見出し画像

I Love You, Mr. Robot─手塚治虫の『鉄腕アトム』(7)(2001)

7 Der Wille zur Macht
 手塚の描く百鬼丸やブラック・ジャックの暗さは負い目ではなく、エディプス・コンプレックスに起因している。これはアトムにも共通している。母親は自分を愛してくれたのに、父親は自分を捨てる。「いろいろな漫画がある中で、お父さんやお母さんが、子供に描いて見せるものほど、大切なものはない。子供は生まれてすぐには、言葉を話せない。覚えるものは目で見たことだ。子供というものは、つねに映像で育ってきたといってよい。また少し大きくなっても、お母さんの言葉を、頭の中の映像として思い浮かべるようになっている。そうした環境の中で、お母さんが子供のために漫画を描く、あるいはお母さんも漫画が描けると子供に思わせるのは、大きな影響を子供に与えるはずである。子供はお母さんのことを、心強く、また身近に感じることだろう」。「どんなにつたなくとも、ぎこちなくとも、お母さんがわが子に描いてやる絵には、限りない愛がある」(『マンガの描き方』)。

 手塚は、「ブラック・ルックス」(一九八七)では、ロボットが人間の母親となる事態を描き、ロボットだろうが、人間だろうが、子供にとって、母親は母親であり、大切なのは愛情だと訴えている。同時に、その中で、母親を人間だと信じ、ロボットに殺されたと思いこんだ少年がロボットの虐殺を繰り返す姿を表わすことで、愛情は、時として、憎悪さえ生み出してしまうとも付け加えている。手塚治虫の母は、手塚悦子の『手塚治虫の知られざる天才人生』によると、手塚悦子に「治は私のかけがえのない息子です。そして、ときには夫と思い、また恋人でもあるのです。仲のよいあなたたちに、ジェラシーを感じることもあるのです」と語っている。母だけでなく、妹の美奈子もそう思っていたという。父がライオスであるかどうかは別にして、母はイオカステ、妹はアンティゴネというわけだ。

 手塚にとって、「限りない愛」に支えられたマンガは生命と直結している。手塚はタニシの精子の研究で博士号を取得しているが、そのテーマの選択理由について、『ぼくはマンガ家』の中で、「人間の精子の発生の仕組みを知ろうとしてもなかなか新鮮な標本にお目にかかれない。人間の精子のできぐあいも、タニシのそれも、おなじようなものなのだ。タニシの標本から、人間のそれを類推するのである」と書いている。

 手塚は、生命の流れの中で、マンガを捕らえようとする。マンガは力への意志だ。程度の差はあるとしても、誰にでも力への意志があるとすれば、マンガは誰にでも描ける。「漫画は、だれにでもかけます」(手塚治虫『マンガの描き方』)。マンガ家は限られた人しかなれないとしても、描くことは誰でもできる。それはマンガを民主的に捉えることにつながる。手塚は「アマチュア向きの、いや、道楽、趣味、手すさび、ひまつぶしといった程度の描き方の手ほどき」という『マンガの描き方』を書く。

 力への意志に基づいた線は変身への臨界状態にある。「手塚の線は、いつも背後に不定形のものをモチーフとして隠しもっていながら、人物や機械、影や紙などをそれぞれとしてちゃんと指し示す。指し示すことにこだわればこだわるほど、逆にそうでない不定形のものを想像させるような性質の線である」。「この描線の質は、杉浦茂のいわば定常的に不定形な多義性を示している描線とは、またちがう。あくまでも、現実的で具体的なナニかをいつもちゃんと指し示していながら、ある瞬間魔法のように変身してしまうのである。だからこそ、このころの手塚にとって描線がなめらかであることが重要なのだ」(夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』)。

 杉浦茂の線はアメーバ運動をする。アメーバ運動によって、細胞の移動や捕食活動が始まり、細胞内では、原形質流動が起きる。アメーバ性生物の細胞において、中で流動するゾル状の部分を内質、外側のゲル状の部分を外質と呼ぶ。内質には核、収縮胞、多数のミトコンドリア、食胞が含まれる。アメーバが前進するとき、内質の流れは伸張する前端に達し、そこで両側にわかれて外質に変化するとともに、後端部では外質が次々に内質に変化して前方に流動する。

 一方、手塚の線は、彼自身はアメーバに親近感を抱いていたかもしれないが、アメーバ運動をしない。つねに自己組織的臨界状態にある。手塚の線はそのものをそれたらしめている何ものか、もしくは顕在性と潜在性を同時に指し示す。「人物や機械、影や紙」という記号を示す。ところが、それは生成するカオスとしての力への意志を背景にしている。あるいは、その「不定形のもの」は現在が潜在的に持っている過去と未来のことかもしれないし、三次元空間の背後に潜んでいる四次元空間かもしれないし、資本主義における貨幣や欲望、ルサンチマンかもしれないし、先進国に搾取され続けている発展途上国かもしれない。それは、線がキセロゲル化しているものの、『鉄腕アトム』の「ミーバ」(一九六六)の寓話が示している。

 アトムは体がみどり色の少年、ミーバと出会う。死にそうな恐怖を味わうと、目の前に過去の空間を呼び寄せられる超能力を持っている。ミーバは、実は、四次元の生物だったけれども、このまま四次元にいれば、長く持たない状態で生まれたため、母親の配慮により三次元で生活することになる。四次元生物は時間も空間も自由に移動でき、なおかつ姿も自由に変えられる能力がある。母親は、三次元に連れていく際に、ミーバから四次元生物としての能力を使えなくしたはずだったが、過去を呼び戻せる能力だけが、封印されていない。しかも、この能力を使うことはミーバから生命力を奪っていく。ところが、ミーバはダモレスクという男に奴隷にされてしまう。ダモレスクは、世界を買うために、ミーバを使って、過去の財宝を手に入れようとしている。

 アトムによって救出されたミーバだったが、今度は、ミーバの寿命を知っているにもかかわらず、天馬博士がミーバを使って、二〇〇三年四月七日を呼び寄せ、生まれたばかりのアトムを手に入れようとする。ミーバは、天馬博士を追いかけ、ミーバを取り戻そうとしたダモレスクとその手下からアトムを助けるために、最後には、命を落としてしまう。母親に抱かれて四次元に帰っていくミーバの亡骸を見送りながら、アトムほこうつぶやく。「かわいそうなミーバ」。

 変身性を内属した手塚の線には科学技術批判も近代文明批判も不要である。線自体がそれを含んでいるからだ。線の多義性は作品自体の多義性につながっている。手塚の作品は、いわゆるストーリー・マンガであると同時にギャグ・マンガであるように、ハイパー・ジャンルである。線に多義性を持たせられないとすれば、新たなジャンルをつくるほかない。「指し示すことにこだわればこだわるほど、逆にそうでない不定形のものを想像させる」事態は、コギト発見以降の西洋絵画にもついてまわる問題である。

 西洋絵画の歴史は、遠近法を筆頭に、記号化の歴史である。確かに、遠近法はリアルに描く技法だ。しかし、ロマン主義以降、絵画には複数の消失点が導入されている。それは中心を曖昧にする主観性の表現である。遠近法が客観的再現のためではなく、主観性を表わす記号として利用されている。記号化の形成と同時に、L・S・ペンローズやM・C・エッシャーなどのだまし絵を生み出している。この流れはマイナーだったが、二〇世紀以降の絵画史では、絵画の記号性を強調し、視覚の問題に還元する運動が主流化していく。だまし絵の最も初期にはアナモルフォーゼがあり、それはデカルト的コギトの変身である。手塚の線はコギトであろうとするがゆえに、アナモルフォーゼする。手塚の線は生成するコギトである。

 変身は、世界史的に見て、普遍的な問題であるが、最も日常的には、近代資本主義社会に内在されている。資本主義は経済合理性を透徹しようとするために、変身を反復する。商品は貨幣に、貨幣はさらに資本へと変身する。資本は人間にも、動物にも、物にも姿を変えるのだ。資本主義は合理性を証明するために、「異形」として変身を日常世界から排除しようとするが、逆に、資本主義自身の変身性が顕在化する。資本主義は合理性と変身性の両面性を持っている。資本主義は人間を物象化させ、物を人格化させる。資本主義は変身を促すが、一方では、自由に変身することを禁じる。従って、変身にはユートピア願望が潜んでいる。それは抑圧的な現実に対する自由への意志である。

 資本主義的変身を拒絶するために、劇画は不定形をはらまない線を選択する。しかし、これは他者を排除することにしかならない。結果として、「キリング・フィールド」が到来する。手塚の変身は、こうした資本主義に対するGalgenhumor的批判として、機能する。手塚は自分自身にあるユートピア的願望を肯定する。変身は他者による規定を前提にし、マンガにおいて重要な問題である。手塚の変身性の対極にいる大友は線の多義性を取捨した代わりに、過去のマンガ作品のパロディを積極的に導入することにより、別の変身を獲得する。

 『ユートピア』はユートピア国の「法律と制度に関する」話であって、それには構成力が要求される。トマス・モアは大法官であり、彼の法律家としての認識がそれを可能にする。ユートピアは、本来、現実に対する批判とその改革を目的にしている。「ユートピアとは、偽物の一つもない社会をいう。あるいは真実の一つとない社会でもいい」(『ユートピア』)。

 ユートピアは諷刺的・百科全書的であり、ア・プリオリなものは認めない。それは実際の社会の前提条件を明らかにする。現実の省略・誇張・変形であり、ユートピアを現実世界と結ぶものはパラドックスである。ユートピアは問題の解決法を提示するものではなく、それが所有している意味を展開するものである。トマス・モアは、メニッポスの後継者、ギリシアの諷刺作家ルキアノスを好んでいる。ユートピアにとって真偽ではなく、公式化されている問いに対してその世界が適切であるか否かが重要である。それは虚像を実像と重ね合わせたり、虚像を実像と言いくるめたりするのではなく、虚像をあるがままに見る人を楽しませる。ユートピアは、そのため、倫理的でなければならない。

 「うそつきロボット」(一九六四)は、嘘をいつもつくロボットが登場する。そこで、倫理的な嘘は許されるという結論が導き出されている。「マンガにとって、ウソはだいじなものだ。ことに、絵のウソは、どうしても必要なのである」(『マンガの描き方』)。混沌としだ時代だったルネサンスの芸術の特徴の一つは、福音書にはない「笑い」を中心にすえたことにある。教会の権威が絶対であった中世には「笑い」は不謹慎なものである。トマス・モアはリアリズムの完璧さを顧みない。ただ笑いの持つ倫理的攻撃性を直視し、すぐれた諷刺を書いている。

 手塚は、『マンガの描き方』の「あとがき」で「漫画というものの本質」を「諷刺」と言っているように、メニッポス的諷刺を描いてきた。手塚がマンガでコギトを見出せたのは、この諷刺への意志が強かったからである。『方法序説』において、「私がそのように一切が虚偽であると考えようと欲する限り、そのように『私』は必然的に何ものかであらねばならぬと気がついた」と書くデカルトは、方法的懐疑の結果、”cogito ergo sum”を導き出す。けれども、手塚はそこでとどまらない。それさえも諷刺にする。コギトはさらに何ものかへと変身する。手塚にとってコギトは実体ではなく、作用である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?