見出し画像

ソクラテスから見る政治番組の司会者(2006)

ソクラテスから見る政治番組の司会者
Saven Satow
Nov. 20.,2006

「粉挽きは考える。『麦はわしの風車を回すためだけに育つ』」。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

 思想史に一人の卓越したトーク・ショーの司会者がいます。その名前をソクラテスといいます。彼は、政治的な思惑に基づいた裁判の被告として、自身を「食べ過ぎて太ってしまったアテナイという名馬にまとわりつく虻」(『ソクラテスの弁明』)と譬えています。

 ソクラテスの名司会者ぶりはプラトンの対話編でうかがい知ることができます。その中で、彼は知識を与えることではなく、真理を想起させるのが自分の役割だと言っています。相手の意見を受けとりながら、質問を繰り返し、その矛盾を明らかにする背理法を用います。それを通じて知らないことを知らしめるのではなく、知っていることを気づかせるのです。これは、一般には、「産婆術」と呼ばれています。

 ソクラテスの問答法はコミュニケーションが一方通行ではなく、両者の交流過程そのものだということをよく表わしています。

 ところが、現代日本の司会者の姿勢は、残念ですが、産婆術から程遠いものです。テレビ朝日系列で、政治家をゲストに迎えるトーク・ショーとして『サンデープロジェクト』や『朝まで生テレビ』、『たけしのTVタックル』等が放映されています。しかし、その司会者を現代のソクラテスと見なすのは古代ギリシアの偉大な思想家に失礼というものです。

 司会者に求められるのは自分の考えをひけらかしたり、その政治的影響力を誇示したり、親しい政治家をひいきしたり、傍若無人に振舞ったりすることではありません。かつてフィクサーと呼ばれる陰の大物がいて、豊富な資金力・人脈を通じて政財界に影響力を及ぼしたものですが、今では司会者が新たな黒幕なのかという印象を受けてしまいます。

 自分の考えを述べることは大切ですが、政治家は、正直、ルールのない自己主張をしがちです。人の話をろくに聞かないで、言いたいことだけを延々と放言し、聴衆をうんざりさせるという政治家を多く目にします。国民の知る権利に応えるのではなく、自分の主張に世論を誘導し、感化させるための場と信じているようです。

 トーク・ショーの司会者は参加者にルールをわきまえさせるはずなのですが、自身がそんな発言や態度をしている有様です。あれでは、声が大きく、押し出しの強いものにとって都合のいいカタルシスの場にすぎません。

 各政党・政治家の政治理念・政策・主張をホームページで知ることができる時代ですから、テレビは、彼らのプレゼンテーションや説明などコミュニケーション能力をお茶の間の視聴者に示し、政治をめぐる判断の参考にしてもらう公益性に寄与すべきでしょう。

 もちろん、それには適格な質問を発する知性ある司会者が不可欠です。けれども、今の司会者は「虻」であるどころか、それを叩き殺す側に回っているかのようです。もしこの状況が続くのであれば、番組を打ち切った方がはるかに公益性に適っているに違いないのです。「彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていない」(『ソクラテスの弁明』)。
〈了〉
参照文献
プラトン、『ソクラテスの弁明・クリトン』、久保勉訳、岩波文庫、1964年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?