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ウォーレン・スパーン、あるいは衰えの中の成長(2)(2023)

3 技巧派の時代
 スパーンはブレーブスのエースとして毎年35試合以上登板して20勝前後を挙げる安定した活躍を見せます。1949年と50年に最多勝、47年から52年まで最多奪三振のタイトルを獲得しています。

 しかし、1952年、スパーンは異変を感じます。防御率は2.98と決して悪くないのですが、14勝19敗と初めて負け越します。ブレーブスは48年の優勝以降、成績が下降、スパーンの不調もあり、とうとうリーグ7位に沈みます。観客動員数も激減、シーズンオフ、球団は本拠地移転を決定、53年からミルウォーキー・ブレーブスになります。

 スパーンは31歳という年齢に加えて、この年、膝を痛め、速球に衰えが見え始めます。球種も他にカーブだけで、速球が走らないと逃げ道がありません。また、確かに球は速いのですが、コントロールが悪く、行き先はボールに聞いてくれという有様です。奪三振王で、与四球王でもあります。なかなかストライクが入らないと、野手の守りのリズムが悪くなり、打撃にも悪影響を及ぼします。しかも、相手チームはスパーンの投球を分析、攻略法をつかみ、もう怖くないのです。

 モデルチェンジが必要なことは明らかです。スパーンは、翌シーズンに向けて、速球派から技巧派への転身を図ります。彼は、練習中、呪文のように、「バッティングはタイミングを合わせること。ピッチングはタイミングを外すこと(Hitting is timing. Pitching is upsetting timing)」と自らに言い聞かせるのです。

 まず、スパーンはコントロールの改善に取り組みます。狙ったところにボールが行くように、肩の力を抜いて、安定したフォームで楽に投げるコツをつかむ練習を繰り返します。「ホームプレートの幅は17インチですが、真ん中の12インチは無視します。左右2.5インチずつピッチングします(Home plate is 17 inches wide, but I ignore the middle 12 inches. I pitch to the two-and-a-half inches on each side)」。

 そもそも力まかせに投げていては、故障しやすくなります。エースがそれではチームも波に乗れません。チームが優勝数ためにどうすべきか自覚のない投手はエースではありません。

 また、スパーンは三振へのこだわりを捨てます。打者を歩かせないようにし、バックを信頼して打たせて取るピッチングを心掛けるようになっていきます。「ゴロを打たせれば、一度にアウトを二つとれます(When I throw a ground ball, I expect it to be an out, maybe two)」。ヒットを打たれても、次の打者を内野ゴロでゲッツーに仕留めればいいというわけです。こういうコントロールのいい投手なら、野手は守りやすく、攻撃の際にもリズムが生まれます。

 さらに、スパーンは球種を増やすことにも励みます。ただし、一つの変化球を試合で使えるようになるまでには時間がかかります。彼は少しずつ持ち球を多くしていきます。チェンジアップやスクリューボール、シンカー、スライダー、パームボール、ナックルを徐々に習得します。

 20世紀に入るまで、変化球はすべて「カーブボール」と呼ばれています。それが、投手の利き腕と反対側に曲がりながら落ちる変化球だけを指すようになります。そのカーブと逆に、利き腕側に曲がりながら落ちるのがシンカーです。

 スクリューボールは利き腕側に横滑りする変化球です。日本で左投手のシンカーがスクリューボールと呼ばれていますが、これは間違いです。平松政次の「かみそりシュート」がスクリューボールなのです。他方、スライダーは利き腕と反対側に横滑りするものです。

 ちなみに、日本で「シュート」と呼ばれている変化球はスクリューボールとシンカーの中間の変化球です。スライダーとカーブの中間を「スラーブ」と言いますが、それに対応する利き腕側に曲がる変化球です。

 チェンジアップは、速球とほぼ同じ軌道を描きながらも速度が遅く、打者のタイミングを外す変化球です。その際、回転数が少ないため、打者の手元で少し沈みます。スパーンのチェンジアップはサークルチェンジだったとされています。指でOKサインを作ってボールを握るもので、利き腕側に曲がりながら沈む特徴があります。

 パームボールは親指と小指でボールを握り、掌で押し出すように投げるチェンジアップの一種です。かつてアメリカではチェンジアップと言うと、パームボールを指しています。手首に近い方で握ると球速が遅くなり、指先の方だと速くなるというように、速度を変えられる利点があります。

 ナックルは、人差し指と中指、もしくはさらに薬指をボールに立てて握り、押し出すように投げる変化球です。球速が遅く、無回転のため、ボールは揺れながら打者の手元で不規則に落ちます。捕手が捕るのも難しい変化球ですから、投球のほとんどをこれが占めるナックルボーラーもいるほどです。日本伝来はかなり早く、「フォークの神様」杉下茂によると、戦前にはすでに知られていた変化球です。スライダーやフォークボールよりも先に伝わったのですが、現在、あまり使い手がいません。

 1953年、スパーンは早くも復活します。35試合に登板して23勝7敗・防御率2.10をマーク、最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得します。与四球は70で、最も多かった1950年の111から40以上も減っていま。彼は、この後、57年から61年まで最多勝、61年に最優秀防御率のタイトルに輝きます。5年連続・通算8回の最多勝獲得は共に歴代1位です。ただ、この年から最多奪三振のタイトルと縁遠くなりますが、打ち取る楽しさを覚えた彼は気にしてなどいません。

 スパーンは、他にも、1956年から始まったサイ・ヤング賞を57年に受賞しています。彼はMVPに輝いたことがありません。実は、MVPは野手が選ばれやすいのです。それは日本における大リーガーの知名度も打者に偏っていることからもわかるでしょう。そのため、投手にもそれに相当する賞が必要だとして創設されたのがサイ・ヤング賞です。ただ、1967年までは大リーグ全体から1人選出など条件が厳しく、58・59・61・64年は該当者なしとなっています。

 野球では、若手は力、中堅は技、ベテランは頭でプレーするとよく言います。スパーンはまさにそういうプロ生活を送っています。

 スパーンは、1960年、39歳にして初のノーヒットノーランを達成します。さらに、翌年、40歳で二度目を記録しています。その1961年、彼は21勝を挙げます。2年後の1963年には、42歳で23勝をマークしています。33試合登板23勝7敗・防御率2.60で、あの世知エル・ペイジを上回ります。40代で20勝以上を複数回記録したのはサイ・ヤングとスパーンだけです。しかも、63年の与四球は49です。投球回数が259.2ですから、2試合9イニング完投してわずかに3つです。かつてのノーコン投手の面影はもうありません。

 この1963年のスパーンの投球回数は259.2です。現在のMLBで200回を投げる投手はいません。ちなみに、2022年の最多投球回数はニューヨーク・ヤンキースのゲリット・コールの174回です。スパーンは、1955年を除いて、47年から63年まで毎年250イニング以上登板しています。その55年も245.2回です。彼はリーグ最多を4度、300回以上も2度記録、非常にタフで、故障が少ない投手です。

 それを物語る有名なエピソードがあります。1963年7月2日、スパーンはサンフランシスコ・ジャイアンツ戦に登板します。相手はエースのファン・マリシャル(Juan Marichal)です。彼は通算243勝を挙げ、最多勝のタイトルを2回、最優秀防御率を1回獲得しています。二人はお互いに譲らず、両軍無得点のまま延長戦に突入します。ジャイアンツのアルヴィン・ダーク監督は、マリシャルに交代を何度も促します。けれども、彼は、42歳が投げ続けているのに、25歳の自分が先にマウンドを降りるわけにはいかないとそれを拒んでいます。このゲームは劇的な幕切れを迎えます。スパーンは、延長16回裏、ウイリー・メイズにサヨナラ本塁打を浴びてしまうのです。この試合の投球数はマリシャルが227球、スパーンが201球です。

 大リーグには引き分けがありません。スパーンは延長に入ってからも続投することがよくあります。彼の完投数はMLB歴代19位の382です。日本の最多記録は金田正一の365ですので、それを上回ります。スパーンの先発試合数は665ですから、非常に完投率の高い投手です。加えて、登板試合数は歴代76位の750ながら、投球回数は歴代8位の5243.2で、マウンドに登ったら、できる限り長くとどまっていることがここからもわかります。ちなみに、金田の登板試合数は949、投球回数は5526.2です。

 しかし、翌64年、スパーンは急激に成績が下がります。38試合に登板したものの、6勝13敗・防御率5.29に終わります。ブレーブスは彼と来季の契約をしないと決定します。

 1953年にエディ・マシューズ、54年にはハンク・アーロンがデビュー、彼らが育ったブレーブスは当だの軸が揃い、強豪チームへと変わります。57年に世界一、58年にリーグ優勝、プレーオフで敗れるものの、59年は同率首位です。しかし、60年代に入ると、成績が下降、それに伴い、観客動員数も減少します。66年、ブレーブスはアトランタに本拠地を移転します。

スパーンに代わり、エースの座に就いたのが史上最高のナックルボーラーと言われるフィル・ニークロ(Phil Niekro)です。彼は48歳まで現役を続け、スパーンを上回る歴代4位の通算投球回数5804.1を記録しています。

 引退の瀬戸際にいたスパーンに声をかける人物が現われます。ケーシー・ステンゲルです。かつてスパーンから登板の機会を奪った彼は、当時、ニューヨーク・メッツの監督を務め、コーチ兼任での現役続行を彼に申し出るのです。スパーンはステンゲルを恨んでいないどころか、敬愛していたので、喜んでメッツに移籍します。

 しかし、20試合に登板して4勝12敗・防御率4.36と思うような結果が出ず、スパーンはシーズン途中でジャイアンツに移籍します。けれども、サンフランシスコでも16試合に塔婆、3勝4敗・防御率3.39に終わります。

 確かに、勝ち星は伸びていませんが、44歳にして197.2イニングを投げていることに驚かされます。シーズン途中まで、彼は最年長投手としてマウンドに登っています。ところが、それを越されてしまいます。59歳のペイジが現役復帰したからです。9月25日、カンサスシティ・アスレチックスのペイジはボストン・レッドソックス戦の先発、3イニングを投げ、打者10人を被安打1三振1の無得点に抑えています。この二人には年齢の点で因縁があります。こうしたオールドタイマーの話題があったのですが、スパーンと来季のメジャー契約を結ぼうとする球団は現れません。スパーンは引退を余儀なくされるのです。

4 レガシー
 スパーンのMLBでの通算成績は実働21年で、363勝245敗29S防御率3.09です。通算363勝は歴代6位ですが、ライブボール時代に限れば、最多です。ホームランをかっ飛ばすベーブ・ルースが人気となったため、大リーグは打撃戦が観客を集められるとして1920年からより反発力のあるボール、すなわちライブボールを採用します。それ以前の低反発のボールじゃデッドボールと呼びます。通算成績上位の投手は1920年の前に活躍した選手が多いのです。

 しかも、1950年代はMLBの黄金時代と言われます。カラーラインが撤廃、実力のある黒人選手が次々とデビューしています。球団数も1959年まで各リーグ8の16チームですから、選手の質も高いのです。また、従来東海岸に限定されていた本拠地が西絵画にまで拡大、試合もナイターが中心になります。そのため、移動や日程がかつてないほどタフになります。さらに、競合する他のプロスポーツも発展途上で、人気もさほどなく、メディアの扱いも小さいものです。スパーンの363勝はそういう時代に記録した数字なのです。

 付け加えると、スパーンの通算勝利数は左投手として歴代最多です。MLB史上最強のレフティーというわけです。それを讃えて、1999年からそのシーズンに最も活躍したサウスポーにウォーレン・スパーン賞が創設されています。

 ただ、スパーンはそのまま投手をやめたわけではありません。引退後、マイナーリーグの監督を務め、メキシカンリーグでコーチを務めています。その際、メキシコシティ・タイガースで現役復帰しています。それは西武ライオンズなどで活躍した渡辺久信がコーチとして渡った台湾において再びマウンドに登ったことを思い起こさせます。晩節を汚したという批判の声も上がりますが、彼には投球することが何より大切なことなのです。契約してくれるところがなくなるまでスパーンはマウンドに登り続けるのです。

 その後、1972年から2年間、インディアンスの投手コーチを務め、73年に殿堂入りを果たしています。それから2年後の1975年、スパーンは来日します。広島カープの臨時コーチに就任したからです。ジョー・ルーツ新監督は優勝のため投手陣の立て直しため、インディアンス時代にコーチ仲間だった彼を招聘しています。

 日南キャンプで53歳のスパーンは「自分自身に勝て」と説き、外木場義郎らを指導、時に、自らピッチングをして見せます。彼のコーチングはわかりやすいと好評だったと伝えられています。スパーンは開幕を見届けた後、帰国します。このシーズン、カープは、投手力の弱さを理由とした低い下馬評を覆し、球団初のリーグ優勝を達成することになるのです。

 残念ながら、スパーンがカープの臨時コーチを務めていたことはあまり知られていません。MLB史上最多勝サウスポーが万年Bクラス球団のコーチをするなどとても考えられないことなのですが、実は当時もさほど話題になっていません。NPBの歴史において選手やコーチ、監督としてかかわった元大リーガーの中で実績は断トツです。しかし、それを回想しているのは、ネット検索しても、広島カープのオールドファンくらいです。大リーグの知識が打者偏重だということをよく物語るエピソードでしょう。

 2003年11月24日、余生を送っていたオクラホマ州ブロークンアローの自宅で、ウォーレン・スパーンは老衰によりなくなります。82年の生涯です。

 ウォーレン・スパーンの野球人生を振り返る時、最も興味深いのは速球派から技巧派への変身でしょう。彼は転向してからの方がキャリアも長く、勝ち星も多いのです。肉体は衰えても、投手として成長したと言えます。

 投手が速球派から技巧派へ転向することは難しいものです。自慢の速球で打者を捩じ伏せる快感は癖になります。年齢による衰えに薄々気づいても、モデルチェンジをして失敗すれば、悔いが残ります。変わらなければならないと思いながらも、できずに引退する投手は少なくありません。故障したり、指導者から説得されたりするなどやむを得ない理由によって自身を納得させて変わる決断するのが常です。それでも数年思うような結果が出ない状態を乗り越えてようやくモデルチェンジに至ります。成功しても、かつての成績に及ばないことも多いものです。

 スパーンとよく似た投手として近鉄バファローズ最後の背番号1の鈴木啓示を挙げることができます。この左投手もノーコンの速球派からコントロールのよい技巧派に転身しています。けれども、1972年に勝てなくなってからも、彼は転向を拒んでいます。74年に就任した西本幸雄監督に粘り強く諭されて渋々受け入れ、75年に復活しています。

 スパーンはわずか1年で転向しています。これほど早く変身できた投手はそういません。おそらくそれは戦争経験が理由でしょう。彼は22歳から3年間野球から離れて従軍、重傷を負っています。運が悪ければ、野球生命どころか、命も落としかねない状況です。そうした体験を経て野球に復帰したため、時間を無駄にしたくないという思いが強かったように思えます。

 転身するには、自分自身の衰えを認め、今ある力と向き合い、それをどう生かしていくかを考え、パフォーマンスに反映させなければなりません。しかし、かつての姿が真実だとして今の現実を否認したくなるものです。衰えと共に生きていくことは難しいですけれども、直視を避けていれば、時間が浪費されるだけです。今日より明日、明日より明後日の方が衰退するのですから、取り戻すことがさらに困難になります。加齢は自分を対象化することを促します。それを自覚して認知行動する時、むしろ、衰えの中で成長するのです。

 衰えと向き合うことで、人はさらに成長する可能性があります。ウォーレン・スパーンの野球人生はそれを教えてくれるのです。

 「人は、私が大リーグから離れたせいで、400勝のチャンスを失ったのではないかと言います。でも、それはわかりません。私は 3 年間で大きく成長し、22 歳の時頼も 25 歳の方がメジャーリーグの打者を扱う能力が備わっていたと思います。それに、私は 44 歳まで投げました。おそらくそうでなければ、そこまでできなかったでしょう」。

 “People say that my absence from the big leagues may have cost me a chance to win 400 games. But I don't know about that. I matured a lot in three years, and I think I was better equipped to handle major league hitters at 25 than I was at 22. Also, I pitched until I was 44. Maybe I wouldn't have been able to do that otherwise”.
〈了〉

投球回数の”.1”は”1/3”、”.2”は”2/3”を意味します。
参照文献
Lew Freedman, “Warren Spahn: A Biography of the Legendary Lefty”, Sports Publishing, 2018

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