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他人行儀としての挨拶(2015)

他人行儀としての挨拶
Saven Satow
Jul. 08, 2015

「みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が『先生お早うございます。』と言いましたのでみんなもついて、『先生お早うございます。』と言っただけでした。『みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。』先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻もどってきました。
宮沢賢治『風の又三郎』

 挨拶は内容ではなく、発せられることに意味があります。人間関係の確認だからです。 出会いの挨拶を非日本語人に教える時、朝は「おはよう」、昼なら「こんにちは」、夜になったら「こんばんは」とするでしょう。けれども、前者と後者二つでは使われる人間関係に違いがあります。それらは他人行儀として用いられるからです。

 「こんにちは」や「こんばんは」は家族や友人、恋人の間で使われません。親父が息子に「こんにちは」と言ったら、認知症が疑われるに違いありません。この二つは親しい間柄では使われません。それどころか、職場で同僚や上司に対しても発せられることもないのです。

 シフト勤務を考えてみましょう。朝、出勤した際に、「おはよう」や「おはようございます」とかわされることはあるでしょう。けれども、午後に出勤して「こんにちは」、夜間勤務で「こんばんは」などと口にしません。かつていわゆる業界で時間帯を問わず「おはようございます」を挨拶に使っていたのは決して奇妙ではないのです。

 「こんにちは」や「こんばんは」は見知らぬ人への挨拶として使われます。また、顔見知りであっても、家を訪問する際に発せられます。人間関係には上下と親疎、内外があります。「こんにちは」や「こんばんは」は、このうち、内外が意識される場面で口にされる挨拶です。最初から内外だけを前提にした単語ですから、両者には「ございます」がつきません。

 それではなぜ「おはよう」は内外の意識と関係なく使われるのか疑問になります。けれども、実は、この「おはよう」も戦前には他人行儀として家族や友人の間で用いられていません。

 それを物語るのが宮沢賢治の『風の又三郎』における次の記述です。

「来たぞ。」と一郎が思わず下にいる嘉助へ叫ぼうとしていますと、早くも三郎はどてをぐるっとまわって、どんどん正門をはいって来ると、
「お早う。」とはっきり言いました。みんなはいっしょにそっちをふり向きましたが、一人も返事をしたものがありませんでした。
 それは返事をしないのではなくて、みんなは先生にはいつでも「お早うございます。」というように習っていたのですが、お互いに「お早う。」なんて言ったことがなかったのに三郎にそう言われても、一郎や嘉助はあんまりにわかで、また勢いがいいのでとうとう臆おくしてしまって一郎も嘉助も口の中でお早うというかわりに、もにゃもにゃっと言ってしまったのでした。

 登場人物は友達同士では「お早う」と交わさないと言っています。児童が先生に対して「お早うございます」と発するのですから、これは上下関係を意識する時に使われています。当時の「お早う」は現在と用法が違うのです。

 親しい関係であれば言う必要もない挨拶を転校生が同級生にかけます。疎遠である人が親密さをアピールしているわけです。親しければ、警戒心も持ちません。顔見知りでないジ人物が親しくなるためのとっかかりが「お早う」です。

 しかも、それは一日の始まりとして発せられています。ここから家庭と違う生活がスタートします。それは近代的な学校の世界です。「お早う」は近代的人間関係を示すのです。

 賢治は岩手県の花巻出身です。花巻・稗貫地域では戦後に入ってもしばらくは親しい人の間で「おはよう」と交わす習慣は確立していたとは言えません。

 「おはよう」と挨拶する習慣は、戦前、政府が主導した啓蒙活動で市井に定着しています。人々がいつの間にか何となく使い始めたわけではないのです。

 近代以前、人々の移動は制限されています。職業選択の自由もありません。多くの人は生まれ史だった共同体の中で暮らし、亡くなっていきます。人間関係は地縁・血縁の顔見知りにほぼ限定されます。他人行儀は必要なく、挨拶などしなくてもすみます。

 ところが、近代に入りと、移動や職業選択の自由が大幅に認められます。見知らぬ人と接する機会が格段に増えています。そこで無用なトラブルを避けるために挨拶が重要視されます。政府が挨拶の啓蒙活動を始め、人々の間に挨拶の習慣が徐々に浸透していきます。挨拶は近代の制度の一環です。

 今でも時々子どもたちを対象にあいさつ運動が地域で実施されることがあります。また、体育会は新入部員に挨拶を厳しく叩きこみます。その際の挨拶の位置づけは道徳規範です。けれども、挨拶は社交性であっても、それ自体に道徳性はありません。挨拶のできない詐欺師はいないからです。挨拶の無理解はこうした輩を喜ばせるだけです。

 なお、「親しき仲にも礼儀あり」は、本来、自他の区別なくしていると、トラブルが増えることを警告する処世術で、道徳的教えではありません。今日の一般的理解は近代的な解釈に基づいているのであって、伝統的ではありません。伝統的社会の人間関係は挨拶を必要としません。挨拶は他人行儀だからです。

 「おはよう」は、現在、日本語において最も汎用性の高い挨拶の一つです。「ございます」の有無で上下や内外、親疎も言い表せます。人が「関係」を今まさに確認したい時に発せられます。「おはようございました」などありません。無関係でいたい時に、この挨拶は口にされません。

 でも、「おはよう」と声をかけられて嫌な気はしないものです。家族や友人、恋人とでさえ他人行儀の挨拶が使われる時代に毒されたことでもありますが、見知らぬ人と接する機会が多い現代社会では仕方がないでしょう。
〈了〉
参照文献
宮沢賢治、『童話集 風の又三郎』、岩波文庫、1951年

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