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ジョン・フラム信仰に見るアメリカ(2008)

ジョン・フラム信仰に見るアメリカ
Saven Satow
Mar, 17, 2008

“God Bless America!”

 今日の国際社会には、親米や反米、嫌米などアメリカに対するさまざまな感情が渦巻いています。50年代や90年代のような圧倒的な影響力は薄れたものの、アメリカが依然として国際政治・経済における中心的なプレーヤーであることは否定できません。アメリカとの距離感をどうとるかは、各国ならびに国際機構にとって、頭を悩ます課題であり続けています。

 このアメリカに対して独特のスタンスをとっている国があります。それが南太平洋の「バヌアツ共和国(Republic of Vanuatu)」にある「タンナ島(Tanna)」です。中心都市イマフィンでは、毎朝、星条旗が高々と掲揚されます。しかし、ここに米軍基地があるわけでも、アメリカの狂信的愛国主義者がブート・キャンプをしているわけでもありません。人々がアメリカを「神」として信仰しているからです。ここはアメリカが神になった島なのです。

 この島で、アメリカは救世神「ジョン・フラム(John Frum)」と呼ばれています。ジョン・フラムの言葉をまとめた書物を指導者が大切に保管しています。毎年2月15日、「ジョン・フラム・デイ(John Frum Day)」という盛大な祭が開催されます。このジョン・フラムはアメリカ人の救世主です。島の男たちは胸に「USA」と記し、M1ガーランドを模したと思われる竹製のライフルを肩に担いで、規律正しく、米海軍式の行進をします。その後、島の各地からカラフルな民族衣装を身にまとった人々が集まり、歌い踊り、ジョン・フラムを讃えるのです。この模様のダイジェストはYou Tubeでも見られます。

 バヌアツ共和国は83の島からなり、人口20万人ながら、使用言語は100以上という多様な文化をしています。産業は自給自足の農業が中心ですが、近年、観光産業が急速に発展しています。首都ポートビラには国際空港が開設され、インターネットも通じています。

 他方、人口2万人程度のタンナ島では、公の場や街に出る際には襟付きのシャツやジーンズなど洋服を着ますが、住居やその周囲の森にいるときは、ペニス・サックをしている人も少なくありません。もちろん、石器時代さながらの生活・知識・思考をした人たちというわけではありません。日本からの観光客も訪れるなど島外との交流も進んでいます。日本に自宅では浴衣姿ですごしている人がいるように、こうした伝統的な生活様式も残っているのです。

 タンナ島が西洋と接触したのは、多くの南太平洋諸島同様、クック船長の頃です。ジェームズ・クックはイギリス海軍船レゾリューション号を率いて、1774年8月にタンナ島東岸にやってきます。彼はそこを「ポート・レゾリューション」と名づけ、上陸しています。

 19世紀頃に南太平洋の島々の大半が欧州の支配地域になります。貿易港が整備され、大勢のヨーロッパ人がキリスト教や病気、近代文明と共にやってきます。列強の植民地政策は現地人を抑圧して伝統的文化を衰退させ、キリスト教への改宗を促し、新たな感染症によって人口が減少していきます。

 このような状況下、白人が船や飛行機で運んでくる積荷、すなわちカーゴ(Cargo)を獲得することによって、恵みと救いのもたらされる新時代が到来するという信仰が生まれます。人々は神々や先祖に白人を追放するよう祈願し、カーゴが自分たちの手に届くようにさまざまな儀式を始めています。

 こうした信仰を「カーゴ・カルト(Cargo Cult)」と呼びます。特定の個人、すなわち予言者がトランス状態ないし夢の中で白人と現地人の権力関係の転倒の啓示を神から受け、それを人々に教示するという携帯をしています。外観はそうなのですが、島々でそれぞれ様相が相当違います。キリスト教も元々はわれわれの宗教だったのに、白人たちがそれを奪ったのだという信仰もあります。文化人類学的にカーゴ・カルトの研究は非常に興味深いものです。

 このような信仰自体は、歴史的に見て、南太平洋に限定されません。アメリカ大陸の文明にもあります。それほど特殊な現象ではありません。

 植民地政府はいくつかの村に教義が共有され始めると強制的に解体しています。しかし、それが新たな運動を連鎖させる有様で、力による封じ込めは功を奏しません。こうした運動のピークは戦間期です。その後は、当局による弾圧だけでなく、いっこうに実現しない予言に人々が愛想をつかすなどして、多くの地域では現実的で穏健な解放運動へと転換していきます。

 しかし、タンナ島では予言が実現するときがやってきます。

 第二次世界大戦が太平洋に拡大し、日本軍の侵攻に備えるため、ある日突然、タンナ島にアメリカ軍が進駐しにきます。大量の物資を満載した船で現われた彼らの中には、自分たちと肌の色が似た兵士もいます。 しかも、彼らは工業製品をもたらしただけではありません。島民たちに医療活動を行っています。島民たちはアメリカには「ジョン・フラム」という神がいて、自分たちに恵みと救いを施すために、この男たちを送ってきたのだと信じ、アメリカ人を信仰の対象とし始めます。

 ヒポクラテスの誓いに「悪くするな(Not harmless)」とあります。医者は治すことができなくとも、悪くだけはしてはいけないという意味です。アメリカは戦後介入する度に、これを破ってきましたが、この島では守ったようです。

 「ジョン・フラム」の語源に関しては、特定の人物のことではなく、「アメリカからやってきた(米兵の間に多い)ジョン」、すなわち「ジョン・フロム・アメリカ(John from America)」ではないかとフィル・マーサーがBBCニュースで紹介しています。

 島民はジョン・フラムを信仰するため、米軍の行動を模倣し始めます。星条旗を掲揚し、ココナッツと藁で通信機や電波塔をつくり、無言のジョン・フラムと交信して、胸に「USA」とボディ・ペインティングをして従に見立てた竹の銃を肩に担いで行進・訓練をするのです。

 けれども、戦争が終わり、米軍が去る日がやって来ます。そのとき、ある兵士がこう言ったと伝えられています。「アイ・シャル・リターン(I shall return)」。

 以降、島民たちはこの言葉を信じ、ジョン・フラムを待ち続けることになるのです。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Old soldiers never die; they just fade away.)」と発していれば、歴史は変わっていたかもしれません。

 タンナ島以外でも、駐留軍を信仰対象としたカーゴ・カルトはあります。管制施設や滑
走路をつくり、カーゴを満載した飛行機の再来を待ち望んでいます。

 けれども、予言はいつまで経っても実現しません。おまけに、カーゴさえ届けば万事うまくいくと考えていたため、先進国でも見られることですが、建設事業に専念し、農業をおろそかにした結果、島の経済は破綻してしまいます。宗教指導者は信用を失い、多くのカルトが衰退していきます。

 タンナ島もほぼ同様の事態に陥ります。しかし、それが反政府運動へと転換していきます。ジョン・フラムが戻ってこないのは植民地政府や教会が妨害しているからだというわけです。73年には、とうとう大規模な抵抗運動へと発展します。そこで、フランス人のアントワーヌ・フォーナリが島民たちと交渉にあたることになります。ところが、この入植フランス人はすっかり島民から信用された挙げ句、ジョゼフ・コンラットの『闇の奥』さながらに、島の王に選ばれ、何と、74年3月、タンナ国の独立を宣言するに至るのです。

 フォーナリは国王として仏大統領ジョルジュ・ポンピドゥーと英女王エリザベス2世宛てに、独立の承認と8日以内に駐政府関係者の退去を求める書簡を送ります。両政府共に無視し、6月末、スエズ動乱のときのように、英仏連合軍を上陸させ、指導者らを逮捕、フォーナリも仏領ニューカレドニアへ追放されます。

 これで収束するかと思われたのですが、そうは問屋が卸しません。74年、エリザベス女王がエジンバラ公と共に、タンナ島を含むニューヘブリデス諸島を訪問します。その際、エジンバラ公を見た島民は、ジョン・フラムの兄弟がやってきたと狂喜乱舞します。何しろ、公は海軍の白い制服を着ています。それは大戦中に見たアメリカ海軍の姿を思い起こさせます。ジョン・フラム運動のリーダーはエジンバラ公宛てに竹の銃を献上し、そのお返しに、公がそれを手にした写真を下賜してくれるようお願いしています。

 その後、英連邦の一員としてバヌアツが独立を決めたのですが、フランス人入植者がジョン・フラム運動のリーダーと手を組んで反乱を起こし、80年1月、「タフェア国」の独立を宣言します。「タフェア」は、タンナ島、フツマ島、エロマンガ島、アナトム島、アニワ島の頭文字をつなげた造語です。

 けれども、5月末に英国ス軍が上陸すると、あっけなく反乱は鎮圧されてしまいます。彼らが贈物の銃を掲げたエジンバラ公の写真を見せたからです。

 このような経緯を経てなおジョン・フラム信仰は続いているのです。ジョン・フラム信仰には植民地主義の影があります。多くのカーゴ・カルトが消えていく中、ジョン・フラム信仰が残った理由には、それが反植民地闘争や民族解放運動、独立運動と結びついた点もあるでしょう。バヌアツの議会にもジョン・フラム信仰の信者の選出議員もいます。合衆国がなくなっても、存続しているかもしれません。

 しかし、この件における最大のポイントはアメリカを信仰対象としている点です。この話を知って、驚いたり、笑ったり、顔をしかめたりする人は少なくないでしょう。もしこれがイギリスやフランス、オランダ、日本、オーストラリアだったら、そこまでの反応はないに違いありません。

 おそらく、それはアメリカに対し複雑な思いを持っているからです。20世紀から現在を含めて、アメリカは政治・経済・社会・文化に、よしにつけ悪しきにつけ、強力な影響を及ぼしています。その意味で、20世紀は「アメリカの世紀」と呼んで過言ではありません。同時代人として人々は、そんなアメリカに言葉では表わし難い感情を抱いています。

 ルサンチマンもなく、そのアメリカを信仰している光景を目にしたときの反応は、米国に対する自らの思いの顕在化にほかなりません。同時代を生きる者にとって、アメリカとの適切な距離をとるのは難しいものです。ジョン・フラム信仰は屈折した現代人には想像すらつかない距離感です。そう考えると、島民の距離のとり方は極めてうまいと言わざるをえません。屈折を押し隠そうとしながら接している日本の政治家や官僚など、彼らと比べて、滑稽でさえあります。米国人自身も含めて現代人は、彼らの距離を基準にして、アメリカとのそれがこれで適当なのか測り直すべきだと教えてくれているのです。
〈了〉
参照文献
増田義郎、『太平洋─開かれた海の歴史』、集英社新書、2004年
ピーター・ワースレイ『千年王国と未開社会 メラネシアのカーゴ・カルト運動』、吉田正紀訳、紀伊國屋書店、1981年
Phil Mercer, “Cargo cult lives on in South Pacific”, BBC News, Feb, 17. 2007
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/6370991.stm


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