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モニタリー・デモクラシー(2013)

モニタリー・デモクラシー
Saven Satow
Dec. 14, 2013

「おまえのひみつをしっている」
高橋留美子『うる星やつら』

 2009年に刊行された大著『デモクラシーの生と死(The Life and Death of Democracy)』の邦訳を機に、著者のジョン・キーン(John Keane)シドニー大学教授が来日し、12月初め、早稲田や慶応、法政、同志社、日本記者クラブなどで講演を行っている。教授は「モニタリー・デモクラシー(Monitory Democracy)」という概念を提起して、世界的に注目されている。なお、「モニタリング・デモクラシー」と訳される場合もある。

 教授は民主主義を三つに区分する。集会制デモクラシーから代表制デモクラシーへと変容し、現代はモニタリー・デモクラシーの時代である。民主主義は欧米的価値観ではない。広場などに人々が集まり、討議を通じて意思決定をする集会制デモクラシーは、最近の考古学研究の成果を参考にすれば、古代メソポタミアにすでに見られる。

 モニタリー・デモクラシーは1945年頃に始まる。ナチスの全体主義は代表制デモクラシーを機能不全に陥らせる。ナチズムは議会制民主主義を利用して権力を掌握して、それを完全に否定した政治運動である。この経験を経て、政党や議会、行政による権力行使を組織やネットワークが監視するようになる。これは代表制デモクラシーを超えるのではなく、その弱体化を補完するものである。

 戦後の重要な政治課題は政党や政府ではなく、市民のモニタリング組織によって提起されている。黒人の公民権や女性の権利、貧困対策、地球温暖化など枚挙にいとまない。近年、インターネットの発達・普及に伴い、モニタリング組織の活動と影響力が増している。ウィキリークスやエドワード・スノーデンは政府の電子情報を公開している。

 政府を始めとする政治権力はこの動きを黙らせようと、知る権利や基本的人権を制限する法律を決めたり、監視活動を強化したりしている。1312月に安倍晋三内閣が公布した特定秘密保護法は21世紀における民主主義体制での最悪の例である。

 キーン教授のモニタリー・デモクラシーはミシェル・フーコーの権力論に対する一つの解答である。彼は、ジェレミー・ベンサムの考案した「パノプティコン」を例に、現代の権力を監視に見出す。このシステムにおいて実際に監視しているかどうかが重要ではない。されているかもしれないと想像すれば、人は萎縮する。それが監視の効果である。この情報の非対称性が現代の権力の源泉と考えられる。かつて力関係を逆転する道具は武器だったが、今やそれは情報である。

 権威主義・全体主義体制は監視によって支配された社会だが、民主主義国家でも巧妙に行われている。権力はもっともらしい理由を挙げて監視を拡大・強化する。その典型がテロ対策である。テロリズムの問題はそれを口実に権力が市民の権利を制限することである。しかも、実際にテロが自国で起こらなくてもかまわない。権力はテロの脅威を挙げて想像力に働きかけ、監視を正当化する。

 今日、膨大なデジタル情報が世界中をめまぐるしく流通している。それを検閲したり、盗聴したりすることも決して難しくはない。権力はプログラムによってそうした情報を大規模に監視できる。

 権力は市民を監視する一方で、入手した情報を隠蔽し、想像力を刺激して内面まで支配してしまう。これこそが体制によるテロㇽであり、「見えない恐怖政治(Regime of Invisible Terror)」である。

 非対称な戦いであるなら、ゲリラ戦に持ちこめばよい。こうした状況において市民が権力に対抗するのがモニタリー・デモクラシーである。権力も市民に監視される。しかし、それは反権力と言うよりも、脱原発運動がそうであるように、よりよい社会を構築するための情報の共有である。

 権力による市民のモニタリングの規制は新たな政治課題の発見を阻害する。モニタリング組織やネットワークは多元的であるため、見落としてきたものを顕在化させる。未知の問題に対処するには、協同思考・作業が効果的である。市民は公共性・公益性のために、粘り強く、モニタリングを続ける必要がある。

 特定秘密保護法案の問題は権力をめぐる現代の形而上学の議論からも根拠付けられる。理論は人々の間に理解を共有させる。理論を欠く法は恣意でしかない。

 もっとも、秘密が増大し続ければ、担当する組織による管理もより困難になる。秘密の管理はデジタル技術に依存せざるを得ない。けれども、プログラムのバグやシステムの不具合、物理的トラブル、ヒューマン・エラーなどは確率論的に急増する。それらを通じて秘密が漏れ出す可能性は高くなる。

 また、こうした監視は倫理性とも深くかかわっているので、義憤に駆られた内部告発も多くなる。倫理である以上、その行為に世論の支持も期待できる。この場合、それは国内に限らない。さらに、管理システムへのハッキングを始めとする不正アクセスが増大するのは言うまでもない。

 巨大で高度のセキュリティが要求される情報システムは、ITガバナンスの理論から見ると、人的・技術的・経済的な課題が大きくなり、リスクや実効性の障害が増す。最も単純には、リスク量=情報資産価値×脅威×脆弱性で表わされる。技術的・物理的よりも人的要因がリスクを大きくする。システムの開発・運用・保守を同一人物が行うことはない。運用に際しても、アクセス権限の管理が煩雑になる。また、老朽化に伴い、新しいシステムに更新される場合がある。この旧ステムの廃棄の際にも情報が漏れる可能性がある。さらに、データ量は指数関数的に増えていくと予想されるので、予算も膨らむ一方だ。

 そもそも、情報の洪水によって、どれをどう分析していいのかさえわからなくなったり、先入観に適合するように捉えたりして、十分生かせないどころか、誤った結果を導き出してしまう。率直に言って、巨大なシステムほど手段が自己目的化するから、課題を挙げればきりがない。権力の漢詩願望は身動きがとれないほどの肥満体に自らをしてしまう。おのれが見えていない。

 広場制デモクラシーが直接民主主義、代表制デモクラシーが間接民主主義だとすれば、モニタリー・デモクラシーはいずれとも異なる。自律的な中間集団やネットワークが介在するため、開放的で、動的、非定型である。

 けれども、問題を探究・提起する際、理念とルールを尊重し、直間どちらの民主主義も否定しない。相互作用をもたらし、民主主義の可能性を拡張している。それはモニタリングを通じた問題の認知という意味で「認知民主主義(Cognitive Democracy)」と呼ぶこともできるだろう。
〈了〉
参照文献
ジョン・キーン、『デモクラシーの生と死』上下、森本醇訳、みすず書房、2013
高橋留美子、「おまえのひみつをしっている」、『うる星やつら』30、少年サンデーコミックス、1986
「シドニー大学ジョン・キーン会見記録」、日本記者クラブ、2013124
http://www.jnpc.or.jp/activities/news/report/2013/12/r00026609/


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