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派閥(2012)

派閥
Saven Satow
Jan. 20, 2012

「このシャバは君たちの思うようなシャバではない。親分が右と言えば右、左と言えば左なのだ。親分が右と言うのにいやだというなら、この派閥を出て行くほかない」。
金丸信

 近頃、派閥時代を懐かしむ声が聞こえる。年配の政治記者が各派閥はお互いに切磋琢磨して政策を競い合う効用があったと自論を展開している。また、自民党の石原伸晃幹事長や石破茂前政調会長らが派閥復興を試みている。

 阪神・淡路大震災の経験によって、市民の政治参加への機運が高まり、市民社会の組織化が政治的課題となっている。にもかかわらず、二大政党はマスメディアを通じて有権者に直接訴えかけ、いわゆる選挙の顔への人気を政党支持へと動員させる手法をとり続けている。エビデンスに基づく政策を提示して競うのではなく、相手の失敗につけこんで統治権力を奪い合う。それは政党政治の自殺行為とも思える。

 世論の既成政党への不信感が高まっている。その一因に政治家の人材不足があるだろう。国会議員の人材育成に関して、松下政経塾よりも派閥の方が幅広かったことは確かである。政治的思想・信条が似通い、奇妙なヒロイズムまで共通したマスプロ政治家としか言いようがない。PL法が適用されないものかと本気で考えている有権者も少なくないだろう。

 けれども、派閥は自民党の形成過程ならびに長期政権の歴史と深く結びついている。状況がかつてと大きく変わっているのに、派閥を待望するのは時代錯誤でしかない。

 自民党は、1955年、社会党の左右の統一に刺激されて、保守勢力が合同して誕生している。理念は反社会主義という受動的なものがあるくらいで、無いに等しい。

 しかも、合同した勢力はもともと対立してきた経緯を持つ。昭和20年代の保守勢力はさまざまな離合集散を経て、吉田茂を軸に吉田派と反吉田派に二分されている。反吉田派は、保守勢力であっても、吉田政治と違いを見せるために、対抗するモットーや政策を掲げている。例えば、吉田の対米協調に対し、彼らは自主外交を唱えている。この吉田派も反吉田派も自民党に合流している。

 理念もなく、まとまった政策もないままに結成したため、自民党はシステムとしてはエントロピーが増加する性質を持っている。しかし、サブシステムとしての派閥には、過去の経緯によって結びつき、エントロピーが増大しない。派閥は自民党の成立過程の産物である。

 党の理念が能動的で、明確であれば、そこに向けて求心力が働くので、派閥は生まれない。政治は各政党の対立・協調によって運営される。その場合でも、規模が大きくなれば、政治家自身の思想信条もさることながら、支持者の事情も考慮して、穏健派や保守は、革新派などにマスメディアは分類するだろう。けれども、それは有力議員をリーダーに据えるグループに属しているわけではない。

 自民党の派閥は、当初、領袖を首相にするための応援団体ではない。最初の本格的派閥と呼べるのは宏池会である。この起源は自民党以前にまで遡る。吉田茂内閣で、放言により閣僚辞職に追いこまれた池田勇人を慰めるために議員や財界人らが懇親会をつくる。このゆるやかな会が最初の自民党政権である鳩山一郎内閣の時に派閥へと変わる。鳩山首相は健康面に不安があり、最大の政治課題である日ソ国交回復を河野一郎農林水産大臣が執政として推進する。しかし、吉田学校の池田や佐藤栄作らがこの対ソ姿勢に反発し、反河野でまとまる。後に佐藤は袂を分かつが、これが池田を総理総裁にするための宏池会へと発展していく。

 現在の民主党のグループが自民党の派閥の原型に近い。政権交代だけを目標に、離合集散を繰り返した諸勢力が結集したのが民主党である。これは1955年の自民党に似ている。違いは労働組合の支援を受けた議員がいること、および選挙制度が中選挙区制ではないことである。

 派閥抗争が最初に顕在化したのが1956年の石橋湛山総裁の誕生時である。当時は総称して「八個師団」と呼ばれている。

名称 領袖
池田派 池田勇人
石井派 石井光次郎
石橋派 石橋湛山
大野派 大野伴睦
河野派 河野一郎
岸派 岸信介
佐藤派 佐藤栄作
三木・松村派 三木武夫・松村謙三

 その自民党の総裁選挙において、有力候補者は岸信介幹事長・石井光次郎総務会長・石橋湛山通産相の三名である。中でも、最も総裁の椅子に近いと見られていたのが岸である。ところが、石井派と石橋派が連合し、他派閥も巻きこみ、岸を抑えて、湛山を総裁に当選させる。

 この八個師団がその後に離合集散を繰り返し、1972年の田中角栄内閣成立時に、五大派閥、通称「三角大福中」へと収斂する。

名称 領袖
三木派 三木武夫
田中派 田中角栄
大平派 大平正芳
福田派 福田健夫
中曽根派 中曽根康弘

 自民党政権が長期化するにつれ、派閥は議員のキャリアパスの制度としての機能を果たすようになる。派閥の議員は当選回数に応じて党・国会・政府の役職が割り当てられる。派閥の功績は自民党の人事の制度化を促した点にある。抗争はこの人事における主導権を握るために行われる。

 派閥抗争は自民党内の人事権の争いである。報道も政策の争点ではなく、抗争の戦略が中心に据えられる。有権者の多くは日々の生活に追われている。各派閥・議員がどのような政策を主張し、それが自分たちの暮らしにどのような影響を与えるのかを知るには、マスメディアの報道が頼りである。ところが、マスメディアは肝心のことを詳しく伝えていない。70年代、社会保障制度を始め取り組まなければならない政治課題が山積みだったのに、派閥抗争の陰に追いやられてしまう。有権者は永田町の動向に興ざめ、政治家と市民の間の溝が広がる。今、まさにそのツケに日本は苦しんでいる。

 なお、戦前は責任内閣制ではなかったので、首相は国会議員以外でも就任することができる。事実上、元老が次期首相を選んでいる。重要なのは天皇からの「拝命」であって、議会の「数」ではない。派閥は戦前の政治には見当たらない。

 派閥の性質が変わったのは、田中角栄が刑事被告人となってからである。従来、派閥は領袖が亡くなったり、首相の座から退いたりすると、その継承をめぐって分派が始まり、場合によっては解散してしまう。ところが、田中角栄は首相辞任後も派閥を維持し、キング・メーカーとして党内に影響力を行使する。自らの裁判を不利に運ばせないため、今大綱は派閥の力をフルに活用する。以後、他の領袖もこの慣行を踏襲する。

 そのため、次期リーダーを狙う世代にとってフラストレーションがたまる事態が生じる。竹下登による田中派からの分派行動はこうした状態が招いた最も急進的なケースである。

 新陳代謝が進まなくなれば、キャリアパス機能が十分に働かない。80年代以降に派閥が独自に輩出した新たな人材は粒が小さくなっていく。竹下登は小渕恵三の後に自民党には人材が残っていないと嘆いている。小渕は1963年に政界入りし、70年代からキャリアを積んでいく。

 さらに、90年代に入ると、連立政権が常態化する。それは自民党に割り当てられる政府内のポストが減ることを意味する。加えて、自民党は野党暮らしも経験する。野党になれば、政府のポストを得ることはできない。派閥は構成議員に忠誠心の見返りを用意できない。

 派閥の人事システムには根本的な欠陥がある。それは与党を前提とした制度だという点である。野党の状況で派閥に属していても、ポストにあずかれる可能性が減り、議員にメリットがあまりない。野党生活が長引けば、派閥の求心力は減退する。

 現時点の自民党にとって、派閥が機能を発揮できる環境はそろっていない。そもそもこの人事管理制度は与党にいることを条件にしている。派閥の人材育成に期待する意見は観念的空想にすぎない。政権交代を考慮に入れていない制度は、民主主義にふさわしくない。もはや時代遅れとなったけれども、派閥に代わる効果的な人事システムが永田町で見つかっていない。政治記者も新たな人事システムの提言の方が建設的である。

 世界各国にはさまざまな政治家の養成システムが試されている。また、国内からも学者や有識者などが制度を提案している。日本の場合、まず、市民が政治家を育む自覚を持つ必要があるだろう。

 対人口比の国会議員数は、国際比較をすると、日本は少ない。ただし、歳費が多い。歳費の大幅カットや議員宿舎の売却を進めるべきだ。議員定数の削減は民意の反映の観点から絶対に避けなければならない。議員定数の削減案が流通し続けているのは、政治家と市民の双方に分離している意識があるからだ。政治家は働いていないから減らせばいいという意見は政治を他人事として考えている証である。

 戦後を代表する政治家の多くが政治への期待が高かった時代、すなわち1960年以前に政界入りしている。政治家は草の根から生まれる。育てるのもこれからは草の根だ。政治家は世俗の多種多様なコミュニケーションの中から成長していく。
〈了〉
参照文献
天川晃他、『日本政治外交史』、放送大学教育振興会、2007年

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