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グッドモーニング,レボリューション(6)(2014)

6 小さなマルクス主義
 脈絡なく、曲をかけちゃったんで、話を戻すと、ジャン=フランソワ・リオタール(Jean-Francois Lyotard,)は『ポストモダンの条件(La condition postmoderne)』(一九七九)で東西冷戦構造の解体を受けて、ほんとは『ポストモダン事情』の方が適切なんだけど、マルクス主義という「大きな物語(Metanarratices)」の終焉を唱えているけど、まあ、「大きなマルクス主義」の時代は終わったと考えるべきです。「小さなマルクス主義」は、むしろ、有効になっているんじゃないですかねえ。雇用が不安定でしょ?非正規雇用が四割超えてるんしょ?しかも、小さければ、身軽だから、変化にも対応しやすい。鯨一頭と鰯の群れではどっちがUターンしやすいか考えてみればわかるでしょ。変化に備えて、一時的・暫定的な拠点でいい。ミル・プラトーってそういうこと。あんまり何かの「終わり」って大見得きらないほうがいい。時代の流れはそうじゃない?

 夏と聞いて、この曲を思い出しちゃったんで、さっきかけたばっかりだけど、また曲をかけちゃいます。六〇年代くらいまで、映画音楽とかイージー・リスニングがヒットチャートの上位にいたんです、今では信じられませんけど。これもそんな時代の曲です。一九五九年に公開されたアメリカ映画『避暑地の恋(A Summer Place)』の主題歌としてヒットしています。パーシー・フェイス・オーケストラ(Percy Faith & His Orchestra)で、『夏の日の恋(Theme From ”A Summer Place”)』。

 ♪♪♪♪

 イギリスのマルクス主義者レイモンド・ウィリアムズ(Raymond Williams)が『長い革命(The Long Revolution)』(一九六一)で展開した通り、第四インターナショナルの指導者エルネスト・マンデル(‘Ernest Mandel)の定義に従うと、「後期資本主義社会(Late Capitalism)」における革命は政治革命・社会革命・文化革命が組み合った静かな革命であり、長い革命にならざるをえない。政治と社会、文化はジェンカを踊りながら、進んでってる。ハィ レット キス 頬寄せて レット キス 目を閉じて レット キス 小鳥のように 唇を重ねよう♪ギリシアのニコス・プーランツァス(Νίκος Πουλαντζάς)は、ルイ・アルチュセールの「国家のイデオロギー装置」を受けて、『国家・権力・社会主義(State, Power, Socialism)』(一九七八)の中で、国家を階級の「力関係の凝縮されたもの」と把握している。国家はブルジョア階級による支配の道具だけど、プロレタリアートもその維持に加担しているじゃないか。確かに、被支配者の間でも、支配者=被支配者が存在する。労働者の中で女性や障害者が差別されているのも、その一つです。

 最初の小さなマルクス主義者とも言うべきアントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)は「分子的変化」という概念を提示したけども、革命はそもそも化学反応です。革命はいつもその爆発のエネルギー、熱力学的側面ばかり見られてますが、化学的側面を忘れちゃいけません。「空想から科学へ」は「錬金術から化学へ」と言い換えられる。フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)は、『資本論(Das Kapital)』第二巻の「序文」の中で、「そこで、マルクスは剰余価値についてどんな新しいことを言ったのか?彼のすべての社会主義的先行者の諸理論が、ロドベルトゥスのそれを含めて、無効に燃えつくしてしまったのに、どうしてマルクスの剰余価値理論が、青天の霹靂のように轟いたのか、しかもすべての文明国において?化学の歴史はこれについて、一つの例をもってわれわれに教えることができる」と記し、フロジストン酸素を否定したアントワーヌ・ラヴォアジェ(Antoine Lavoisier)にカール・マルクスをなぞらえています。変化は徐々にではなく、急速に起こる。それは、時として、爆発が生じてしまうように、危険。でも、急速な短期的変化なんて長続きしない。ここはどこ?ちっちゃな輪?ううん、おっきな輪!沖縄!

 国家をのっとるよりも、運営するほうがどれだけ難しいかは多くの軍事クーデターが教えてくれてますです。「分子的変化」は社会的運動の中にあって、それは誰も気がつかないうちに、社会勢力の構造に変化を引き起こし、年月を経て、それが沈着して社会の基盤まで変容して大きな変化が起こる。このプロセスにおいて、労働者階級は同業的・経済的段階から知的・道徳的段階へと階級・国家を超えた連合体を形成するってグラムシは考えている。ラテン語の格言にもこうあります、「ゆっくり急げ」。さらに、ブルガリア出身のユダヤ系の思想家エリアス・カネッティ(Elias Canetti)は、『群衆と権力(Masse und Macht)』(一九六〇)において、多数性・画一性を特徴とする「群衆(Crowds)」と少数性・多様性を特色とする「群れ(Packs)」を分類している。DGは、それを受けて、『千のプラトー』で、前者を「モル的」、後者を「分子的」と把握し、「分子革命」を提唱する。大きな革命はモル的でしかなかったが、これからの小さな革命は分子的。分子的変化は「群集」ではなく、「群れ」として表象されなければならない。従来のマルクス主義者は革命を熱力学的な認識によって把握していたけど、フェリックスの「分子革命」は化学的な平衡=非平衡に基づく革命です。それによって、メッセージや観念の伝達や植えつけ、組織の再編による再管理ではなく、個々人の情感や無意識の中に身ぶりや表情、自律神経、免疫の変化として現われてくる変化を起こさせる諸々の活動を示唆している。

 フクシマは分子どころか放射線だもんね。その意味じゃさ、分子革命って、なんか古いかもしんえーけど、前も言ったように、時代的限界は簡便な。でも、フクシマ時代にフェリックスを読み替えることはできると思う。分子生物学から考えてみ。放射線も生体内の分子レベルに働いて問題を生じさせるわけでしょ?フェリックスは医者だから。それを忘れちゃダメだよ。

 病理説には体液説と細胞説があります。体液病離接はヒポクラテス以来の伝統的な学説ですが、今は細胞病理節が勝利したと言っていいのです。体液病理説は人間には四つの体液があり、それは血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁で、その調和によって心身の健康が保たれていて、狂うと病気になるという考えです。この四種類の体液はエンペドクレスらの熱・冷・湿・乾の四つの基本性質に対応しているのです。

 一方、細胞病理学はドイツの病理学者 R・ウィルヒョーが提唱した学説です。「細胞は細胞より」というテーゼで有名です。生命体は細胞によって構造として構成されていて、すべての疾病は細胞の異常に基づくと主張しています。ES細胞やiPS細胞という発想もこの延長です。分子生物学とも相性がいいのは、細胞病理学の方です。

 分子レベルへの認識はナノテクノロジーのような工学や素粒子研究みたいな物理学の対象領域ではなく、日常生活においても見られる。これは幸運であるとは言えないよね。例えば、環境ホルモン。あれは非線形的な事態。内分泌かく乱物質による生態系への影響は従来考えられてきた化学物質の摂取量よりはるかに少ない量だもの。環境ホルモンは死ぬことはないけど、生殖器や生殖機能の構造に異常をきたしてしまう。因果関係を科学は問題にしてきたけど、環境ホルモンの場合、影響ですから。他にも、分子レベルは至るところに見出される。ドラッグ、筋肉増強剤や興奮剤などのドーピングも同じだ。どっちも著しい健康被害をもたらすことがある。まいったね。ベン・ジョンソンもジェイソン・ジアンビーもよくやるよ。♪Killing me softly with his song.

 フェリックスは、「分子革命」の一環として、トニー・ネグリと共に、七〇年代、アウトノミア運動を支持している。イタリア国内では、自由ラジオ、空屋占拠、アート、音楽、ジルとフェリックスの「分子革命」や「リゾーム」、「ミル・プラトー」の実践として活動してもいたんだけど、六八年世代の学生運動同様、テロリズムに走ったり、内ゲバが横行し始めたせいで、アウトノミア全体が「赤い旅団」と不適切な関係にあると見なされて──Le Brigate Rosseはアルド・モロ元首相を誘拐した上で、「有罪」として処刑しちまった──、警察と軍隊によって解体され、トニーはフランスに亡命しなきゃならなくなる。かわいそうなトニー!♪Tony, Tony. Always you, every thought I'll ever know Everywhere I go you'll be. All the world is only you and me.実は、イタリアでアウトノミアが始まった頃、ヨーロッパでは自治、あるいは自主管理が新たなマルクス主義の傾向として再検討されている。コルネリウス・カストリアディス(Cornelius Castoriadis)が『社会主義か野蛮か(Socialisme ou Barbarie)』誌に多くの論文を発表してたんだけど、そこで「自主管理民主主義」、アウトノミアの理論を主張しています。このギリシア人は非マルクス主義系の社会主義思想家。でもね、カール・マルクスも、『資本論』の註の中で、「ある人間が王であるのは、ただ他の人間が彼に対して臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている」と書いています。ベニート・ムッソリーニのクソッタレにとっ捕まえられちまったトリノのアントーニオも、労働者による自主管理を軸とする工場評議会運動を展開してる。

 おっと、汚い言葉を使っちまった。ラジオのアナウンサーやパーソナリティは、概して、丁寧な言葉遣いです。でも、うちは放送法に従ってるわけじゃないから、謝りはしない。いくらだって言える。Connard! Sale con! Timblé! Crétin! Salaud! Salope! Couillon! Putin! Couille mole! Tu fais chier! T’es chien! Espéce d’imbécile!もんだどんだい。でも、規制されていないから、使うというのも、垢抜けないんで、これ以降はちょっと控えよ。自主的に放送倫理をつくれなきゃね。土居まさるさんも草葉の陰からそう見守ってくれてるさ。

 ここで一曲行こう。身も心も落ち着かせるために、ビリー・ホリディで、『ボディ&ソウル』。

My days have grown so lonely
For you I cry, for you dear only
Why haven't you seen it
I'm all for you body and soul

I spend my days in longin'
I'm wondering why it's me you're wronging
I tell you I mean it
I'm all for you body and soul

I can't believe it
It's hard to conceive it
That you'd throw away romance
Are you pretending
It looks like the ending
Unless I can have one more chance to prove, dear

My life a hell you're making
You know I'm yours for just the taking
I'd gladly surrender
Myself to you body and soul

What lies before me
A future that's stormy
A winter that's gray and cold
Unless there's magic the end will be tragic
And therefor a tale that's been told so often

My life revolves about you
What earthly good am I without you
Oh I tell you I mean it
I'm all for you body and soul.

 うーん、いいね。きれいなこ・と・ば。


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