見出し画像

牧伸二、あるいは4行詩の諷刺詩人(2013)

牧伸二、あるいは4行詩の諷刺詩人
Saven Satow
Apr. 30, 2013

「牧伸二は76歳、高齢社会の仲間だよ。だけど、虫歯が一本もない。だから、全部入れ歯だよ。あ~あ、やんなっちゃった、あ~あ驚いた」。
牧伸二

 その理由はわかりません。あれこれ詮索することは後知恵です。ただ、2013年4月29日に亡くなった牧伸二は、最近、「社会諷刺がうけなくなった」といった旨を漏らしていたそうです。これが悩みの一つだったことは確かでしょう。

 若い頃、壁にぶつかって舞台から逃げ出し、師匠の牧野周一が穴埋めしたことはあまりにも有名です。しかし、牧伸二は、その時と違い、時代の変化を感じています。死の理由であったかどうかを言いたいのではありません。東京演芸協会会長まで務めた芸人を苦しめた現代と社会諷刺のことを考えずにはいられないのです。

 このウクレレ漫談家の芸は「やんなっちゃった節」と呼ばれます。ハワイアンの『タフワフワイ』をウクレレで弾きながら、世相を諷刺した4行詩を口ずさみ、「あ~あ、やんなっちゃった、あ~あ驚いた」と締めるスタンダップです。社会諷刺が笑いをとれなくなれば、この芸は成り立ちません。こうした状況に対して、4行詩の諷刺詩人はレトリックではなく、「あ~あ、やんなっちゃった、あ~あ驚いた」と字義通り思うこともあったでしょう。

 確かに、近頃、社会諷刺が笑いとして成立していません。「あ~あ、やんなっちゃった、あ~あ驚いた」には非常識さに対するニュアンスがあります。ところが、少し前なら常識を疑われるような公人の粗暴な言動がさしたる抵抗もなく世間に受け入れられています。けれども、これを価値観が相対化したために、常識が通じなくなったと解するのは早計です。見るべきはその粗雑さです。

 歴史的に諷刺が最も盛んだった時代の一つは18世紀の欧州です。この時期は「啓蒙の世紀」とも「批評の世紀」とも呼ばれます。ジョナサン・スウィフトが『ガリバー旅行記』を表わした時代と言えば、イメージできるでしょう。当時の作品を読むと、諷刺とは何かがよくわかります。

 諷刺は社会を記号化した表象として扱います。それが描くのは現実の再現ではありません。傾向は外向的・知的、扱い方は客観的です。この客観的は主観的ではないという意味です。登場人物は、病気や怪我の分類よろしく、社会的・学問的類型に従っています。展開は因習的ではなく、極めて大胆で、時として天衣無縫や破天荒です。

 諷刺は批評ですから、知性の笑いです。それが受け入れられなくなったとすれば、社会が反知性主義に陥っていると考えられます。

 知性の働きは、怒りに代表される情動に駆られた時、低下します。情動に乗っ取られた心情は狂信です。反知性主義は狂信だということになります。

 チャーリー・チャップリンの『独裁者』は史上最高の諷刺の一つです。しかし、ナチズムの狂信者にとってあれは笑えません。むしろ、怒り、すなわち情動を覚えることでしょう。ナチスは苦境にあるドイツ経済を口実に選挙で政権を掌握し、その後、狂信を背景に、民主主義を破壊しています。狂信が社会に蔓延すれば、諷刺は成り立ちません。

 芸人やコメディアンはちょっとした諷刺を差し挟むことも少なくありません。また、ザ・ニュースペーパーのように、今では社会諷刺を専門とするグループも活動しています。牧伸二は半世紀以上も社会諷刺を続けています。若手の芸人と比べて穏やかな語り口調ですが、実は、彼ら以上に先鋭的なのです。

 牧伸二がこれほど長く継続できた理由に芸の質の高さがあることはもちろんです。と同時に、社会諷刺を受け入れる空気が世間にあったことも否定できません。

 今の日本で社会諷刺が受け入れられないとしたら、狂信がはびこっている知らせです。牧伸二は半世紀も続けてきて、最近を社会諷刺が難しい時代だと感じています。ならば、牧伸二の死を悼むだけでは十分ではありません。彼の苦悩を自分のこととして引き受け、社会諷刺が楽しめるような時代にしていくことが愛すべき漫談家の追悼にもなるのです。

 本邦初公開、やんなっちゃった節はすべて、どんなことでも4行詩に徹しているんですよ。
 デビュー当時のヒット作は「フランク永井は低音の魅力、神戸一郎も低音の魅力、 水原弘も低音の魅力、牧伸二は低能の魅力」とこんな感じです。無駄な修飾語を一切省いて、事実だけを並べ、観客にある特定の社会的なイメージを想起してもらう。最後、自分がバカになり、笑いが生まれる。
 笑いってお客様の共感なんですよ。
 歴代の首相の名前を並べただけじゃ単なる暗記の自慢話。「鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦、そして牧伸二」と並べると、今の社会をアピールします。
 マグロの一生だって、泳いで1匹、釣れたら1頭、市場で1丁、裂いたら一ころ、切り身で1さく、刺身で1切れ、スーパーで1パックとありようがまるで異なります。
 この言葉の豊かさを4行詩に凝縮していくのです。ぼくは50年間、頭の中に4行詩を持ち歩いています。
 この言葉の妙味ってぼくたちの宝物じゃないですか。
(牧伸二)
〈了〉
参照文献
「人生の贈り物 『やんなっちゃった』は4行詩」、『朝日新聞夕刊』、2011年11月25日

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?