ジョン・コットンとロジャー・ウィリアムズ(1)(2006)

ジョン・コットンとロジャー・ウィリアムズ
Saven Satow
Jul. 10, 2006

「かくしてアメリカは未来の地である。いつの日か、南北アメリカが戦い、そのことで何らかの世界史的意義を見出されるかもしれないが、予言をするのは哲学者の仕事ではない」。
G・W・F・ヘーゲル『歴史哲学』

第1章 ジョン・コットン
 ジョージ・W・ブッシュ大統領が登場して以来、政治と宗教あるいは理性と信仰といった問題が浮き彫りになっています。彼の重要な支持者である宗教右派の主張する中絶禁止や創造論教育、同性婚の禁止など大統領は肯定的に考えていますが、それに対する抗議の声も大きく、しばしば暴力的な衝突を生んでいます。連邦最高裁の判事の選出も、この問題におけるイニシアチブが絡み、一時紛糾しています。

 宗教戦争を教訓にする近代は、国によって線引きが若干異なるものの、政教分離が原則です。合衆国もそれを踏まえていますが、欧州諸国と比べて、いささか前時代的に、宗教の政治への干渉が見られます。

 なるほど、同性婚を認めている国は世界的にまだ少数です。また、映画『ダ・ヴィンチ・コード』の公開に際し、反キリスト教的と唱える抗議運動はアメリカ以上にフィリピンの方が激しいものです。けれども、アメリカの場合、神の存在を信じていないと公言して、上下院議員や大統領に当選できる政治家がありえないように、宗教が政治問題化しやすいのです。

  長年アメリカの諸州で続き、再燃している進化論の学校現場からの追放は、現在のヨーロッパにおいて問われることさえありません。フランス映画『TAXI』で、バイク便からタクシーに鞍替えする運転手に向かい、進化論に逆行する行為と同僚たちがからかうシーンがありますが、リメークの米版ではこの部分は変更されています。

 こうした事態はアメリカがアイデンティティを理性と信仰の二面性に求めてきたという歴史にその一つの原因があると思われます。

 アメリカにはピルグリム・ファーザーズの神話があります。ヨーロッパで迫害された清教徒が信仰の自由を求めて、メイフラワー号に乗り、新大陸へ渡ってきたという伝説です。それはアメリカ人がアイデンティティの基盤として必要としたものだと言っていいでしょう。

 清教徒、すなわちピューリタン(Puritan)は、16世紀後半、イングランド国教会の改革政策を不徹底とし、一層の純化運動を目指したグループです。清教徒は広い概念で、その定義は曖昧です。

 16世紀前半、ヘンリー8世は自らの離婚問題をきっかけとして、ローマ・カトリックから独立したイングランド国教会を設立します。けれども、同世紀半ばの宗教戦争の頃、メアリ1世がカトリックに復帰、その迫害を避けるため大陸に逃れた国教会の信者はかの地で急進的な改革運動の影響を受けます。1658年、エリザベス1世が即位すると、彼らは帰国するのですが、女王は穏健な宗教改革の方針を採り、大陸のプロテスタントとカトリックの中道に向かいます。

 この中道路線に不満を抱く改革派の信者と国教会から分かれた分離派の一部が、17世紀に入って、ロバート・ブラウンをリーダーとする会衆派(組合派)を結成します。ブラウンは教会の自立、自給自足、国家からの独立を訴えたため、激しい弾圧に直面し、オランダへ避難します。

 彼らの一部がアメリカ大陸を目指し、ヴァージニア植民地の北のはずれを目的地に選びます。営利事業を名目としてヴァージニア会社に移住を申請し、特許状を手にした40家族102人は180トンの哀れな帆船メイフラワー号に乗りこむのです。

 実際には、メイフラワー号に乗船していたのはピューリタンだけはなく、商売人やその使用人、一山当ててやろうとする者もます。彼らは全員ヴァージニア会社の特許を得て渡航したのですが、予定のコースを外れ、イギリスの管轄外だったプリマスに上陸することになってしまいます。

 そこで、清教徒のリーダーのウィリアム・ブラッドフォードは、利害を異にする移住者が安定した社会を築くために、その特許状に代わる新たな誓約が必要だと考えます。この新たな契約書は船上で結ばれます。それは1620年のことです。

 このメイフラワー誓約は、封建制が根強いヨーロッパと違い、身分に関係のない最初の「社会契約」です。けれども、近代的であると同時に、宗教規則を根本にし、船上の仲間だけで、すなわち先住民族を排除して結ばれたという点で後のアメリカを予感させます。この神話の中にすでに政治と宗教の拮抗が見られるのです。

 メイフラワー誓約やプリマス植民地に関する神話のほとんどは後世につくりあげられたものです。「ピルグリム」の命名者で、総督のブラッドフォードが残した記録『プリマス植民地について』には、その理念がいかに早く崩れ、性犯罪や土地所有をめぐる争い、人々の反目などがつづられています。

 2年目の秋に収穫を祝った集会が感謝祭の起源とされるとしても、プリマスの理念が広がって、合衆国建国につながったわけではありません。1640年に、イギリス本国で清教徒革命が勃発し、各植民地からその成功によって帰国した信者も多いのです。しかも、1681年、二進も三進も行かなくなったプリマス植民地はマサチューセッツ湾植民地に吸収されてしまいます。

 宗教的迫害を逃れて、新大陸に移住するという考えは清教徒自身からも非難の声が上がっています。キリスト教徒たるもの、迫害には、パウロのように、殉教をもって応えるべきではないのかというわけです。これはキリスト教原理主義者として当然の見解でしょう。

 しかし、強まる弾圧に対し、1630年、ジョン・ウィンスロップが率いるグループも新大陸移住に踏み切ります。彼らはマサチューセッツ湾植民地のセイラム(現ダンヴァーズ)に到着し、新大陸に「丘の上の町」を建設しようと試みます。国内にとどまる信者は彼らを臆病者と罵り、渡航を逃亡と軽蔑しています。清教徒自身の中の分裂も激しくなっていきます。

 そのとき、移住を擁護したのがジョン・コットン(John Cotton)です。彼は当時有数の神学者で、教会の制度改革にも着手していた人物です。その神学は人間の抗い難い原罪と教条的な終末論に彩られています。

 コットンは、説教「殖民地へ向けて主の約したまえること」において、新大陸をイスラエルになぞらえ、移住を出エジプトに譬えています。植民地への渡航は卑しむべき逃亡などではなく、聖なる使命なのだと説くのです。

 32年には、彼もマサチューセッツ植民地のセイラムへ移住し、ニューイングランド最高の牧師と見なされるようになります。その後、イギリスでもその名声が衰えることはありません。清教徒革命の時期、オリバー・クロムウェルも彼の元へ手紙を送っています。コットンの終末論に影響を受けた勢力が革命の主導権を握るのです。

 現実の出来事を聖書の記述との対応で捉える思考方法を予型論と呼びます。以後、ピューリタンはこの論法によって植民を正当化していきます。

 セイラムには、前年から就任した牧師がいます。彼は真っ当な宗教なら政治と関わるべきではなく、マサチューセッツ湾植民地の教会は国教会と縁を切るべきだと説きます。また、新大陸は先住民のものであって、イギリスはそれをマサチューセッツ湾植民地に所有させる権利など持ってはいないとも説教します。

 けれども、彼はジョン・コットンにそれを糾弾され、職を追われただけでなく、植民地自身から追放されてしまいます。四人の信者と共に、彼はナラガンセット湾の北部沿岸の土地をネイティヴ・アメリカンから購入して、集落をつくります。バプテスト開拓者のための宗教的自由の地と宣言し、「プロヴィデンス」と命名しています。そこは現在のロードアイランド州に含まれています。

 この人物こそロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)です。彼は、以後、コットンとの間で、政治と宗教をめぐる激しい論戦を繰り返していくのです。

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