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ザラッとくるオノマトペ(7)(2021)

第7章 ザラッとではなく
 これまで言及してきた文学者はオノマトペの使い方が異なっている。しかし、いずれもその効果を生かしている。オノマトペは対象の気分や雰囲気を表わす。彼らはそのような特徴があるからこそ理性的・論理的には語り得ぬ世界をオノマトペによって表現する。いまだ知られていなかったオノマトペの可能性を顕在化させる。こうした作品を分析するには、日本語のリテラシーに基づいた読解が不可欠だ。

 もちろん、オノマトペの巧みな使い手は言及してきた4人だけではない。しかし、彼らはいずれも用法が明確で、理念系として取り上げることができる。賢治は造語型、中也は変化型、太宰はニュアンス型、梶井はタイミング型と呼ぶことができる。

 文学者以外に意欲的にオノマトペを使用する表現者がいる。。先に岡本喜八監督に触れたが、黒澤明監督もそうである。彼は山本周五郎の『季節のない街』を原作にした映画『どですかでん』を制作している。この「どですかでん」は六ちゃんという少年の口癖で、オノマトペである。貧しい地域に住む彼は学校にも行かず、毎日、近所の空き地で一人市電ごっこをしている。運転士になりきり、「どですかでん」と言いながら、自身を路面電車に見立てて走っている。ただ、少年は本気で市電を走らせているつもりだ。しかし、映画の登場人物は、程度の差こそあれ、どこか六ちゃんと重なって見える。

 黒澤監督は、原題通りではなく、タイトルをオノマトペに変えている。この世界の気分は「どですかでん」と呼ぶ他ないものだ。しかし、賢治と違い、映像作品でもあるから、イメージできる。その意味では「どですかでん」は太宰のような比喩である。黒澤監督の用法は賢治型と太宰型のミックスである。

 日本語の母語話者はオノマトペを幼い頃から使っている。むしろ、最初に覚える言葉の一つである。最も身近だからついつい安易に扱いかねない。けれども、そこに見逃されたものがある。それは文学も同様である。

 文章には描写が大切だ、描写が出来ていないと何を書いているのかわからない、等と、もっとも過ぎるような事を、小さい手帖を見ながら、おっしゃって、たとえば此の雪の降るさまを形容する場合、と言って手帖を胸のポケットにおさめ、窓の外で、こまかい雪が芝居のようにたくさん降っているさまを屹と見て、雪がざあざあ降るといっては、いけない。雪の感じが出ない。どしどし降る、これも、いけない。それでは、ひらひら降る、これはどうか。まだ足りない。さらさら、これは近い。だんだん、雪の感じに近くなって来た。これは、面白い、とひとりで首を振りながら感服なさって腕組みをし、しとしとは、どうか、それじゃ春雨の形容になってしまうか、やはり、さらさらに、とどめを刺すかな? そうだ、さらさらひらひら、と続けるのも一興だ。さらさらひらひら、と低く呟いてその形容を味わい楽しむみたいに眼を細めていらっしゃる、かと思うと急に、いや、まだ足りない、ああ、雪は鵝毛に似て飛んで散乱す、か。古い文章は、やっぱり確実だなあ、鵝毛とは、うまく言ったものですねえ、和子さん、おわかりになったでしょう? と、はじめて私のほうへ向き直っておっしゃるのです。私は、なんだか先生が気の毒なやら、憎らしいやらで、泣きそうになりました。
(太宰治『千代女』)

 オノマトペはサラッと読めるようではいけない。ザラッとこなければならない。賢治も中也も太宰も梶井もザラッとくる。
〈了〉
参照文献
大岡昇平編、『中原中也詩集』、岩波文庫、1981年
金田一秀穂、『気持ちのいい言葉たち』、清流出版、2009年
三島由紀夫、『豊饒の海 第四巻 天人五衰』、新潮文庫、1977年
同、『花ざかりの森・憂国』、新潮文庫、2020年
森毅、『ひとりで渡ればあぶなくない』、ちくま文庫、1993年

青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/

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