を代表する公孫竜は白馬は白馬であって、馬ではないと主張している。白は色、馬は形に属する。白馬は色と形を合わせたものである。そのため、形だけの馬とは異なっている。だから、白馬は馬ではないと公孫竜は説明している。

 これは日常的な理解に反する。白馬は馬の集合の中から白による限定したものを指す。だから、白馬は馬であるとなる

 公孫竜は、人間は五感を通じてしか物事を認識できない以上、概念を厳密に峻別すべきと説く。色は視覚、形は触覚を経由して認知される。両者は違う感覚器官によって知覚されるのだから、それを区別して考えなければならない。

 公孫竜の属する名家は論理学者である。それは直感的な論理を逆説などにより再検討を促すが、往々にて詭弁に陥る。古代ギリシアのソフィストとも重なる。ただ、彼らと違い、公孫竜は論理学者にとどまらず、「戦国の七雄」の一つである趙の政治家として国家統治にも加わっている。

 政治家公孫竜をめぐって次のようなエピソードが伝えられている。

 紀元前260年、長平の戦いで趙は秦に敗れ、都の邯鄲を包囲されてしまう。しかし、宰相の平原君が楚の春申君や魏の信陵君に救援を求めて合従が成立、前258年、それにより秦は撤退する。

 戦国時代には合従と連衡の二つの外交政策がある。戦国の七雄と言うが、実際には秦が突出している。この秦に六国のいくつか、またはすべてが連合して対抗する政策を合従と呼ぶ。他方、その秦と組んで他国を牽制して利益を得ようとする政策が連行である。

 その後、趙の政治家の虞卿は、この功績を理由に、平原君の領地を加増するよう王に進言することを提案する。それを知った公孫竜は夜中に平原君の屋敷に車で急行、申し出を断るようにと説得し始める。

 宰相になれたり、領地を増やせたりしたのは、趙で最も能力や実績があったからではない。たんに王の親戚だったからだけのことだ。それなのに、功績があったと厚遇を受けては、実力主義が台頭し、自分に不利益になりかねない。また、虞卿はこれを恩に着せる思惑があるに違いない。それも後々不利益になりかねないことだ、

 公孫竜のこうした説得に応じ、平原君は虞卿の提案を断っている。

 縁故主義で出世したのだから、実力主義が広がれば、失脚する可能性がある。それを考慮するなら、実力主義の道が開かれるようなことはすべきでない。これはたんなる保身の術を説いているだけだ。

 他の諸子百家は万物の根源や理想の社会、君主に求められるべき規範、乱世の中で時刻が生き延びる方法などを訴えて戦国の世を渡り歩いている。ところが、公孫竜は上司に保身を説いている。仕える上役が組織内で立場を維持できれば、自分にも恩恵があるという思惑が透けて見える。強大な秦にいかに対峙するかが最大の問題である状況において、あまりにもさもしい姿である。

 政治において弁論は重要である。それを通じて議論を深めたり、理解を共有したりできるからだ。しかし、詭弁は違う。政治の言説での詭弁はその場しのぎの保身術でしかない。保身ばかりの政治は公益よりも私益を優先し、堕落する。

 結局、公孫竜は平原君にしばらくの間厚遇されれたものの、陰陽家の鄒衍が趙に来て「至道」の説を唱えた後、遠ざけられている。国家存亡の危機にある時、白馬は馬にあらずと言う政治家など及び出ない。

 安倍晋三政権が発足して以来、質問主意書への閣議決定が示す通り、これまで数々の詭弁が発せられている。詭弁は些細なことではない。それが見逃されれば、権力は公益ではなく、私益の追求に走る。「桜を見る会」事件はそうした安倍政権の姿勢を凝縮して物語っている。詭弁は政治の堕落の表象である。それを許してはならない。
〈了〉
参照文献
浅野裕一、『諸子百家』、講談社学術文庫、2004年


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