平野謙(5)(2005)
9 文学の地の塩
平野謙は、文学の同時代性を意識して、アクチュアリティ説を唱えている。一九六一年九月、『文芸雑誌の役割』と『「群像」15年の足跡』を発表し、純文学論争を巻き起こす。彼は、現代の文学は全体的に俗化あるいは中間小説化しているが、戦後一五年の文学史は純文学更新と崩壊の過程であり、これは横光利一の『純粋小説論』以来の傾向であって、「純文学」という概念自体が大正末期から昭和初期に形成された歴史に基づき、文芸雑誌や総合雑誌を中心に文学が発達した時期であると訴えている。これは、松本清張を支持した通り、産業としての文学を念頭に置いた意見である。
今日のメディアの成長を考慮するなら、純文学の擁護以上に、新たなジャンルを開拓すべきだという指摘は現代小説におけるジャンルの復活に呼応しており、何も奇妙ではない。かつてエドガー・アラン・ポーやジョゼフ・コンラッドが書いた小説を現代の作家は目指している。高度消費社会において、キャンベル・スープの缶を芸術作品にしたアンディ・ウォーホルを代表にするポップ・アートはこうした議論のアナクロニズムを冷笑する。”It's the place where my prediction from the sixties finally came true: ‘In the future everyone will be famous for fifteen minutes’. I'm bored with that line. I never use it anymore. My new line is, ‘In fifteen minutes everybody will be famous’"(Andy Warhol “Andy Warhol's Exposures”).
映画に至っては、ビッグ・スターと大物監督を使いつつ、思いっきりB級映画仕立てのバイオレンス・アクションとラブ・ロマンスを絡めたロード・ムービー『トゥルー・ロマンㇲ』の脚本で大いに名を売ったクエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』のように、B級映画の題材をB級映画のスタイルで意図的に撮り、高い芸術性と商業性を兼ね備えた作品が登場している。平野謙が探していたのは三文小説の題材を三文小説のスタイルで意図的に書いて、高い芸術性と商業性を兼ね備えた作品である。
Jules: What country you from?
Brett: What?
Jules: "What" ain't no country I know! Do they speak English in "What?"
Brett: What?
Jules: English-motherfucker-can-you-speak-it?
(Quentin Tarantino “Pulp Fiction”)
このB級文学の擁護者は、そのため、評価が決まった古典ではなく、同時代的な作品に眼を向け、その可能性を読む。彼は、『毎日新聞』上で、文芸時評を一〇年以上に亘って担当している。そこには日本近代文学へのカルトな愛情がほとばしっている。それは彼の交渉への認識から生じた教育的な読解が見られる。このカルトな批評家はいかなる作品であっても可能性を探求する。その作家の潜在性と文学全体の文化としての将来性という二つの可能性を平野謙は見つける。日本近代文学を維持させていくには新人作家の登場が欠かせない。彼は大江健三郎や倉橋由美子ら多くの若手作家を見出している。ほとんどが後に振り返られることなく、もちろん、B級作家として消えていく。しかし、それは文学の「地の塩」である。
“説得(誉める)と共感の交渉スタイル”は学校でも用いられる。一般に、アメリカの学校教育はこのスタイルで行われている。教師たちは子供たちに対して『すごいぞ』『素晴らしい!』を連発する。(略)子供たちは、実に素直で伸び伸びとしている。まさに誘導と共感のスタイルである。
これに対して、日本の学校では後で延べる”強制と共感のスタイル”か”脅しと反感のスタイル”で教育が行われているように思われる。教師たちは「お前のためにいっておく、そんなことでは、東大に行けないぞ!」と叱咤激励し、子供たちはもくもくと勉強する。これは教育ではなく、訓練である。「手を抜くな!そんなことじゃ、敵に撃たれて死んでしまうぞ!死にたくないなら、その柵を飛び越えろ!」とどなる米軍の新兵訓練と大きな差はない。
学校教育において、長所を伸ばそうとするアメリカと、短所を矯正しようとする日本。アメリカ人は教育と訓練をはっきり区別しているようであるが、日本人は区別していないように見える。
(中嶋洋介『交渉力』)
「うーん。どうしちゃったんだろう。成績がほら、こんなに下がっているんだけども、まあそれは確かに、人間誰だって調子がどうも出ない、スランプだ、という時もあるんだからね、きみの場合もいわゆるそういうことかもしれないと先生思うんですね。まあこれは先生見てて思うんだけど、うーん、きみは本当はやればもっとできる、成績が上がって当然というひとつの基本的な学力的なものを十分に持っているわけで、ただどうなんだろう、それがひとつ結果的な面に出てきていないだけなんですね。ですからやればできるはずなんです。もう少し努力をしてみせるというね、そのことが先生、きみのトータル的な学力を大きくのばすことになると信じているんだ。うん。まあ、この話はこれくらいにしようね。とりあえずその元気で、明るく学校のですね、生活を楽しんでいってほしいと、先生は思っています」(清水義範『いわゆるひとつのトータル的な長嶋節』)。
さらに、平野謙は、B級文学こそが「文学の地の塩」であり、それは今や小説ではなく、文芸評論であると『文藝評論家とは』において、次のように述べる。
新聞や雑誌に原稿を依頼されるとき、その末尾に編集者によって「筆者は文藝評論家」と注されることがある。そうした場合、私はしばしばふうむ、ブンゲイヒョウロンカか、とつぶやくことがある。私は東京の有名な書店の店員が文芸評論という普通名詞を全然理解しない経験にぶつかったことがある。その男はハッキリいった。「文芸評論?──雑誌はむこうのたなにならんでおりますが」と。
作家、小説家という職業ならすぐ世間にとおる。学者という社会的身分も知れわたっている。しかし、文藝評論家とは?作家でも学者でもない、ウロンな職業にすぎない。私の故郷きってのインテリは私にいった、「あんたも政治評論家をやっとりあ、よかったになあ」と。
本多秋五が《文学》二月号に百枚ほどの作家論を発表している。創見にみち、筆者がこの数年来苦労して探求している近代文学史の骨骼さえすけてみえる力篇である。私はこの作品にかけられた歳月、発表にいたるまでの経緯、それにしばられた稿料のたかまでおおよそ推量できるが、その推定には怒りに似た感情をともなわざるを得ない。
もはや小説書きは「逃亡奴隷」ではない。文学の地の塩だったその栄誉は、今日文藝評論家の手に移りつつある、というのが近来の私の感想だ。
日本近代文学は私小説というB級文学を「地の塩」として形成されてきたが、もはや小説家エスタブリッシュメントと化している。「文学の中の暗い部分、悪の部分というのは、昔だったら当たり前だったものです。たいていの親はわが子が文学とか哲学などに触れなければいいと思っていました。本を読む子というのは、一種の不良だったんです」(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』))。むしろ、これからの文学を生み出していくのは批評である。批評は、社会的に、小説と比較して、B級の文学と扱われている。そのB級性に文化を育んでいくパワーがある。平野謙は批評においても三文批評、すなわち「パルプ・クリティシズム(Pulp Criticism)」を志向していたのであり、批評はそうである必要がある。批評は現代文学の「地の塩」にほかならない。
「僕が、二十代にものを書き始めたころ、江藤淳という批評家が僕に冗談にこういうことを言ったことがあるんです。批評家というのは、背が高く、ハンサムで、金がなければいけない。そして、小説家の中間ぐらいの売行きの人と同程度に本が売れてなくちゃいけない。なぜかというと、僕もその後に気づいたんだけれども、文芸雑誌いわば文壇の中では、圧倒的に小説中心主義なのです。なにはともあれ小説家が偉い。批評家というのはその周囲にいる存在であって、中には小林秀雄みたいな別格の人もいるけれども、たいていは小説について何か論じたり、つまりは、使われている身分ですね。ていのいい広告屋なのです。そういう立場にいるんだなというのを、かなり実感したことがあります」(柄谷行人『政治、あるいは批評としての広告』)。
この逃亡奴隷の中の「逃亡奴隷」平野謙が、人生最後の仕事として、「リンチ共産党事件」を検討し、一九七六年六月、『「リンチ共産党事件」の思い出』を刊行する。一九三三年、当局は共産党に対するかつてないほどの厳しい弾圧を始める。活動家数千人が検挙され、岩田義道と小林多喜二が特高警察の拷問によって虐殺、野呂栄太郎も翌年の二月には獄中で病死してしまう。
この事態を受けて、組織中央への当局からのスパイ潜入を確実視した宮本顕治等中央委員四名が小畑達夫と大泉兼蔵を厳しく査問する。その結果、小畑が急死し、大泉がスパイだと自白して遺書を書き、自殺の用意をしたものの、脱走して警察に逃げこんでいる。これが、三四年一月、「リンチ共産党事件」として新聞報道される。平野謙は、この事件を知り、「口にはいえぬようなショック」(『文学・昭和十年前後』)を受け、これが転向の一要因となる。
戦時中、荒正人や埴谷雄高、佐々木基一、坂口安吾らと探偵小説の犯人当てに興じていた彼は、『「リンチ共産党事件」の思い出』の中で、殺人はともかく、小畑が官憲のスパイだったことは間違いないと主張している。小畑はかつて平野謙の下宿に半月以上居候し、着替えや交通費の面倒を見ていたが、市ヶ谷刑務所長の娘である根本松枝をハウスキーパーとし、いつの間にか、共産党中央委員になりあがっている。三三年四月に、横浜で、彼女も逮捕される。この平野謙が「別れの盃をかわした」女性は、当時、日本労働組合全国協議会(全協)の日本金属フラクの中村亀五郎の内妻であり、銀座のカフェのウェイトレスとして大金を貢いでいると報道されている。
「考えてみれば人生なんて不思議なことばかりだなあ、テレーズ。ぼくはバスチャンといっしょにカナダへ行こうとパリを発った。この一月というものカナダのことしか考えなかった。そして、汽車に乗っているうちに船もカナダも頭に描いてみた。
だが、ここへ着いてみると予期したように出発できやしなかった。そして、こうしてここの家に半月から滞在している。
ねえ、ぼくはバスチャンのように出発のことだけしか考えていないと思うかい?バスチャンのように目的から目を放さないと思うかい?
そうじゃない、ぼくは……たとえば、きみをじっと見まもっているのだよ。いっしょにいるのが、今では本当にうれしいんだ……」
こうした告白の仕方でセギャアルはテレーズに近づき、二人の仲はとてもうまくいきそうに見える。
だが、セギャアルは心やさしすぎて、テレーズにキスひとつすることが出来ない。彼にはテレーズと自分とが結ばれることは、人生の最大の事件のように思われ、夢のなかでテレーズの笑顔を思い浮かべてはしあわせになっているのである。
そのうちに──ある夜、バスチャンは酒を飲んでいて、テレーズと二人で冗談を言いかわしながらキスをしてしまう。
「発つ前には何度もキスしてやるよ。もしもシャンペンと同じくらいキスが好きならね」
そしてそのまま子猫でも抱くようにして自分の部屋へテレーズを連れて行ってしまうのである。「セギャアルには黙ってて」というテレーズの言葉に耳さえもかさず。
バスチャンとテレーズは、セギャアルに心を残しながら、二人だけでカナダに発ってしまい、恋人と友人を同時に失ったセギャアルは黙って海を見つめている。
バスチャンやテレーズに、「人生がいつまでも面白いもんだと思っているのかい?」って言ってやりましたよ、と老人が言う。
セギュアルは聞く。
「で、あいつはなんて言いました?」
「だれが?」
「テレーズが」
「知らないね」と老人。
「笑ってましたか?」と聞きながら、セギャアルは目頭が熱くなるのをおぼえるのである。海に遅れて発つことは人生に遅れて発つことだと、はじめて知った苦い心で。
(寺山修司『水夫と港の女─「商船テナシチー」のテレーズとセギュアル』)
〈了〉
参照文献
柄谷行人、『近代日本の批評』全3巻、講談社文芸文庫、1997年
同、「半文学論」、講談社文芸文庫、2012年
竹田青嗣、『<世界>の輪郭』、国文社、1987年
同、『世界という背理――小林秀雄と吉本隆明』、講談社学術文庫、1996年
寺山修司、『寺山修司青春作品集4 さよならの城』、新書館、1983年
同、『さかさま文学史 黒髪篇』、角川文庫、2014年
中嶋洋介、『交渉力』、講談社現代新書、2006年
平野謙、『平野謙全集』全13巻、 新潮社、1974~77年
水谷加奈、『On air―女子アナ恋モード、仕事モード』、講談社文庫、2001年
森毅、『世紀末のながめ』、毎日新聞社、1994年
同、『あたまをオシャレに』、ちくま文庫、1994年
同、『ゆきあたりばったり文学談義』、ハルキ文庫、1997年