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全部正解思考

記事を開いてくださりありがとうございます。

日々悩みながら生きているものです。
今日は全部正解思考という考えが自分的にしっくり来たので紹介したいと思います。

AとBという二択があった際にAさんがAをBさんがBを選んだとします。
基本的にこの社会ではAかBかどちらが正解かをよく議論されます。
しかし、全部正解!
両方正解ですよという話をしたいと思います。

私は人の生きる意味、目的というものは「幸せになること」だと思っています。

各人は「幸せになる」ために選択をしながら生きています。
ですので、AさんがAを選択したのも究極的に突き詰めればAを選ぶことがAさんにとって幸せだと感じるからBさんも同じです。

ではAさんはAを選ぶことが幸せだと感じているのに、「Bが正解だよ」、「Aのここが悪いよ」ということはAさんの幸せになるのでしょうか?

1+1=3 だというのを信じている人がいたとして、2だと馬鹿にするのは良いことでしょうか?

3だと信じる人には3と信じたい理由があるはずです。そして、その理由を紐解くとその人の幸せに繋がっているのです。

そのため、3と信じている人の今の幸せを壊さないためには「3も正解!」と言ってあげる必要があります。

3と信じ続けることはその人のためにならない。
2であるという真実を伝えなければならない。
例えば3と言ったのが自分の子供なら自分の子供のために2であると教えなければならない。

と、真面目な人、良い人、親切な人、責任感が強い人、もしくは他人に正解を教えることでマウントを取りたい人、自分の自己承認欲求を満たしたい人、などは考えるかもしれません。

ただ私など適当な人間から言わせれば教えなくて良いのではと思う訳です。
きっと答えはその人の人生の中で出会うことになります。

1+1が2は、りんご1個とりんご1個があって二つ並べたとき「あっ1+1=2」だ気づけるでしょう。

教えずに相手を信じてみてもいいのではと思うのです。
相手を信じることができないのであれば、相手が歩む人生を信じればいい。
その人生で正解に出会うことを信じればいい。
その人の人生において必要があればきっと正解に気づくでしょう。

だから自分から見て他人が不正解を選んでいるときも、それも正解!と言ってやればいいのです。

その人にとっては本当にそれが正解なのですから。
その正解を信じることに幸せを感じている人に違うと、その人の幸せを奪う行為をする必要はないのです。
必要があればその人が自分で知ります。
だからAかBかなんて問いは必要ないんです。
両方正解!

この考えは社会にとっての正解と不正解についてもです。
余り公共の場であるnoteの記事で出す例としてはよろしくないかもしれませんが極端な例で行きましょう。

人殺し。
これは社会にとっては不正解です。
ただし、今の社会にとっては不正解であって戦争中、戦時中などは正解になり得ます。
でも、皆、人殺しは不正解だというのです。

それは人殺しが正解の世の中では自分の幸せが突如奪われるかもしれないからです。
自分の幸せが奪われるかもしれないという人が多いため、社会的に不正解になっているのです。

道徳的な理由も勿論ありますが、極端なことを言えば誰かの幸せが奪われるから人殺しがいけないこと、不正解になっています。

では全部正解理論では人殺しすらも正解と言えるのか?
言えてしまいます。

人殺しにとってその人を殺すことが自身の幸せのために必要だったのなら、その人にとっては正解だったのです。
だから人殺しも正解なんです。

自身の幸せを追い求めるために他者の幸せを奪ってはならない。
だから人殺しは不正解。

程度の違いはあれど人は社会で生きる限り他者の幸せを奪っています。
他者の幸せを完全に全く奪っていない人などいないでしょう。

成功者は成功の過程でその結果で多くの人の幸せを奪います。
例えば画期的な何かを開発すれば旧式な物は売れなくなり、その生産者の幸せを奪います。

身近な例で、道路があります。貴方は歩行者で信号がない道路で車が途切れるまで待っています。

待っている間、貴方の貴重な時間は車の運転手たちに奪われ、貴方の人生は幸せか不幸せかと問えば不幸せでしょう。

目の前で過ぎ去っていく運転手たちは貴方の幸せを次々に奪っていくのです。
歩行者がいた場合、歩行者優先で譲るべき、止まるべきなのに。

止まった運転手がいたとします。
その運転手は実は急いでいました。
しかし、社会のルールで歩行者を優先するべきとなっているから自分の幸せが奪われるけど歩行者を優先しました。

歩行者はただ道路を渡るために待っていただけなのに運転手の幸せを奪いました。

皆、大なり小なり、他者の幸せを奪いながら生きています。
だから絶対に私は他者の幸せを奪っていないという人はいないのです。

牛さんは豚さんは食べられたかったんですか?貴方に?
貴方は牛や豚の幸せは奪っていないですか?
蚊を殺したことは?
蟻を踏んだことは?

他者の命を奪うことだって人は普段からしています。
大なり小なり自分の幸せのために他者の幸せを奪うことは普通に行われているしこれを行わないで生きることはできないでしょう。

だから、人は「感謝」をするのでしょう。
せめて「感謝」をするのでしょう。
ありがとうと心を込めるのでしょう。

さて、話が逸れました。
人殺しが不正解は今の社会ではという話(どこかの世紀末な世界みたいに未来が変わる可能性だってあるでしょう)。
しかし、その人にとっては正解かもしれない。
ただそれが言いたかっただけです。
そして、その人は殺した後に自分の正解だと思った人殺しが不正解だったかはその人の人生の中で自分で気づく瞬間が来るでしょう。

一応言っておきますと、私は人殺しは不正解だと思っています。
この記事は殺人を推奨するものではありません。

ただ、言いたいのは全て正解であり、他者がこっちが正解だと態々伝える必要はないということです。

ただ、まあ社会で生きていく上で伝えないといけないことがあるのは認めます。
子供に人殺しをいけないことだと教えることは必要でしょう。
ただ、子供が人殺しをしたいと万が一言った場合には、その子が人殺しを正解だと選んだことにちゃんと向き合う必要があるでしょう。
その子にとって違う正解の意見を聞く場が与えられ、それを言う立場に貴方が選ばれたのでしょうから。

全てが正解。
他者の意見、選択は全て正解。
全部正解で全部いい。

今はネットを見ると〇〇をしてはいけない、〇〇をすべき、と他者の正解が溢れています。

貴方の人生をより良いものにする貴方の正解を見つけてください。
これが今の私が見つけた今の正解です。

貴方の正解はなんですか?

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