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The Legend of 1919─有島武郎の『或る女』(5)(2004)

五 二つの矛盾した本能

 近代社会では、有島によると、「何物も男性から奪われた女性は男性に対してその存在を認めらるるために」、「生殖に必要である以上の淫欲の誘引」によって男性と戦わなければならないが、女性には「男子に対する純真の愛着」があって、「この二つの矛盾した本能が上になり下になり相剋しているのが今の女性の悲しい運命です。私はそれを見ると心が痛みます。『或女』はかくて生まれたのです」(一九一九年一〇月一九日石坂養平宛書簡)。

 ギー・ド・モーパッサンの『女の一生』やヘンリック・イプセンの『人形の家』など女性の自立をテーマにした作品も多いように、神の死が女性を文学の表舞台に登場させている。さらに、マーク・トゥエインが一九世紀の「ふたりの偉人」の一人として絶賛したヘレン・ケラーが、『わたしの生涯』において、「文学は私のユートピアである」と記した一九世紀には、女性作家が多く登場している。メアリー・シェリー、エミリーとシャーロットのブロンテ姉妹、ルイーザ・メイ・オールコット、ジェイン・オースティン、ハリエット・ビーチャー・ストウ、マーガレット・ミッチェルなど彼女たちは非常に豊かな構成力を発揮している。

 しかし、女性の社会との闘争は大団円を迎えるとは限らない。葉子に対する儀式的迫害は春ではなく、実りのない冬を迎える準備である。ヒロイズムとアイロニーの中間にいる犠牲者を苦しめ、救済が主題ではあるものの、作品はそのパロディとエレジーを体現する。

Woman is the nigger of the world
Yes she is... think about it
Woman is the nigger of the world
Think about it... do something about it

We make her paint her face and dance
If she won't be a slave, we say that she don't love us
If she's real, we say she's trying to be a man
While putting her down we pretend that she's above us

Woman is the nigger of the world.. yes she is
If you don't believe me, take a look at the one you're with
Woman is the slave of the slaves
Ah, yeh... better scream about it

We make her bear and raise our children
And then we leave her flat for being a fat old mother hen
We tell her home is the only place she should be
Then we complain that she's too unworldly to be our friend

Woman is the nigger of the world... yes she is
If you don't believe me, take a look at the one you're with
Woman is the slave to the slaves
Yeh (think about it)

We insult her every day on TV
And wonder why she has no guts or confidence
When she's young, we kill her will to be free
While telling her not to be so smart
We put her down for being so dumb

Woman is the nigger of the world
Yes she is...
If you don't believe me, take a look at the one you're with
Woman is the slave to the slaves
Yes, she is...
If you believe me, you better scream about it

We make her paint her face and dance
We make her paint her face and dance
We make her paint her face and dance
(John Lennon & Yoko Ono “Woman Is the Nigger of the World”)

 ロマネスクである葉子は、自らの役割を自覚して、力を求めている。彼女が、「取り所のない平凡な気の弱い精力の足りない男に過ぎなかった」木部に惹かれて結婚するが、それは「殊に日清戦役という、その当時の日本にしては絶大な背景を背負っている」からである。木部は近代日本における最初の父殺しの観察者であり、彼女は歴史のエネルギーに恋している。木部は男として葉子を確実に占領したと感じたときから、高圧的に振舞うと同時に、それまで見せなかった女々しさを露呈し、彼女は幻滅する。

 その後、このロマネスクが木村を選ぶのは、次のような理由からである。

 これから行こうとする米国という土地の生活も葉子はひとりでに色々と想像しないではいられなかった。米国の人達はどんな風に自分を迎え入れようとはするだろう。とにかく今までの狭い悩ましい過去と縁を切って、何の関わりもない社会の中に乗り込むのは面白い。和服よりも遥かに洋服に適した葉子は、そこの交際社会でも風俗でも米国人を笑わせない事が出来る。歓楽でも哀愁でもしっくりと実生活の中に織り込まれているような生活がそこにはあるに違いない。女のチャームというものが、習慣的な絆から解き放されて、その力だけに働く事の出来る生活がそこにはあるに違いない。才能と力量さえあれは女でも男の手を借りずに自分を周りの人に認めさす事の出来る生活がそこにはあるに違いない。女でも胸を張って存分呼吸の出来る生活がそこにはあるに違いない。少なくとも交際社会のどこかではそんな生活が女に許されているに違いない。葉子はそんなことを空想するとむずむずする程快活になった。(略)
 木村を良人とするのに何んの屈託があろう。木村が自分の良人であるのは、自分が木村の妻であるという程に軽い事だ。木村という仮面……葉子は鏡を見ながらそう思って微笑んだ。

 木村を「米国」という優越とした場所に住んでいるという理由で、葉子は選択している。葉子が選ぶ男は自分より優越していると感じられるものたちである。彼女はそれを自らを映す「鏡」として考えている。「人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである」(カール・マルクス『資本論』)。

 ところが、葉子は、同じ理由ながら、倉地に対しては先の二人とは少々違う反応を示している。倉地は木村ほど軽くない。

 彼女は、『或る女』の中で、倉地も、「自分と同様に間違って境遇づけられて生れて来た人間」だと次のように思っている。

 世が世ならば、倉地は小さな汽船の事務長なんぞをしている男ではない。自分と同様に間違って境遇づけられて生れて来た人間なのだ。葉子は自分の身につまされて倉地を憐れみもし畏それもした。今まで誰の前に出ても平気で自分の思う存分を振舞っていた葉子は、この男の前では思わず知らず心にもない矯飾を自分の性格の上にまで加えた。事務長の前では、葉子は不思議にも自分の思っているのと丁度反対の動作をしていた。無条件的な服従という事も事務長に対してだけ唯望ましい事にばかり思えた。この人に思う存分打ちのめされたら、自分の命は始めて本当に燃え上がるのだ。こんな不思議な、葉子には有り得ない欲望すらが少しも不思議でなく受け入れられていた。

 葉子は自己の探求として、倉地を選んでいる。それは、むしろ、彼女自身が反発してきたピューリタニズム的である。倉知は葉子の自己を映す鏡であり、鏡が壊れたとき、彼女は自己を失う。ピューリタンは自己の外部への無限の拡大が挫折し、収まりきれなくなった自己を内的に処理しなければならないという精神状況に置かれる。ロバート・バートンが『メランコリーの解剖』で書いているように、それは「メランコリー」である。

 メランコリーは自己基盤の喪失感であり、自己を意識によって操作し得る対象とした結果生ずる心理的自己破綻である。帰国後の葉子の破綻が急激なのは、倉地が短期間のうちに変貌し、自己の一貫性の喪失が突然訪れたからである。倉地は事大主義者であり、去勢コンプレックスにとらわれているにすぎず、彼女にとって、ハメルンの笛吹き男ではなく、結局、カリオストロにすぎない。

 『或る女』において、性はエディプス的主題である。葉子は言葉に反応するが、言葉は、人物が主体的に語るものではなく、階級や行動、態度が語らせるものである。『或る女』の主人公が女性であり、罪は痛みとして示されるように、その後編は創世記的である。「堕罪神話では好奇心、虚偽的な欺瞞、誘惑に対する弱さ、肉欲、要するに一連の女性的な情熱が災厄の根源と見做されたのである」(フリードリヒ・ニーチェ『悲劇の誕生』)。

 葉子はアダムとイヴの神話に譬えられる前エディプス的な口唇期の段階にある。「葉子の敵」は「母の虐げ、五十川女史の術数、近親の圧迫、社会の環視、女に対する男の覬覦、女の苟合」である。葉子にとって、母は「心の底で一番よく葉子を理解してくれ」ながら、「仇敵」であるのに対し、「父は憐れむべく影の薄い一人の男性」である。この圧縮を開放のサイクルへと転換するために、性が契機となる。

 葉子にとっての性的対象は、前エディプス期であるため、母親である。彼女自身が定子の母となってからも、キリスト教婦人同盟副会長の娘という意識が強い。超自我は親の権威をとりいれ、エディプス的願望を禁止する。彼女は父親からの愛情を望みながら、それが不十分であるため、自己に対する不安が「思う存分打ちのめされ」ることを願望にしてしまう。牧師の内田を最期に呼ぼうとするのは近親相姦的行為である。

 葉子の行動は、ジークムント・フロイトの『悲哀とメランコリー』によると、「とりいれ」と「投影」である。自己愛的自我を基本とする防衛規制がそこには働いている。陰性エディプス・コンプレックスにとらわれている彼女の愛はアナクリシスである。倉地は葉子にとって種類項であり、同一化・投影の関係にある。葉子の愛情は倉地という自分に似た対象へと向けられている。倉地は、たとえ陽性であるとしても、エディプス・コンプレックス下にあるという意味では、彼女と同じ種類である。

 『或る女』は、以上の通り、一九世紀的な世界に属し、近代小説の原則を踏まえている。しかし、この作品が一九一九年に刊行されたという事実を忘れてはならない。一九世紀は、ウィーン体制と一八四八年革命という問題系から考察する限り、一八〇一年に始まり、一九〇〇年に終わるわけではない。一八二〇年から一九一九年と見なすべきである。一九一九年は一九世紀の最後の年であり、次の世紀の兆候があちこちに出現している。翌年から、二〇世紀を表象する「ローリング・トゥエンティーズ」が始まる。『或る女』はそれが入りこんでいるために、近代小説から逸脱してしまうるのである。

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