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中野重治の『村の家』、あるいは転向の文学(2)(1992)

2 中野重治の転向の経緯
 吉本隆明は、『転向論』において、「佐野、鍋山的な転向」は「日本的な封建制の優位に屈したもの」であり、「小林、宮本の『非転向』的転向」は「日本的モデルニスムスの指標として、いわば、日本の封建的劣性との対決を回避したもの」であると見なした上で、佐野・鍋山、小林・宮本らを超えるものとして、武田泰淳の「ほめ殺し」を見抜いていた中野重治(1902~79)の転向を次のように評価している。

 わたしは、中野の転向(思考的変換)を、佐野、鍋山の転向や小林(多)、宮本、蔵原の「非転向」よりも、はるかに優位におきたいとかんがえる。中野が、その転向によってかい間見せた思考転換の方法は、それ以前に近代日本のインテリゲンチャが、決してみせることのなかった新たな方法に外ならなかった。わたしは、ここに、日本のインテリゲンチャの思考方法の第三の典型を見さだめたい。中野に象徴されるこの第三の典型の優位性が崩壊にたちいたったのは、昭和十年代の後期太平洋戦争下においてであった。ここから日本的転向の問題は、また、別個の課題にさらされるのである。また、それかわたしたちまったく別個の思想的典型を創造すべき課題を負わせている理由でもある。

 吉本によれば、「大衆からの孤立(感)」による「大衆の動向」が転向の最大の条件である。共産党への忠誠度によってではなく、日本の大衆が生きている封建的優性との対決によって自らの真理は証明される。吉本は転向を日本的封建制に対する態度から、日本的封建制の優勢に屈する佐野・鍋山型、日本の封建的劣性との対決を回避する小林・宮本型、敗北を通してそれと対決する中野型の三つに抽出している。これら三つの転向のうち、中野の転向だけが日本的封建制と対決し、「それ以前に近代日本のインテリゲンチャが、決してみせることのなかった新たな方法」である。

 その中野重治の転向に至る経緯は次の通りである。『春さきの風』などを発表しすでに文学者としての名声をつかんでいた中野は、1930年に共産党への活動資金提供の治安維持法違反容疑によって逮捕・起訴され、予審終結後、保釈される。保釈中の31年に中野は共産党に入党する。その後、32年、日本プロレタリア文化連盟(コップ)に参加していた中野は保釈を取り消され、治安維持法違反から約二年間拘置される。34年に共産党員であることを認め、共産主義運動から身を引くことを約束し、懲役二年執行猶予五年の判決を受け、出所する。中野は、出所後、再び筆をとり、35年、自分の転向に関する小説群──4月に、『鈴木・都山・八十島』、5月に『村の家』──を発表する。

 吉本は中野の転向を日本的封建制との対決として評価しているが、それが正当な指摘とは言い難いことは、転向後の1936年に発表した『閠二月二十九日』において、反合理主義や反論理主義を擁護する小林秀雄や横光利一に対する次のような彼の批判が告げている。

 あらゆる問題は論理の立ち得る「危険な箇所」に立っているのだ。反論理主義者はそれを避けたいとあせっている。論理そのもの、小林のいわゆる「解析」する論理を怖れているのだ。「日本人は曖昧で通じる特別な感覚を、たしかに外人よりは多く持っていると見える。」という横光は、彼自身の論理の喪失と反論理主義へのずれこみとを、日本人のカンのよさで大目に見てくれと持ちかけることで、実は彼の仕事の本質の論理追跡を避けようと努力しているに過ぎない。
 こういうでたらめな、反合理主義的な(横光利一の言葉にすると「心理の勝った」)傾向にたいして私は戦ってゆきたいと想う。彼らは手妻使いのように言葉を混乱さして、のらくらものの文学青年だけでなく一人前の作家たちまでが部分的にしろ手妻にひっかかって、わけのわからぬ心得顔をしようと稽古しているありさまを見ると、わけのわかるもの、論理的に辿れるもの、論証されるもの、「常識的」なものをさえ私はかかげたい。独断と逆説とによる卑俗さをロココ的なものかのように振りまわす伊達者たちは、外国の作家、特にフランスの作家たちを引き合いに出したがっているが、フランス近代文学の伝統はそういうものの克服の上に立っている。アンシクロペジストたちや幾何学におけるデカルトはこの伊達者連中に穢されるにはあまりに叡智に充ちている。日本文学は自分が伸びるためには、これらの伊達者のビラビラを草鞋でとりのけねばなるまい。

 中野は、彼らの源流であるフランスで流行している反合理主義や反論理主義はあくまでもルネ・デカルトや百科全書派という合理主義や論理主義の伝統の上に立脚し、それに対する批判として機能しているのであって、日本のようにそうした合理主義や論理主義の伝統のないところでそれを唱えることは不徹底だと主張しているのではない。そもそも反合理主義や反論理主義は中途半端なものであり、フランスの「この伊達者連中」は反合理主義・反論理主義の克服を試みたデカルトや百科全書派の掌を世界の果てだと思いこんで飛びまわる孫悟空にすぎない。日本にはまだデカルトや百科全書派がいないため、日本人は必ずしも曖昧ではないにもかかわらず、小林秀雄や横光は日本人を曖昧なものに戦略的にしている。

 「国民生活という規模で合理主義を『心得』ることのできなかったわが国民の一部、なまけものの文学青年と一部の文学者たちとがそれを崇め奉って拝んでいる」。文学者は合理性・論理性をつきつめなければならない。文学は論理的・合理的な認識に基づいている必要がある。それは、言うまでもなく、作品が論理的・合理的でなければならないということではない。小林秀雄や横光利一はそれらを混同してしまっている。中野には、彼の小説には「心理」的説明が欠けているように、それが反合理主義・反論理主義であるために是認することはできない。中野自身があまり合理的・論理的に見えないとしても、彼はあくまでも合理性・論理性の認識に立脚している。しばしば中野を志賀直哉と同一視する傾向にあるが、中野自身「『暗夜行路』雑談」において志賀を厳しく批判しているように、志賀にはこうした認識に欠けている。中野は合理的・論理的たらんとするが、自身の存在そのものがはらんでいる反合理・反論理を、もう自分の力ではどうにもならないギリギリの地点で、合理化・論理化できないがゆえにそのまま肯定し提示する。中野は日本的封建制の問題以上に、このような普遍的な問題意識を抱えている。中野は、吉本の言う日本的封建制は必ずしも反論理主義・反合理主義を意味しているわけではない以上、吉本の主張するような、日本的封建制との対決を必ずしも意図していない。中野が決意しているのは反合理主義や反論理主義との闘いである。

3 柄谷行人の転向論
 吉本と同様に中野重治を評価している柄谷行人は、『近代日本の批評──昭和前期Ⅰ』において、吉本とは別の観点から「転向」を次のように述べている。

 私はとりあえず「昭和的なもの」を一つの転向として見ようと思う。昭和初期十年間は、ふつうプロレタリア文学とその崩壊・転向として語られている。その意味での転向の問題や抵抗の問題が本格的に見られるのは、むしろ昭和十年代である。昭和初期において重要な「転向」は、いわば「大正的なもの」からの転向である。それがマルクス主義を中心として生じたからといって、マルクス主義に限定されはしない。たとえば、それは小林秀雄にも谷崎潤一郎にも生じた。したがって、この問題はマルクス主義の哲学や文学理論のなかだけで考察することはできない。この「転向」は、いわば「大正的なもの」からの切断であるがゆえに、その意味は、さまざまな角度から考察されるべきである。
 第一に、昭和初期には、マルクス主義への転換が「転向」と呼ばれたことに注意すべきだ。これは福本の理論とともにもちこまれたものである。福本とともに、マルクス主義に主体の問題が導入された。マルクス主義はたんなる世界観や歴史観ではなく、主体にとっての自己変革、したがって「転向」としてとらえられたのである。藤田省三が指摘するように(『転向』上所收)、マルクス主義の放棄がのちに転向と呼ばれたのも、佐野・鍋山の声明にみられるように、それが「自己変革」としてなされたからであって、そのこと自体、最初の「転向」に存した問題にもとづくのである。
 もともとは宗教的な概念である「転向」が、マルクス主義者になること、さらにそれを放棄することにかんしていわれたのには、正当な理由がある。それは、たんにマルクス主義の運動がユダヤ=キリスト教的な宗教的な運動に似ているというようなことではない。むしろ日本おいて、ユダヤ=キリスト教的な宗教が、マルクス主義がもたらしたような「転向」の深刻さ、社会的な意味を与えなかったことにこそ、注意すべきであろう。
 共産党幹部佐野・鍋山の転向声明(一九三三年)は、マルクス主義の放棄ではなく、コミンテルンの日本情勢分析の誤りを正し、天皇のもとでの共産主義を実現しようというものであった。つまり、転向は主体的な自覚あるいは発展としてなされたのであり、第一次の「転向」と形式的には同じであった。(略)
 二度目の「転向」は、ある意味で、最初の「転向」あるいは「転回」がいかなるものであるか、いかなる深度によってなされたかによって決まっている。一度目の天候が単に「観念的意向」でしかないならば、二度目のそれは、たんに観念と現実のギャップによるものでしかないだろう。しかし、「転向」は、倫理的問題でないとしても、吉本隆明のいうような認識的問題でもない。それは、「大正的なもの」の切断がいかになされたかに依存するというべきである。事実、昭和十年代における数少ない抵抗者は、このような「切断」を反復することによってのみありえたのである。(略)
 中野重治やその他の数少ない例外をのぞいて、転向は、いわば「大正的な」主体の問題をぶりかえすことになった。

 吉本は「転向」を「プロレタリア文学とその崩壊・転向として」、すなわちあくまでもマルクス主義からの転向に限定して考えている。それに対して、柄谷は「転向」を「大正的なもの」、すなわち「適度に内面的で、教養主義的、人格主義的な傾向」との「切断」にまで拡大・比較して考察している。転向を「主体にとっての自己変革」とする柄谷は、それを「認識的問題」とする吉本と違って、非転向的な転向や無関心的な転向を必ずしも強調しない。彼は、その代わり、小林秀雄や谷崎潤一郎も転向のカテゴリーに入れている。

 日本的な自己充足的な状態から世界との緊張の状態への転換を第一次の転向、その逆が第二次の転向である。その一種として、マルクス主義への転換が「第一次転向」であり、マルクス主義からの転換が「第二次転向」で、この二つは同じ構造をしている。「第二次転向」を規定するのは「第一次転向」である。だから、佐野や鍋山は転向によって元に戻っただけにすぎない。

 柄谷によれば、佐野・鍋山の転向声明は、吉本とは逆に、労働者や大衆の心情を汲み入れた結果である。実際、マルクス主義政治思想が天皇制の下で可能だともともと考えていた彼らにとって、コミンテルンが要求した天皇制打倒など最初から不可思議なスローガンである。しかし、中野重治の転向は、後に述べるように、それらと同じ構造をしていない。

4 ルカーチと福本和夫
 日本のマルクス主義の歴史で、転向が本格的に問題となるのは、自己批判を強いられることになったジェルジ・ルカーチの理論が、フランクフルトで研究していた経歴を持つ福本和夫を通じて、1927年(昭和2年)から影響を及ぼしてからである。ルカーチはマルクス主義運動に初期マルクスを導入したが、レーニンやグレゴリー・ジノヴィエフ、コミンテルンらから批判され続け、理解されることは長い間なく、その生涯において、政治的転換をかなり重ねている。「史的唯物論の通俗的公式においては、主体的な側面(すなわち意識)は客観的な経済発展の諸法則の受動的な関数であるとされている。若きルカーチの問題は、ある意味では彼がこの見解を受け入れていたということにあった。しかし、彼はまた歴史のなかに意識的実践の創造性の余地を発見しようと試みもした。彼は繰り返して客観的過程を考察し、主体的な実践、すなわち自由が、その過程に入り込むことができ、歴史的な力となりうる分岐点を探し出そうとした」(アンドリュー・アラトー『若きルカーチと西欧マルクス主義の起源』)。

 ルカーチはマルクス主義を社会科学的理論ではなく哲学として扱い、階級闘争や階級意識を通じた主体の変革を中心的課題とする。マルクスとフリードリヒ・エンゲルスを分離し、後者を批判したルカーチの『歴史と階級意識』は、弁証法的方法の自然への適用の可否、マルクス主義における方法の重視、理論と実践の統一性という三点をめぐって、極左派=修正主義として、発表直後からさまざまな論者から批判される。その中には、この本はおびただしい専門用語の羅列によって書かれており、予備知識のない読者には全然理解できず、それは、プロレタリアートへの接近を目指すことを当然の責務としている共産主義にとっては、ブルジョア的であるという眩暈をもよおすような馬鹿げたものもある。

 「プロレタリアート」とは、本来、古代ローマの無産階級、すなわち没落中小農民の最下層の貧民である「パンと見世物を要求する浮浪者」を意味している。ユリウス・カエサル登場はるか以前の紀元前218~201年の第2回ポエニ戦争、いわゆるハンニバル戦争によって、中小農民は、自腹をきっての出兵、戦場化したための耕地の荒廃、さらに戦後の属州からの安価の穀物の流入、奴隷制による大土地所有の発展の前に、没落し、ローマなどの都市部に流れこんでいる。彼らは選挙権を所有しており、略奪をともなう戦争を望み、野心家の私兵となってしまう。プロレタリアートという言葉にはもともとこのように否定的な意味がある。

 また、『歴史と階級意識』において、実践的な政治的党派を通して階級意識は表面化してくるが、労働と闘争という契機を欠落させたため、そのヴィジョンは組織論において破綻を示し、さらなる弁証法の運動を希求しており、弁証法的契機としては、到達点とはなりえず、そこから、逆に、マルクス主義の教条化を決定的に顕在させることになる。

 こうした内容のため、彼は1924年にコミンテルンから自己批判を迫られる。ルカーチは、自己批判をして28年から二九年にかけていわゆる「ブルーム・テーゼ」の作成に加わるが、これもコミンテルンから拒否される。彼は、結局、29年にモスクワへの亡命を余儀なくされ、71年に亡くなるまで、この間に、『若きヘーゲル』や『理性の破壊』などを執筆しながら、そこにとどまることになってしまう。ルカーチの理論は50年代になってスターリニズム批判として復活するが、60年代後半になると、『ドイツ・イデオロギー』以後のマルクスの作品に向かったルイ・アルチュセール──『資本論を読む』・『マルクスのために』──によって、厳しく批判されることになる。実際、マルクス自身は、その初期の青年ヘーゲル派的な思想を自己批判しているわけだから、当然と言えば当然であろう。

 ルカーチに基づいた福本和夫の理論は、多くの共産主義者を震撼させ、自然発生的に現われた労農主義的な思想などからの転向を引き起こす。この福本主義を通じて、日本では、初めて革命運動の前衛組織が思想的・政治的に確立している。 福本和夫の強い影響下にあった中野は1928年に『春さきの風』を発表する。この年から1931年迄がプロレタリア文学の全盛期である。しかし、ハンガリー本国でさえも拒まれたルカーチの理論が一国の共産党の中心的思想になるなどというのは画期的なことであるが、共産主義政治をめぐる激しい思想闘争によって組織的な分離・結合が進行し、ルカーチと同様、まもなく福本主義は批判されるようになる。

 『歴史と階級意識』は、モーリス・メルロ=ポンティの『弁証法の冒険』によると、「一時は西欧マルクス主義の聖典であった」。ルカーチが依拠したのは亡命実行以前の初期マルクスであり、当然、ルカーチは転向を繰り返していたことからも、(発達した資本主義国への)亡命といった可能性は最初から否定されているわけで、日本のマルクス主義がそのルカーチに負っているかぎり、マルクス主義者たちから亡命が主張されることはない。

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