見出し画像

稲尾和久に見る「品格」(2007)

稲尾和久に見る「品格」
Saven Satow
Nov. 14, 2007

「どんなにすごい体力を持っていても、どんなに素晴らしい技術を持っていても、それらを活かしているのは心理的なものとか、精神的なものなんですよ」。
稲尾和久

1 神様仏様稲尾様
 「史上最強の投手は誰か」という問いへの興味はつねにつきません。ただ、2007年11月13日に亡くなった稲尾和久こそ日本プロ野球史上最強の投手と答える人は多いことでしょう。彼を「史上最強の投手」と呼んでも、いくらうるさ型のOBでも、異論はないに違いありません。

 稲尾和久のプロ14年間(1956~69年)の通算成績は次の通りです。

登板試合数756(歴代7位)
勝利276(8位)
敗北137
完投179(18位)
完封43(14位)
無四球34
勝率668(2位)
投球回数3599(10位)
奪三振2574(8位)
与四球719
与死球73
被本塁打199
被安打2840
失点944
防御率1.98(3位)

 確かに素晴らしい成績ですが、歴代1位の記録はありません。しかし、入団からの肩を痛める63年までの8シーズンだけに限定して、主な成績の平均は次の通りになります。

登板試合数66
勝利29
完投試合数20
投球回数345
勝率718
防御率1.82

 この間、最多勝4回、最高勝率2回、最優秀防御率4回(通算では5回)、最多奪三振3回、MVP2回、ベストナイン5回を受賞しています。登板回数と勝利数に関してとなると、300イニング以上が4回、400イニング以上が2回、そのすべてのシーズンで20勝以上で、30勝以上3度40勝以上1度です。最多連勝20(1957年)や月間最多勝11(1962年8月)などの日本記録もマークしています。現在では、200イニングを超す投手は1シーズンにせいぜい一人か二人ですし、20勝投手もめったに出ません。

この8年間の中でも、1961年のシーズンの記録は驚異的です。

登板試合数78
完投25
完封7
勝利42
敗戦14
対戦打者1554
投球回数404
奪三振353
自責点76
防御率1.69

 このシーズン42勝は現在でも日本プロ野球記録です。おそらくルールが変更でもされない限り、破られることはないでしょう。

 稲尾は自分でもこの年が絶頂だったと語っています。マウンドで投げているとき、自分の投球フォームがスローモーションのように脳裏に映り、瞬時にチェックしながら投げると、そのボールは目がついているがごとくバットの芯を避けたと回想しています。

 こうした自分の姿が見えるというメタ認知の体験をしたのは、稲尾だけではありません。「安打製造機」と呼ばれた榎本喜八も同様のことを述べています。さらに、ピアニストのグレン・グールドに至っては、自分自身の体験だけでなく、それを経験したことがある人かどうかわかると言っています。稲尾はその域に達しているのです。

 他にも、7戦中6戦に登板し、その獅子奮迅の投球が伝説となっている史上最高の日本シリーズの1958年を含め、4度出場したポスト・シーズンでも、数々の記録を残しています。シリーズ通算最多勝利11で、1シリーズの記録では、最多勝利4、最多試合登板6(2回)、最多奪三振32、日本シリーズサヨナラ本塁打など挙げればきりがありません。

 通算350勝を挙げた米田鉄也は投手としての稲尾を「別格」で、「悪魔」のようだったと評しています。米田はそのタフネスぶりに「ガソリンタンク」というニックネームを持ち、通算320勝の小山正明をライバルと認めています。しかし、それをしても、稲尾はランクが違うと言うのです。稲尾が登板すると、いつも完封されるのではないかという雰囲気になり、勝敗ではなく、彼から1点をとれるかどうかが関心事だったと米田は回想しています。

 入団1年目にいきなり35勝を挙げた権藤博の練習は稲尾和久の物真似だけです。軸足である右足の上げ下げだけで20分以上かけ、ベンチに戻る仕草まで真似をしたと言っています。もっとも、権藤はその酷使ぶりも真似されていたようで、当時の中日ドラゴンズのローテーションは「権藤権藤雨権藤雨雨権藤雨権藤」と揶揄されています。

 対戦相手からは「悪魔」かもしれませんが、ファンにはまさに「神様仏様稲尾様」です。マウンドからベンチに戻ると、多くの観客が拝んだという逸話があります。これは結構本人には恥ずかしかったらしく、公式ホームページでの自身の名称は「鉄腕」を使っています。

 しかし、この大分の漁師の五男坊は、まったく無名で、プロ野球に入団することはないと見られています。ほんの偶然が運命の転機となっています。別府温泉を訪れた西鉄ライオンズのスカウトが、たまたま旅館の仲居さんから別府緑ヶ丘高校に稲尾和久といういい投手がいるとの話を耳にします。そのスカウトは、後日、試合を見に行き、マウンドにいるカマキリのように細い少年を野手としてのバッティング・センスのある投手とフロントに報告しています。

2 西鉄ライオンズ背番号24
 稲尾和久は、1956年、契約金60万円で西鉄ライオンズに入団します。本人はこれで少しは親孝行ができたと喜んでいます。けれども、2年後の1958年にジャイアンツに鳴り物入りで入団した長嶋茂雄の契約金が1800万円です。球団がどの程度の選手と見ていたかは想像がつくでしょう。実際、最初に稲尾がやらされたのはバッティング・ピッチャーです。

 すでにライオンズの主軸として活躍していた豊田泰光は、初めて寮に現われた稲尾を新入団選手と気づかず、サインを求めてやってきた田舎の高校生だと思ったと自著で記しています。何しろ、そのときの稲尾は学生服に、唐草模様の風呂敷を背負い、まるで「東京ボン太」です。

 当時のライオンズには猛者が揃っています。豊田だけでなく、青バットのスーパースター大下弘、史上最強の打者の呼び声の高い中西太、打撃を教えて欲しいと後輩に頼まれて「何ぼ出す?」と言い放った関口清治、朝からどんぶり飯10杯の大食漢仰木彬、芸者同伴でキャンプに参加する河村英文など自己顕示欲旺盛で、平気でお互いの足を引っ張るような連中です。

 これは後の出来事です。稲尾が相手を無得点に抑え、終盤に自ら2ランホーマーを打って、ベンチに戻り、「これで明日の新聞の見出しは決まりだな。『稲尾投打に活躍』」とつい口を滑らすと、中西と豊田が「そうかい。おまえ、そんなこと言うてええんかい。おれたち、エラーするぞ」と噛みつきます。

 最終回の守りに入ると、まず、サードの中西がファンブル、次の打球をショートの豊田がトンネルと一打同点になってしまいます。このときは、稲尾が三遊間に打たせないようにして、無事ゲーム・セットになっています。いつ寝首をかかれるか心配で、おちおち寝ていられないようなチームです。

 こんな中でのバッティング投手ですから、大変です。豊田を筆頭に、ストライクが入らなければ、「おい、そこの手動式ピッチング・マシン、壊れとんのか?」と嫌味を言われ、逆に、ストライクばかりが続くと、「たまにはボールも放れ、手動式ピッチング・マシン!こっちは人間なんだ、疲れるだろ」と注文をつけられる有様です。

 けれども、彼はもさっとしているように見えて、クレバーです。打ちやすいボールを放ったかと思うと、時々、打ちあえぐような素晴らしいボールを投げるようにしています。次第に、このニキビ面の投手のことが三原脩監督の耳にも届くようになります。あるとき、ブルペンの片隅で地味に投げていた痩せた少年に、史上最高の監督が声をかけます。「あんた、なんちゅう名な?」

 このときから稲尾の鉄腕伝説が始まることとなります。コントロールがもっとよくなるとの三原監督のアドバイスに従い、稲尾は踵の高いスパイクを履いて、開幕戦にリーリフで登板しています。

 元々は眼が細かったことから、「サイ」とあだ名がつけられたのですが、引退後の姿しか知らない人はその体形からそう呼ばれていると思うかもしれません。けれども、入団したばかりの頃は痩せていて、食欲増進のため、食事のときに首脳陣の命令でビールを飲まされていたくらいです。

 ビールと言えば、西鉄ライオンズのベンチでは、7回頃から誰も水分を口にしなくなります。理由は、試合後、ビールをおいしく飲むためです。ファーストを守った河野昭修は、当時を振り返って、「いまから思うと、うまいものが食えたり飲んだりするから一生懸命野球をやってたようなところがあります」と告白しています。

 しかし、稲尾は剛速球を投げ込むパワー・ピッチャーではありません。彼は超人的タフさ、絶妙のコントロール、逆算的な配球で勝負した投手です。「史上最強」と言われながらも、稲尾はソフトで、剛と言うよりも、柔です。

 稲尾のコントロールの正確さを表わすエピソードは限りがありません。

 熊本大学医学部のスタッフが、1957年に島原でのキャンプに訪れ、投手のコントロールに関するテストを試みたことがあります。ストライクゾーンの四隅に10級ずつ投げるという課題です。2年目の稲尾から始めることになりましたが、ただの一球も和田博実のミットはピクリとも動きません。それを見ていた他の投手は、突然、体調が悪くなり、テストはそれで打ち切りとなっています。

 また、あるゲームで、偉大な二出川延明審判は稲尾の投げたど真ん中の速球を「ボール」と判定したことがあります。抗議する稲尾に、二出川はこう言ったと伝えられています。「プロのストライクに真ん中はない」。それを聞いた稲尾はニヤリとしてマウンドに戻り、アウトローいっぱいに速球を投げます。判定は、もちろん、「ストライク!」です。

 稲尾は高校二年生まで捕手です。投手らしからぬ性格はそこに求められるかもしれません。もっともダルビッシュ有も元々はキャッチャーですから、その意見は少々短絡的です。しかし、少なくとも、配球のうまさは捕手出身ということにも理由があるでしょう。

 稲尾自身はこのポジションを気に入っていたのですが、チーム事情からコンバートされています。そのとき、彼は不思議な夢を見ています。吹くと、ピューと鳴りながら先についている紙の袋がヒュルヒュルと伸び、唇を放すと、クルクル巻いて元に戻るという笛の玩具が祭の夜店なんかで売られています。稲尾は自分の指がこの笛になって伸びる夢を見ます。それを信じ、風呂に入ったとき、人差し指と中指を引っ張って伸ばそうとしたと伝えられています。

 とは言うものの、超人的タフさや絶妙のコントロール、逆算的な配球が稲尾を史上最強の投手と賞賛させているわけではありません。実際、これらの点で彼を上回るピッチャーがいます。

 それは野口二郎です。彼の生涯成績は、多くの点で、微妙に稲尾を上回っています。1942年、大洋の野口は527回と3分の1を登板しています。このシーズンの野口は日本プロ野球史の伝説です。40勝17敗、防御率1.19、登板試合数66ですが、105試合制ですから、一人で3分の2近く投げたことになります。

 5月24日には延長28回を1人で投げたのみならず、その前日も、1対0で完封したのですが、9回1死までノーヒットノーランです。しかも、登板しない日は外野か一塁を守り、4番打者ですけ。時には、投手で4番を任されることもあります。さらに、1950年にマークした31試合連続安打という現在日本プロ野球3位の記録です。イチローより上です。通算打率は、投手でありながら、248です。

 なお、シーズン投球回数に関しては、1942年、朝日軍のルーキー林安夫が541回と3分の1を投げ、これが日本記録です。彼は翌年も投げたのですが、出征し、帰らぬ人となっています。

3 稲尾と品格
 むしろ、稲尾を史上最強の投手にしているのは、彼の精神性にあります。

 稲尾和久を悪く言う人はいません。ピッチャーは、だいたい、わがままで、人間的にどうかという人が多いのですが、彼はそうではありません。豊田は稲尾の死を偲んで、「西鉄ライオンズは稲尾のチームだった。稲尾が亡くなって、西鉄ライオンズは終末を迎えたようなものだ」との談話を寄せています。

 稲尾は酷使されたことに不満を漏らしていません。「いやいや投げたことは一度もありません。投げて勝てば、給料がどんどん上がっていくのですから、投げるのは嬉しかったですよ」。三原監督にしても、投げろと命令したことはありません。ベンチにいる稲尾に聞こえる声で、「困った、困った」とつぶやき、稲尾が「投げましょうか?」と言い出すのを待っているのです。

 現役時代は一匹狼と見なされていた落合博満も稲尾を尊敬し、仲人も頼み、彼の監督解任に反対したのを理由に、ロッテ・オリオンズから中日ドラゴンズへトレードに出されています。落合が聞いてくる若手に打撃を教えるようになったのも稲尾のアドバイスのおかげです。それまでは本当に唯我独尊です。

 落合も最初から優れた打者だったわけではありません。試行錯誤の結果、今があるのです。けれども、うまくなると、その過程を忘れてしまいます。若手に教えるためには、それを思い出さざるを得ません。過程を客観的に見rことができるようになり、自分をさらに高められると稲尾は落合に諭しています。

 稲尾の人間性を語る上で、欠かせないエピソードがあります。

 南海ホークスの大エース杉浦忠は、稲尾と対戦しているうちに、あることに気がつきます。攻守が交代してマウンドに上がると、どんな試合展開であろうとも、いつも地面がならされ、ロージンバッグも一定の位置に置かれているのです。稲尾はチェンジになるとき、自分や相手の投手が投げて荒れたマウンドをきれいに整え、すべりどめもプレート傍に丁寧に置いていきます。杉浦はそれから稲尾を見習おうと心がけましたが、どうしてもかないません。

 「ぼくはピンチの後ではマウンドが荒れていることなどつい忘れてしまうのですが、彼はどんなときでも、たったの一度も、マウンドが荒れている状態でぼくに渡したことはなかったですね。もちろん、ロージンバッグもいつものようにすぐ手に届くところにきちんと置いてありました。まだまだ自分は彼の域に達していないと思いましたね」。

 この行いを稲尾自身が話すことはありません。

 日本プロ野球歴代1位の生涯打率320を残したレロン・リーは、稲尾には”class“があると讃えています。「クラス」、つまり「品格」です。品格が彼の強さの理由にほかなりません。

 豊田は彼が不平を口にしても角が立たなかったと述べています。ソフトで、どこかユーモアがあったというのです。稲尾が入団したばかりの頃です。夜遊びをした豊田が寮に戻ると、買ったばかりの自分の布団に稲尾が寝ています。豊田が怒ってたたき起こすと、稲尾はケロッとした顔でこう言うのです。「先輩、布団を暖めておきました」。

 稲尾をめぐるさまざまなエピソードが告げているのは彼のコミュニケーション能力の高さです。このコミュニケーションには、相手の表情を読み取る能力も含まれます。「心の知能指数」とも呼ばれるEQは相当高いに違いありません。配球やコントロールはもちろん、タフさも身体とのいいコミュニケーションがなくては発揮できません。夢のエピソードンにしたところで、それを自分に告げられたアドバイスと考え、対話したのだと言えるのです。

 ここしばらく、「品格」という語が流行しています。しかし、品格は毅然とした態度や求道的な姿勢から発せられるものではありません。そうした非妥協的なハードさは孤高の雰囲気を漂わせることはあっても、品格にはつながりません。ソフトなコミュニケーション能力の高さから相手が品格を感じるものです。それを知性と呼んでもいいでしょう。

 稲尾和久のピッチングは、ファンとの間に、そんな品格ある知性を示してくれるのです。
〈了〉
参照文献
青田昇、『サムライ達のプロ野球』、文春文庫、1996年
スポーツ・グラフィック・ナンバー編、『豪球列伝』、文春ビジュアル文庫、1986年
同、『豪打列伝』、文春ビジュアル文庫、1986年
同、『魔球伝説』、文春ビジュアル文庫、1989年
同、『豪打列伝2』、文春ビジュアル文庫、1991年
同、『プロ野球ヒーロー伝説』、文春ビジュアル文庫、1992年
玉木正之、『プロ野球大事典』、新潮文庫、1990年
豊田泰光、『風雲録―西鉄ライオンズの栄光と終末』、葦書房、1985年
文藝春秋編、『助っ人列伝』。文春ビジュアル文庫、1987年
同、『暴れん坊列伝』、文春ビジュアル文庫、1988年

いいなと思ったら応援しよう!