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夏目漱石の『坊っちゃん』、あるいは幼な子の叙事詩(5)(1992)

5 坊ちゃん対赤シャツ・野だ
 主人公坊っちゃんは自分自身について次のように述べている。

 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使いに負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

 ただ「無鉄砲」で負けん気が強くて階段から飛び降りるだけではなく、「二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるか」と親父に説教されて、それに「この次は抜かさずに飛んで見せます」と答えるユーモアが坊っちゃんの魅力の一端だ。

 スティーヴンソンの『宝島』を思わせる冒険活劇のスタイルの『坊っちゃん』の登場人物は大きく五つのカテゴリー--第一に坊っちゃん、第二に赤シャツと野だ、第三に生徒たち、第四にうらなりや山嵐、最後に清--にわかれる。それぞれ五つの倫理と論理を持って動き、コントラストをなして物語を構成している。この論理と倫理は、全体を通じて、それを保持したものから離れることがない。彼らの倫理や論理は、坊っちゃんのそれと比較・検討することによって、明瞭になる。

 坊っちゃんは、他の漱石の作品の主人公と違い、タフである。神経衰弱などに絶対に苦しめられることのないエネルギッシュで天衣無縫に遠心力で生きる坊っちゃんのような人物は、漱石の作品に以後登場することがない。主人公は概して『門』の宗助のような求心力で生きる人物である。また、学校を舞台にした作品でもあまり見かけない。啄木の『雲は天才である』のような主人公が後の芸術においてはよく登場する。『坊っちゃん』は学校を舞台にする作品の規範となったが、主人公に関する限り、系譜を持たない。

 坊っちゃんは、同僚からは「華奢」で「小作り」の「愛嬌」のある「勇肌の坊っちゃん」と見なされ、生徒たちは坊っちゃんにまったく好意的ではない。江戸っ子は、箱根の山を見て尻尾を巻いて逃げ帰るような内弁慶なものだが、彼はそうではない。ただ、誰もついていけず、浮いた存在である。坊っちゃんは「各人は彼固有の洞窟のようなものを持っており、それが彼自身の性格や教育、環境によって、自然の光を屈折させたり弱めたりする」といった「洞窟のイドラ」(フランシス・ベーコン『ノーヴム=オルガヌム』)にあるものと見なされている。

 しかし、坊っちゃんは生徒がどうなろうと学校がどうなろうと知ったことではないし、職に対してまったく執着がない。

 ほかの教師に聞いてみると辞令を受けて一週間から一カ月くらいの間は自分の評判がいいだろうか、悪るいだろうか非常に気に掛かるそうであるが、おれは一向そんな感じはなかった。教場で折々しくじるとその時だけはやな心持だが三十分ばかり立つと綺麗に消えてしまう。おれは何事によらず長く心配しようと思っても心配が出来ない男だ。教場のしくじりが生徒にどんな影響を与えて、その影響が校長や教頭にどんな反応を呈するかまるで無頓着であった。おれは前に云う通りあまり度胸の据った男ではないのだが、思い切りは頗るいい人間である。この学校がいけなければすぐどっかへ行く覚悟でたから、狸も赤シャツも、些とも恐しくはなかった。まして教場の小僧共なんかには愛嬌も御世辞も使う気になれなかった。

 坊っちゃんは対人関係に関して「無頓着」である。学校に対しても仕事に対してもまったく執着がない。しかし、それは坊っちゃんが無欲もしくは純粋なのではなく、ただ関心がないだけである。坊っちゃんは陽気に暴れまくり四国を去っていく。四国であのような行動に出た坊っちゃんが東京でおとなしくしていたとは思えないと『「坊っちゃん」試論-小日向の養源寺』において平岡敏夫は指摘している。けれども、坊っちゃんは本質的に他人に無関心であるから、たまたま四国ではもめることがあっただけで、それがなければ別に何事も起こらない。

 さらに、坊っちゃんは、他人に対してだけでなく、自分自身に対しても「無頓着」である。

 卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師がいる。月給は四十円だが、行ってはどうだと云う相談である。おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。尤も教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。これも親譲りの無鉄砲が崇ったのである。

 坊っちゃんは、自分自身にも「無頓着」であるため、計画性を持っていない破天荒な人間であるが、行動家なるものではない。「行動家の世界は」、三島由紀夫の『葉隠入門』によると、「いつも最後の一点が付加することで完成される環を、しじゅう眼前に描いているようなものである。瞬間瞬間、彼は一点をのこしてつながらぬ環を捨て、つぎつぎと別の環に当面する」。すなわち、行動家は、永遠は耐え難いから、行動によって自らの意識を納得させなければならないもので、彼らは、思弁家と同様、自意識過剰の自己充足的・自己絶対的な人間である。

 一方、坊っちゃんは、「只智慧のないところが惜しいだけだ。どうしていいか分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ、あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る」と言っている。坊っちゃんは敗北を忘却し、勝利に向けて新たに出発する。坊っちゃんは自己を保存しようとする必要性にしたがって解釈している。坊っちゃんにとってその解釈だけに関心があり、自己保存をめぐって関心を持つ必要がないものには、働き掛ける行為には出ない。坊っちゃんにとって、重要なのは行動そのものではなく、いかなる困難に直面しようとも、自分自身に与えられた生に対して力を尽くして働きかけ、永遠の運動を欲することである。

 このように坊っちゃんの「無頓着」は一つの力であり、近代的世界に属していない倫理と論理を体現している。坊っちゃん自身はその倫理と論理を赤シャツや野だのそれと比較して、次のように語っている。

 議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。表向は赤シャツの方が重々尤もだが、表向かいくら立派だって、腹の中まで惚れさせる訳には行かない。金や威力や理屈で人間の心が買えるものなら、高利貸でも巡査でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭位な論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌で働らくものだ。論法で働らくものじゃない。
 赤シャツはホホホホと笑った。別段おれは笑われる様な事を云った覚はない。今日只今に至るまでこれでいいと堅く信じている。考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励している様に思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だの難癖をつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世の為にも当人の為にもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。大に感心して聞いたものだ。清の方が赤シャツより余っ程上等だ。

 坊っちゃんの「好き嫌」、すらわち「よい=わるい」はまず「好き」が先にあって、「嫌」がその後に定義される。坊っちゃんにとって「好き」は利他的な評価ではなく、行為者自身の直接的かつ能動的である力の自己規定として現われている。それは物事を深く認識する精神の力以上に、「生」を決定的に肯定する能動的な力にある。坊っちゃんは、ニーチェが『道徳の系譜』において述べている「騎士的・貴族的評価様式」に基づいた「力強い肉体、若々しい、豊かな、泡立ち溢れるばかりの健康、並びにそれを保持するために必要な種々の条件、すなわち戦争・冒険・狩猟・舞踏・闘技、そのほか一般に強い自由な快活な行動を含むすべてのもの」を前提にしている。「力を持つ」、「つねに創造する」、「生を楽しむ」といったことの自己肯定的な感情が坊っちゃんにとっての「好き」の本来的な起源である。

 それに対して、狸、赤シャツ、野だ、下宿の主人などといった『坊っちゃん』の登場人物たちは「わるくなる事を奨励している」俗物主義、権威主義、営利主義、権力の論理で動いている。竹盛天雄は、『坊っちゃんの受難』において、坊っちゃんに「その無風流、反文学・反芸術の徹底した純粋さの中に、裏返しされた一個の芸術家像を透視できるように思う」し、それゆえ、「単純化極端化による『型』の文学の発揮する強烈な諷刺性、暗示力を見出さざるをえない」、と述べている。坊っちゃんは、古代ギリシア的な意味を考慮するならば、「一個の芸術家像」であることは適切な指摘である。けれども、『坊っちゃん』が「型」の文学であるとしても、「諷刺性」には乏しい。確かに、江戸時代に見られる「単純化極端化による『型』の文学」はアイロニー様式、あるいは「低次模倣様式」(フライ)を保持しており、「強烈な諷刺性、暗示力」に基づいている。だが、『坊っちゃん』はファルスであり、寓話・エピソードである。その「単純化極端化」は、「わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい」と書かれているように、人間が、生を肯定する際に、文化を持つことの根本的意味を一切の価値観に抗って明らかにすることのフィクションである。

 なお、「野だ」は「野だいこ」のことで、これは太鼓持ちの一種である。太鼓持ちはお客が機嫌よく遊べるためのプロデューサーである。「太鼓持ち あげての末の 太鼓持ち」」と言うように、もともとは裕福だったけれども、道楽がすぎて転身したものが多い。一流の太鼓持ちは店付なのだが、知り合いを見つけては言い寄ってくる太鼓持ちもいる。それを「野だいこ」と呼ぶ。彼らは客を捕まえることを「釣る」と言い、往来の場合は「陸釣り」、家まで押しかける場合は「穴釣り」と称する。こうした野だいこはたかるのが目的の取り巻きである。だから、「野だ」は取り巻きと理解すればよい。

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