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いつの間にか始まってた第2の人生(44年間の自分史)

みなさん、こんにちは。

今回のnoteでは、自分が何者かを深く知るために、
これまでの44年の人生を振り返ってみました。

記憶の限りで、できるだけ細かく振り返ったので、
30,000字を超える超大作に仕上がりましたが、

超ざっくりまとめると、
少年ジャンプと偏差値教育の世界観の中で生きてきた人間が、
そこから少しずつ脱却し、自分を取り戻していくお話です。

最後にもありますが、

前に進んでるつもりが、
実は、過去の伏線を回収しているかのような人生。

ぜひ、読み物として、
最後までお付き合いいただけると嬉しいです!

内向型だった幼少期(〜小学校低学年)

1979年、奈良県橿原市で誕生。
生まれた当時は、父親はサラリーマン(日立造船)、母親は専業主婦。

父親は自分が小学生になる頃に、サラリーマンを辞めて、
祖父が創業した会社を継ぎ、自営業者となった。

幼少期の僕は、どちらかというと内向的なタイプで、
家にいるのが好きだったため、
幼稚園にも4歳(年中)になってからようやく通い始めた。

髪型がウォーズマン

幼稚園に入ってから、
体を動かして遊ぶことの楽しさを憶えはじめた。

ある日、園庭で走り回っているときに、
友達とぶつかって唇が切れてしまい、大量に出血した事件があった。

口のあたりからドバーッと血が流れたので、吐血したのかと勘違いし、
めちゃくちゃビビった記憶がある。

(そのあとも遊び続けようとしたが、さすがに病院に連れて行かれた。)

年長の頃、スイミングスクールに通い始めたが、
泳げるようになる前に、練習が嫌になってすぐに辞めてしまう。

ろくに練習もしておらず、水泳が嫌だったというより、
そもそもスイミングスクールに行くのが嫌だったという感じ。

楽しく過ごしていたが、弱々しくパッとしなかった。

みんなと同じようにできない

僕が通っていた小学校は、大阪市内の南森町という場所にあった。

近くには、日本一長い商店街の天神橋筋商店街がある賑やかな街。
同級生には、地元の商売人の子どもが多かった。

小学校に入学した当初は、
席にじっと座っていられない、敬語が使えない
など、幼稚園とのギャップに戸惑い、集団生活に馴染めず、
僕なりにかなり苦労があった。

この当時から、あらゆることについて、自分の中に基準がなくて、
「普通はこうやるものだ」というのがわからなかった。

おまけに、1年生の時は担任の先生がとても厳しかった。
僕は、席順も真ん中の列の一番前(教卓の前)。

それでも、勝手にフラフラとトイレに行くなどして、
先生によく
「前田!」
と大声で呼ばれていた。

宿題も家でほとんどやらなかったので、
下校時刻のあとに教室にひとりだけ居残って、
前の日の宿題をやるのが毎日の習慣だった。

ただ、この居残りの時間、先生は優しかった。

なので、先生と話したり、
先生がお菓子をくれたりすることがあり、
なんだかんだで、居残りの時間を楽しみにしていた。

当時から食べてる
商店街の中村屋のコロッケ

空手をきっかけに変わり始める

グダグダの小学校生活のスタート。

けど、体育だけは得意だった。

父親が運動会の前に、
ナイキの白スニーカーを買ってくれたとき、
初めて紐の本格的なスニーカーを手に入れて、少し成長した気分だった。

毎朝早くに学校に行き、
ひとりで鉄棒やなわとびなどの練習をして体を鍛え、
夏休みの水泳教室にも毎日通うというストイックな生活だった。

コツコツ努力をすれば、できないことができるようになる。
ということがわかってきて、密かに喜びを感じていた。

この頃、たまたま近所にあった正道会館で空手を習い始めた。

初めのうちは、「殴る蹴る」が嫌だったが、
先生(石井館長)がとても優しく、そのうち慣れてきた。

強くて優しい石井館長は、僕の憧れだった。

2年生で黄帯になり、3年生で紫帯になる頃には、
すっかり楽しめるようになった。

毎週、月木の夕方は空手の練習。

特に、木曜は練習が終わってから、
「魁!男塾」や「北斗の拳」を見ながら、夕食を食べるのが恒例だった。

(今思えば、なかなか偏った思想の中で育ってる気がする、、、)。

そのうち、同級生と小競り合いにも負けなくなり、
何か言われても言い返せるようになって、少しずつ自信をつけ始めた。

勉強も好きになっていく

3年生の頃、ソウルオリンピックが開催され、その盛り上がりから、
なんとなく社会全体に勢いがあるのを感じていた。

自分の知らない問題を父親から出されて、
それに答えられるようになることが楽しくて、
どんどん先の勉強をやっていくようになった。

特に、社会が好きだった。

地元の商店街見学や、工場社会見学が好きで、
普段、そこで働く人たちが、どんな仕事をしているのか
給食で食べてるものがどうやって作られるのか
を見て、ひとりで感動していた。

また、教科書やテレビで見る漁師や伝統工芸の仕事などについても、
自分にとっては非日常の世界で、
そこにいる人が毎日どういうことを考えて、どういう生活をしているのか
をいつも想像していた。

今でもそうだが、出張や旅行にいくと、そこで働いている人や住んでいる人の思いとか、ストーリーに触れるのがたまらなく好き。

そのうち、自分は人より勉強ができるのではないかと思うようになった。

ただ、同じ小学校の校区内にある
裁判所官舎(裁判官や裁判所職員の方とその家族が住んでいる公営住宅)
から来ている同級生たち(親が裁判官)がとにかく優秀で、
自分の中で、「裁判所軍団」と名づけ、ひっそりとライバル視していた。

「あいつらの頭、どうなってるんや。」
「どこでそんなこと教えてもらうんや。」

といつも思っていた。

ちなみに、この頃に、
日本で一番難しいといわれる「司法試験」というのがあり、
裁判官になるには、その司法試験に合格しなければならない
ということを知ったように思う。

ドラゴンボールの影響

ビックリマンチョコ、ミニ四駆、ゾイド、ガンダムなど
小学生男子がハマりがちなものにひととおり熱中したのもこの時期。

特に、少年ジャンプがとにかく好き(もうすぐ読者歴40年)。

毎週月曜は友達と遊ぶ約束はせず、学校から帰ってから、
近所の雑貨屋さんまでジャンプを買いに行って、
ひとりで読むことを楽しみにしていた。

当時の連載陣といえば、
キン肉マン、北斗の拳、魁!男塾、聖闘士星矢、
シティ・ハンター、ジョジョの奇妙な冒険、そして、ドラゴンボール。

これは大人になってから買った復刻版

特に、ドラゴンボールは、
少年期の自分の思想形成に大きく影響していた
と今になって思う。

何か越えなければならない試練があると、
なんだかんだ自分を鍛えて過去の自分を超えようとするマインド

これはまさに、
何十倍とかの重力の中、修行しようとするサイヤ人の感覚。

コツコツと努力をすることが多かった背景には、
少年ジャンプから受けた影響が大きかったのかもしれない。

これも復刻版。この世界観で育っている

偏差値教育まっしぐら(小学校高学年)

時代は、バブル景気が最高潮。
昭和天皇が崩御し、時代は平成に変わった。

テレビでは連日このニュースばかりだったが、
このニュースが自分たちの生活に関係するのか、さっぱりわからず、
「なんでみんなこんなに騒いでるのか。」と冷め切っていた記憶がある。

4年生になる頃、弟が小学校に入学してきた。

弟は、自分とは違い、明るく自由でやんちゃなタイプだった。
体も大きく、運動が得意で、クラスでもいつも目立っていた。

特に、母方の祖父は、弟のことを目にかけており、
それに比べると、自分はあまり目をかけてもらえないと感じていた。
僕はそんな弟がいつもうらやましかった。

後で知ったが、母方の祖父の子どもは娘二人だけで、
後継ぎの男子がいなかった。
そのため、長女の次男である弟が将来、
自分の家の後継ぎになってくれるかもしれないと思っていたようだ。

運動会。近視が進んでメガネっ子に

中学受験の世界へ

この頃、同級生の影響で、
世の中には「中学受験」というものがあることを知った。

それまで当然に地元の公立中学校に行くと思っていたが、
どうやらそれ以外の選択肢もあるらしい。
そのためには、入学試験に合格する必要があるらしい。

そのことを親に話してみると、
「夏休みに塾に通ってみるか?」ということになり、
進学予備校大手の浜学園の夏期講習に通い始めた。

ただ、クラスも下の方だったし、授業はわからないことだらけ。
ハチマキを巻いてる人もいて、「常在戦場」と書いてある。

せっかくの夏休みなのに、苦痛だらけだった。
当然、夏期講習が終わってから、浜学園に通うことはなかった。

「なるほど、裁判所軍団は、こういう勉強をしてたのか。」
「そら勝たれへんわけや。」

と思う一方、

「こんなつまらん教室、二度とくるか。」と本気で思っていた。

ただ、それからしばらく経って、5年生になる頃、
浜学園ではなく玉造にある阪神受験研究会に通い始めることになる。

同じクラスの中学受験組に負けたくないという思いがありつつ、
あのつまらなさすぎた夏期講習を思い出すと、
どうしても浜学園に通う気にはなれず、別の進学塾を選んだ形。

こうして塾通いの生活が始まった。
平日も学校が終わってから、
大阪環状線で天満駅から玉造駅まで通っていた。

拘束時間が長く、遊ぶ時間はほとんどなくなってしまう。
そのため、家で勉強や宿題もほとんどしなかった。
塾がない日は、とにかく遊びたかった。

この頃から、同級生と遊ぶ時間が少なかったことともあり、
学校ではクラスの中心から少しずつ外れていった。

クラスの中で人間関係的な問題も発生していたみたいだが、
同級生と関わる時間が減ってきて、
学校の外で起こった事件についていけなくなった。

6年生になると、いよいよ受験勉強が加速していく。

それもあって、1年生から続けていた空手を辞めることになった。

最後に道場に挨拶に行ったとき、
お世話になった先生が「もったいないけど、仕方ないな。」
と言ってくれたことがとても印象に残っている。

当時の僕は「そんなものだ。」と思っていたが、後になってから、
あのとき空手を続けておけばよかったと後悔することが何度もあった。

そのせいか今になっても、中学受験を理由に、
それまで続けてきた習い事を辞めてしまう子どもを見ると、
ちょっと心配になる。

塾のほうは、引き続き忙しかったが、
あまり辛いと感じたことはなかった。

クラスも中の上くらい。

自分の志望校には届きそうだったし、
それ以上を目指すとなると、地獄が待っていそうだったので、
もうそれでいいと思っていた。

塾では、休み時間に仲のいい友達と塾を抜け出して、
近所にある駄菓子屋にストリートファイターIIをやりに行き、
そこでカップラーメンを食べるなどして程よくサボっていた。

ちょっと悪いことをしている感じと、
自分の知らない世界が広がっていくのが楽しかった。

志望校には合格したが、、、

6年生の3月に志望校だった同志社香里中学に合格した。

ただ、その翌日、京都の洛南中学を受験した。
記念受験として気軽に受けていたが、試験問題がめちゃくちゃ難しく、
全く受かる気がしなかった。

おまけに、学科試験の終了後の面接試験で、
「入学したら丸刈りになりますけど、大丈夫ですか?」
と聞かれて、
「え、いや、ちょっとそれは困ります。」
と正直に答えてしまい、案の定、不合格。

自分の中学受験は、一応は志望校に合格したという形で終えるも、
決して喜びだけではなく、
上には上がいることを思い知る形だった。

卒業前の3週間

中学受験が終わってから、小学校卒業までの3週間は、
とにかく友達と遊んだ。

学校に行くこともとにかく楽しかったし、
放課後も、同級生が集まる近所の公園に行って遊んでいた。

「みんな、いつもは放課後はこんな感じで過ごしていたのか。」

みんなにとっての日常が自分にとっての非日常だったのをよく憶えている。

その同級生の中に、好きな女の子がいた。

とにかく波長が合い、向こうも自分のことを好きでいてくれたようで、
この子と話すことを楽しみに学校に行っていたようなもの。

ほとんど学校で会うことしかなく、
もっとたくさん話したいと思っていたが、
自分を素直に表現することができず、
卒業までの3週間でも、あまり話しかけることができなかった。

結局、小学校卒業と同時に別々の中学校に進学することになってしまった。
(今の自分から、「ここで引き下がってはいけない!」とアドバイスしたい)

それから、卒業アルバムで将来の夢について書くことがあったが、
自分には何も思い浮かばなかったことが記憶に残っている。

なんとなく父親の跡を継ぐものだと思っていたから、
それ以外の夢とか言われても、特になかった。

中学受験を終えてからの最後の3週間の間はとにかく楽しく、
自分の中で、本来の小学校生活を取り戻せたような気がした。

小学生時代までを振り返って

  • 少年ジャンプに強烈な影響を受けていた

  • 学校教育の中で、「普通とは何か」をいつも考えるようになった

  • 中学受験の世界で、「能力がある=勉強ができる」を刷り込まれていた

アウトローになりたかった思春期(中高生時代)

中学校に入って、電車で学校に通うようになった。

それまでも塾には電車で通っていたので、
電車通学自体はそれほど目新しいものではなかったが、
学校に財布を持って行き、通学途中で買い物ができるようになることや、
行動範囲が拡がったことで、世界が広がっていく感覚が楽しかった。

入学したての頃は、男子校、かつほとんど知らない人ばかりの中で、
一から人間関係をつくっていく必要があったことに
かなりストレスを感じた記憶がある。

部活が始まると、同級生たちは、
ラグビー、野球、サッカーとみなそれぞれ好きな部活に入って行った。

自分はバスケットボール部に入ったものの、すぐに辞めてしまった。

バスケットボールが嫌だったというより、
朝から夕方まで授業があるだけでぐったり疲れてしまい、
その後に部活をやる、というエネルギーがなかったという感じ。

「さっさと帰って、自由な時間を過ごしたい。」

といつも思っていた(スイミングスクールと同じパターン)。

ということで、学校が終わってからは、
家に帰って、自宅でひとり漫画を読んだり、ゲームをやったりしていた。

また、粘土を使って、遊ぶのが好きだった。
ただ、粘土遊びは、熱中しすぎて、父親に粘土を捨てられ、
それ以来やらなくなってしまった。

部活は辞めてしまったが、勉強はコツコツと続けていた。
誰に言われたわけでもなく、
しかも中高一貫校なので高校受験もないのに、
自分で参考書を買って。

結果的に、中学では、定期試験の成績もほぼ毎回1位になって、
中学校を首席で卒業し、横山ノック大阪府知事(当時)に表彰された。

男子校において、
自分の特技やキャラクターでそれぞれポジションを築いていく中、
この成績優秀者のポジションが、自分のポジションだったのかもしれない。

当時の校舎(いい環境だったなぁ)

そんな中学2年生のある日、
当時通っていた英会話教室の同じクラスの女子から突然告白された。

お付き合いをしてくださいと言われたものの
それがどういうことかよくわからなかったのと、
まだ小学校の同級生のことが好きだったので、正直に断った。

この頃、わざわざ受験までして男子校に来たことを
ちょっと後悔する感情が芽生えていたが、
親に申し訳なく、それについては何も言えなかった。

高校でもやっぱり部活は無理だった

高校に入って、ハンドボール部に誘われた。

練習が緩めだったので、今度は続けられるかと思ったが、
1学年上の先輩の態度が受け入れられず、またすぐに辞めてしまった。

「なんでたまたま1年早く生まれただけで、あんなに偉そうにできるのか。」

と思っていた。

一方で、この頃、

・自分は何がやりたいのか、何が好きなのかがよくわからない
・みんなどうやって自分のやりたいことを見つけるのだろう

と思うことが増えてきた。

自分は、特に熱中することもないので、
近所のゲームセンターに行って格闘ゲームをやりまくっていた。

格闘ゲームも、
今でこそe-スポーツとしてそれなりに認知されているが、
当時の僕はただゲーセンに出入りしているただの落ちこぼれ、
という感じだろう。

ただ、誰にも邪魔されず、
格闘ゲームをひとりでやる時間は、自分にとって至福の時間だった。

初恋の最終到達地点

この頃、好きだった小学校の同級生が、
当時僕が住んでいたマンションの別の友達(女子)の家に
よく遊びに来ていたので、たまにばったり会うことがあった。

「あれ、俺に会いにきてくれてるんじゃないか?」

「いやいや、そんなことないって、自意識過剰やって」

心の中でひとり、そんな葛藤を繰り返しているうちに、
話しかけるチャンスを何度も逃してしまった。

この同級生とは、この後しばらくして、成人式で再会し、
携帯電話が普及し始めた頃だったので、連絡先も交換することができた。

それからたまに連絡を取るようになった。

ただ、その時は、お互いお付き合いしている人がいたので、
恋愛関係に発展することはなかった。

その後、同級生は、専門学校を卒業し、看護師になった。

どういう経緯か忘れてしまったが、
僕がアレルギーテストを受けることになり、
この同級生に採血をしてもらった。

初恋の女の子に採血してもらう。

これが僕の初恋の最終到達地だった。

その後も、しばらく仲良くしていたが、
司法試験の受験がうまくいかなくなり、
次第に連絡することがなくなってしまった。

バイクとアルバイトに明け暮れる毎日

時は高校生時代に戻って、高校2年生。
相変わらず、やることがなさすぎて、アルバイトを始めてみた。

初めは、友人と日雇いのアルバイトに行った。
どこかの大手スーパーの冷凍食品のラッピングのような仕事。

ただ、これも朝から晩まで、立ちっぱなしで、
ずっと同じ作業をするのに耐えかねて、
1日で辞めてしまった。

それから間もなく近所のガソリンスタンドで働かせてもらったが、
こちらは寝坊による遅刻を何回かやらかしてしまい、
今度はすぐにクビになってしまった。

しばらく経って、友人に誘われて、
自動車学校に通ってバイクの免許(中免)を取得した。

そして、親の反対を押し切って、貯金をはたいて、
大阪の松屋町筋の南の方に通称バイク通りという、
中古のバイク屋さんが軒を連ねる通りでバイクを買った。

バイクに乗って行ったことのない場所まで、
自由に行けるようになったし、
バイトで貯めたお金で新しいパーツを買ったりして、ご満悦の日々。

ちょっと悪いことをしている感じと、
自分の知らない世界が広がっていくことを楽しんでいた。

また、バイクに乗るようになったことがきっかけで、
ピザーラでピザ配達のバイトをするようになった。

このバイトは自分にハマっていた。

配達に出ている時間は、あまり人と絡まなくていいし、
よく街の景色や行き交う人を見て、
そこにいる人がどんな生活をしているか、
などを想像するのが楽しかった。

あと、まかないピザがとにかくうまい。

そんな激アツな環境だったので、
今度は、1日で辞めることもなく、すぐにクビになることもなく続いた。

しばらくして、
このアルバイト先の内勤の女の子(高校生)と仲良くなった。

ある時、この子とバイトが終わる時間が同じになり、
店を出たところで少し話していたら、帰りの時間が遅くなってしまい

「家までバイクで送って欲しい。」と言われた。

思いがけず、初めて女の子(しかも女子校の生徒!)
をバイクの後ろに乗せることになり、心臓がちぎれしそうだったが、

「お、おお、ええで。」

と、ギリギリの精神状態で平静を装って、送って行くことにした。
このとき、店内からSpeedの「WhiteLove」が聞こえてきた。
(こういうとこだけ、めっちゃ憶えてるやん)。

ただ、後になって、このことでバイトの先輩に呼び出される事態になった。後から知ったのだが、当時、この子とその先輩が付き合っていたらしい。

先輩から「お前、どういうつもりや?」とか言われたが、
僕からしたら「知らんがな!」という話でしかなかった。

とりあえず、素直に
「知りませんでした、すみませんでした。」
と謝ったものの、

先輩の「俺はあいつのこと真剣に愛している。」といった
その後の熱い話が長すぎて、だんだん腹が立ってきて、

「だから、知らんかった!て言うてるやろ!」
とケンカみたいになってしまった。

この先輩のことは嫌いではなかったし、むしろお世話になっていたのに、
今となっては「マジで、すみません。」という感じだ。

この事件を起こしてしまったことと、
アメリカへの留学の時期が近づいてきたこともあって、
好きだったバイトを辞める運びとなった。

(ちなみに、ピザーラは、今も大好きで、
 毎回モントレーのカレーソースを注文している。)

高校の体育祭?だと思う

アメリカ・ニューメキシコ

アメリカへの留学の話が出てきたのは、高校1年生の頃だった。

当時、通っていた学校では、毎年何名かの生徒が、
YFUという留学機関を通じてアメリカに留学していた。

担任の先生から「君もやってみないか。」と言われ、
その気になったという感じの流れだった。

英語の勉強をしたり、
留学生になるための簡単な試験を受けたりと、
色々準備があった。

そして、1997年8月、アメリカのニューメキシコ州に渡った。

出発当日まであまり実感がなかったが、いざアメリカに着いてみて、

「え、これマジで、1年間は帰れないの?」

と、事の重大さに気づいた記憶がある。

ニューメキシコに到着してしばらくはホームステイ先が決まらず、
一時的な受け入れ先に滞在させてもらっていた。

その間、アルバカーキという都市の公立高校に通っていたが、
そもそも英語がわからなさすぎるのと、
アメリカの高校のカルチャーギャップが激しすぎて全く馴染めなかった。

ただ、休みの日には、
当時日本で流行っていたジーンズを古着屋で買ったり、
RedWingのブーツを買ったり(いずれも日本で買うより、全然安かった。)、
いわゆるひとつのアメリカンカジュアルを楽しんでいた。

それに対しては、現地の友人たちから

「こんなボロボロのジーンズの何がええの?」
「RedWingっておっちゃん向けなんじゃないの?」

といったコメントをいくつもお寄せいただいた
(日本の流行りとアメリカの流行りは全然違うやん!)

そうこうしているうちに、留学開始から1ヶ月が経過した頃、
なかなか学校に馴染めないままで、

「このまま1年間、この学校に通うのはどう考えてもきつい。どうしよう。」

と真剣に悩んでいたら、ホームステイ先が決まり、
運よく転校することになった。

すげー田舎

転校先の学校は、ずいぶん田舎にあった。
ホームステイ先の家から、隣の家が見えないくらいの人口密度。

人柄も時間の流れもゆったりしていた。
そして、日本人が珍しいためか、同級生の多くが気にかけてくれたので、
学校に馴染むことができた。

ただ、日本のことを知らない人が思ったより多く、
なんなら中国と日本と韓国の区別もつかない人も多かった。

アメリカに来たことによって、
「アメリカ人から見たら、日本は、アジアの小国にすぎないのか。」
という感じで、
「世界の中の日本」という観点が形成されていったように思う。

ここでの学校生活は楽しかったが、調子に乗りすぎて、
同級生と学校でタバコを吸っているのを見つかって、停学になり、
あわや強制帰国させられそうになる(ごめんなさい)。

今もみんなけっこう友達(Facebook)

また、田舎なので、普段は家にいるとやることがないので、
同い年のホストブラザーがサンタフェの街にアルバイトに行く時、
その車に乗せてもらって、連れて行ってもらい、
サンタフェの街を散策していた。

目的は特になく、
ただピザやメキシコ料理を食べたり(なぜか異常においしかった)、
射撃の練習ができる場所で射撃をやったり、雑貨屋でナイフを買ったり。

とにかくアウトロー風にいきたかっただけなのだが、
今思えば、携帯電話もないあの時代に
よくあんな右も左もわからない異国の土地で、
ひとりフラフラして、素性もわからない人と話していたものだ
(どっか連れて行かれてもわからんで。)。

やっぱりこのときもちょっと悪いことをしている感じと、
自分の知らない世界が広がっていくことを楽しんでいたのかもしれない。

それから、留学中は、たまに同じ留学機関を通じて、
留学している日本人の友人に電話で連絡をとっていた
(このうちの一人は今でも大親友)。

それまで、自分はひとりで過ごすことが好きだと思っていたが、
当時は、メールも普及しておらず、SNSもなく、
ここまでアウェイの環境になると、寂しいと感じることにも気がついた。

家の近所の川(リオ・グランデ)

このときのホームステイ先の家族(ホストファミリー)には
本当にお世話になった。
休日に、州内の観光地にもよく連れて行ってもらった思い出がある。

ロズウェル(ロズウェル事件のあったあの街)
ホワイトサンド(白い砂の砂漠)
あと名前は忘れてしまったが、大きな鍾乳洞、など。

当時は、その価値がわからなかったが、
後で、自分はとても貴重な経験をしたことがわかった。

ちなみに、ホストファミリーとは今でもFacebookを通じて繋がっている。

当時は、とにかくホストファーザーとホストマザーの仲が良く、
当時7人兄弟の末っ子だった女の子(当時6歳)と
家でかくれんぼなどの相手をして、よく一緒に遊んでいた。

英語の表現や発音をよく教えてくれてたので、
僕の英語の師匠は、実は、この子なんじゃないかと思う。

ただ、この末っ子の女の子は、
その12年後、高校生になった頃に、事故で亡くなった。

そして、この事件がきっかけで、
あんなに仲が良かったホストファーザーとホストマザーが
うまくコミュニケーションが取れなくなり、離婚してしまった。

他にも、高校1年生の頃からお世話になった英語の先生がいた。
自分の母親くらいの年齢の女性の先生で、
自分は、この先生のことが大好きだった(波長が合った)。
ただ、この先生も後に早くに病気で亡くなってしまい、
高校を卒業したとき以来会えないまま。

こういう一連の出来事から、
人生には何が起こるかわからないし、
良好だった家族関係もどうなるかわからない
ということも思い始めていた。

司法試験に敗れ去った青春(大学生時代)

日本に帰ってきて、エスカレーターで同志社大学に進学した。

高校に入ってからは、あまり勉強しなくなったものの、
英語は相変わらず得意だったので、成績はかなり上位だった。

進路面談では、「英文学科に行きたい。」と言ったものの、
その理由を問われた時に、

「ええ、9割くらい女子と聞きましたので。」

と、意味不明な回答をしてしまい、先生から猛烈に反対され、
就職のことを見据えて経済学部、商学部、または法学部をゴリ押しされた。

経済学部も商学部も法学部も当時の自分には大差ないように思えたが、
当時いちばん入るのが難しいと言われていた法学部に行くことにした。

ただ、英文学科に行きたいと思っていたのは割と本心だった。
今思えば、この時、英文学科を選んでいれば、
そのあとの人生も変わっていたのかもしれない。

学習塾アルバイト

大学に入ってから、自宅の近所にあった学習塾でアルバイトを始めた。
地元の小学生に勉強を教える個人経営の小さな塾だったが、
自由な雰囲気で相性がよかった。

特に、夏休みや冬休みには、実験教室などを開催し、
スライムやうどんを作ってみたり、
夜に集まって天体望遠鏡で月を観察してみる、など、とにかく楽しかった。

このバイトを通じて、
自分は人に物事を教えることが好きなのかもしれない
子どもの相手をするのが好きなのかもしれない
と思うようになった。

また、いろんな小学生と出会い、その子たちを見ていると、
家庭環境や親との関係性が
子どもの人格形成に大きく影響していることも理解した
(自分もそうなのに、自分のことはわかってなかった)。

ちなみに、この塾では、裁判所職員になる25歳の手前まで、
6年ほど働かせてもらった。

とにかく楽しかったことだけは憶えている

変化の多い人生の中で、この塾で働いていた期間は長いことから、
自分ととてもよく合っていたのだろうと思う。

ちなみに、この塾の先生や当時の教え子のうち数人とは
今でも繋がっており、ときどき連絡をとっている(もうみんな社会人)。

仲がよかった叔父の変貌

父親の弟(叔父)は、父親とともに、祖父が創業した会社で働いていた。
自分が子供の頃は、たまに家に来て一緒にご飯を食べていた。

バイクやスキューバダイビングなど多趣味な明るい人で、
子どもの頃はたくさん遊んでもらったし、
いろいろな遊びを教えてもらった。

その叔父が急に祖父の会社を辞めるという話になり、
話し合いが祖父の家で実施されることになった。

久しぶりに叔父に会ったとき、かつての明るい叔父はそこにはおらず、
怒りと憎しみに満ちた表情の叔父がいた(今で言う、闇落ち)。

話を聞くと、祖父が創業した会社の承継問題に関して、
彼なりの言い分があり、それをずっと溜め込んでいたようだった。

彼の主張は、その当否はともかく、感情的には相当根深いもので、
残念ながら、話し合いで解決することはなかった。
結局、彼は、多額の退職金と引き換えに、会社を去ることになった。

叔父には、とても優しくしてもらった思い出があったので、
この出来事には、かなり大きなショックを受けていたと思う。

時を同じくして、親族間の争いは他にもあった。

母方の祖父は、
自分の家の近くにある土地を弟に無償で貸し、
その弟はそこに家を建てて、長年暮らしていたところ、
突然、祖父に対して、その土地の所有権を主張する裁判を起こした。

結果的には、
祖父の弟に土地の所有権の時効取得が認められ、
祖父はその土地の所有権を喪失することになり、
祖父は大きなショックをうけていた。

これら一連の出来事を通じて、
人間関係は流動的で、
たとえ家族であっても、
ずっと仲がいいということは当たり前のことではない
ということをより強く悟るようになった。

そういえば、この自分史を書きながら、
当時、心理カウンセラーに興味を持ったことがあることを思い出した。

心に何らかの闇を抱えた人を見ると、
その人が前向きの人生を歩めていないことが、とてももったいないと思う。

その心の闇を焼き払うことができれば、
その人はもっと幸せな人生を歩むことができるのではないかと思う。

そういうことも考えていたが、
当時は法学部に在籍していたことや
人の心は目に見えないし、よくわからないものというイメージが強く、
より目に見える形での問題解決能力を身に付けたいという思って、
法律を学ぶ方向に進んでいくことになる。

NO就活で司法試験に突撃

しばらくして大学で「司法特講」というクラスがあることを知り、
受講することにした。
加えて、伊藤塾という司法試験予備校にも通って、法律を勉強し始めた。

ただ、大学に入ってからの2年間ほどは、
新しい彼女ができたことや、
家の近所のジムで体を鍛えることやプロレス観戦にハマってしまい、
あまり勉強に身が入らなかったのも事実。

3回生になる頃、就職活動の話が話題になることが多くなってきたが、
自分のなかで全くピンと来なかった。

同級生から、「普通、みんな就活やるで。」
と言われたことをよく憶えているが、

ここでも「普通はこうやるものだ。」というのがわからなかった。

結局、就職活動はしないことにして、
司法試験の勉強に真剣に取り組むことにした。

そして、大学4回生の時、旧司法試験を受験。

短答式試験には合格したものの、
論文式試験前日に十分に睡眠を摂ることができず、合格に届かなかった。

当時のキャンパス。これもいい環境。

そこから始まる暗黒時代

大学を卒業した2003年5月。
再び旧司法試験を受験したが、この年は、短答式試験に落ちてしまった。

この頃は、勉強はしていたものの、
本番に向けてコンディションを整えていくことが全くできていなかった。

そして、この年にロースクールの創設に伴い、
各大学でロースクールの試験が始まった。

しかし、短答式試験に不合格になったことが悔しすぎて、
感情的にロースクールの試験を受験する気になれなかった。

結果的に、この年にロースクールに進学した友人の多くは、
新司法試験を突破し、法曹になったが、
自分は旧司法試験に合格できず法曹になれなかった。

当時、お付き合いをしていた彼女は、大学時代の同級生で、
一足先に社会人になって働いていた。

その彼女から、
「将来のことを考えると、早めに社会人になってほしい。」と言われた。

彼女は、自分にとっての暗黒時代の心の支えだったこともあり、
その意見を無視することはできず、
その翌年は司法試験と公務員試験を併願で受験した。

その結果、司法試験はまたギリギリで届かなかったものの、
公務員試験はかなり上位で合格してしまった。

ここで再び、
公務員にならずに、ロースクールに進学するかどうか、
一応は考えた。

ただ、当時の制度では、
ロースクールを卒業しても司法試験を受験できるのは3回まで
という地獄の制度があった(いわゆる三振制度)。

そのため、2年かけてロースクールを卒業しても、
3回以内に司法試験に合格できなかった場合、
30歳を過ぎても無職になる可能性があった。

それに、ここからまだ2年間学生を続けることになると、
彼女を失ってしまうかもしれないことも怖かった。

そんなこんなで、結局、ロースクールに入ることを断念した。

新司法試験も初年度の合格率こそ高かったが、
2年目以降は合格率が下降し、厳しい様相を呈していた。

この時、自分は初年度の新司法試験を受験するチャンスを逃したこと、
つまりチャンスのウィンドウが閉じてしまったことを悟った。

そして、
コツコツ努力をしても、どうにもならないことがあることを知った。

大学生時代までを振り返って

  • 中高生時代は、チーム戦に全く馴染めていない

  • せっかく自由な環境にいたのに、やりたいことが特になく、引き続き、成績優秀者を目指そうとした

  • そのまま、大学生になって、真の強者が集う試験に突っ込んで敗北した

  • 今思えば、司法試験の結果は、精神面によるところが大きい

という感じで、結局のところ、
小学校時代から続く偏差値教育のパラダイムから脱却できなかった

ということなんじゃないかと思う。

なし崩しの社会人デビュー(公務員時代)

2005年10月、裁判所事務官として大阪地方裁判所の執行部に配属された。

仕事を始めた当初は、労働時間はそれほど長くないものの、
毎日朝から夕方まで働くのが辛く、
自分は働くことに向いていないと思った時期もあった。

ただ、長らく受験生をしていた自分にとって、
一歩前に進んだ感覚があったので、仕事には前向きに取り組んでいた。

1年目の仕事は、期日の調整、書類のチェック、郵送の手配など事務的な仕事がメインで、これらの仕事を確実に遂行することを求められた。

慣れてくると、早く仕事が終わり余力が出てきたので、
自ら他にもできることがないかと仕事を探して、
どんどん仕事の範囲を広げるようにしていた。

当時の上司の評価は高く、将来的にも期待されていたように思うし、
裁判所で書記官としてキャリアを築いていく道が十分にある。
そう思っていた。

でも、一年半で退職

2006年の夏、色々あって、お付き合いしていた彼女と別れることになった。

詳細はここでは割愛するが、
自分も心の中ではずっと疑っていたし、
周りの共通の友人からもやんわり忠告はされていたが、
「俺は彼女を信じる。」などと意味不明なことを言って、目を背けてきた。
そんな感じだった。
これは当時の自分には、かなり辛い出来事だった。

この事件がきっかけで、
自分が公務員でいる理由を失ったような感覚になった。

いや、こうなる予感はなんとなくしてたけどさ。

なんというか、
良かれと思って頑張ってきたことがことごとく結果に結び付かず、
それどころか人生が悪い方向にしか進んでいないように思えた。
そんな暗黒時代だった。

それからしばらく経って、
2006年の秋、裁判所書記官の任用試験に合格した。

試験科目は法律科目だったが、
ほとんど勉強せずに、これもかなり上位で合格した。

今思えば、裁判所は、ガツガツしていない「性格のいい人」が多く、
働きやすい環境だった。

欲張らないで、
裁判所で働きながら、幸せに生きていけるんじゃないか。

そんなことを思った時期もあった。

ただ、裁判所という組織には、裁判官が上位にいて、
職員はどこまで昇進してもその下という残酷なヒエラルキーがある。

そして、
自分が越えられなかった司法試験を超えた人たちと、
越えられなかった人の間にある壁を感じながら、
ずっと仕事をしていくことは、当時の自分には無理だった。
(ちなみに、これを我慢し続けた結果、
 病んでいく職員が裁判所には一定数いる)。

結果的に、裁判所を退庁することにした。

書記官任用試験に合格したのにすぐに退庁するなんて、
当時の上司や同期にかなり迷惑をかけたと思うが、
自分の中ではやむを得ない決断だった(本当にすみません)。

ちなみに、当時こそ、
僕のように数年で離職する職員は珍しかったみたいだが、
今はそこそこいるらしい。

仲のよかった裁判所の同期には感謝しているし、
今でもたまに連絡をとっている。

当時の自分がよく行ってた場所(裁判所、ジム、商店街)

再び人生が動き出す(外資系、グロービス時代)

裁判所を退庁してから、半年ほど実家の稼業を手伝いながら、
力石徹が死んだあとの矢吹丈のような感じで生活していた。

実家の稼業をそのまま手伝う選択肢も考えたが、当時は自分のことを

「自分の力で何もなし得ていない。」

と思っていたので、素直にその選択をすることはできなかった。

そうこうしているうちに、
ネット上に登録した履歴書を見た転職エージェントから連絡があり、
フランス企業の日本法人の法務部と
日系企業の法務部の2社の求人案件を紹介された。

当時は、経験らしい経験もなかったが、
なんせ若かったので、運よく両社から内定をもらうことができた。

どちらに行くか迷ったが、
日系企業の方が面接時に感じた雰囲気が裁判所に近いものがあったため、
少し抵抗を感じたことと、
英語を活かすことができそうという理由で、
フランス企業の日本法人の方に行く選択した。

入社後間もなく、本社のある研修のためパリに出張する機会があった。
それまでビジネスシーンで英語を使う機会がなかった点について、
一抹の不安があったが、
この出張で自分の英語が十分通用することがわかった。

出張の時に撮影したエッフェル塔

帰国後も英語で仕事をする割合が高かったが、ほとんど苦労はなかった。

そして、当時の社内では、
海外と不便なくコミュニケーションがとれるレベルで
英語ができる人がたまたま限られていたことに加えて、

法律知識に明るい人がほとんどいなかったため、
英語と法律知識を使って仕事を獲得していくようになった。

そのうち、契約書のレビューや法律相談に加えて、
クライアントとの交渉にも参加するようになり、

フランス、ドイツ、スイスなどヨーロッパ圏に加えて、
北京、台北、クアラルンプールなど、アジア圏にも、
海外の大型受注案件の交渉に同行する機会も増えていく。

どんどん世界が開けていった。

移動時の写真

グロービスの志教育

30歳になる頃、年齢の割にはビジネス経験が不足している自分は、
ビジネスについてもっと理解を深めなければならないという思いが強かった
(足りないものを埋める思考)

そんな時に、会社の研修でグロービスのクリティカルシンキングを受講し、それがきっかけでそのまま続けて自費でグロービスに通うことにした。

通い始めてみると、土日にはほぼ必ず講義が入るし、
平日夜や土日の空き時間に近所のカフェで勉強する時間が増えた。
仕事をしながら、勉強する毎日だったので、それなりの負担があった。

ただ、今まで知り合うことのなかった業界や役職の人たちと出会い、
法律以外の学びもあり、世界が広がっていく感覚があり、
非常に楽しい時間だった。 

グロービスでは、起業家リーダーシップという科目があり、
一人一人が生涯をかけてなし得たいこと=「志」を考えて、
最後に発表するという時間があった。

自分はこのとき
「日本企業のグローバル化に貢献する。」
という内容で志を発表した。

ただ、その「日本企業のグローバル化に貢献する。」も、
当時置かれた環境の中で、そう思っていただけで、
この後、環境が変わると、いつの間にか消えていってしまう。

ちなみに、グロービスでは、卒業後も
アルムナイのネットワークがあり、
自分も同期7人とグループを組んで
今も四半期に一度のペースで近況報告などを行なっている(11年目)。


なんとか無事に卒業できた

結婚

この頃、今の妻と出会った。
明らかに美人、恋愛体質な感じがせず、
一緒にいて楽だったし、性格もしっかり者。

一方で、自分は貯金が苦手で、
当時も収入のほとんどを使ってしまっていた
(なんでそんなことになるのか全くわからなかった)。

そのため、こういう人が自分には必要だと感じ、
2010年の年末に結婚に至る。
それから色々あったが、15年経っても、夫婦でいてくれて、感謝しかない。

そして、suumoで家探しをして、
妻の実家の近くの大阪の吹田駅近くの賃貸住宅に住むことにした。
駅前にダイエーと商店街があり、とてもいい住環境だった。

JR吹田駅前の盆踊り(2010年)
いいコミュニティがある地域だった

東日本大震災

2011年3月、東日本大震災が起こったときも
日常が当たり前には続かないことを強く感じた。

震災直後の自粛ムードと
テレビで公共広告機構のCMばかり見るという異常な空気の中、
グロービス経営大学院を卒業した。

この先、どう生きていくかをよく考えるようになった。
その頃、研修で知り合った講師から
「君は、これからまたチャレンジした方がよい。」と言われ、
知り合いの転職エージェントを紹介された。

とはいえ、当時は結婚したばかり。

転職には前向きになれない気持ちもあったため、
いくつか求人案件を紹介されたが、どれも渋っていた。

ただ、その中にリクルートの求人があった。

当時のリクルートはグローバル化に注力しようとしていた時期であり、
法務部で海外M&Aの担当を募集していた。

自分は「日本企業のグローバル化に貢献する。」
ということを掲げていたこともあり、
「これは、、、もしかしたら、かなり合うかもしれない」と直感的に思い、
リクルートだけ応募してみることにした。

この年の夏は、なぜか東京出張が多く、
なんとなくこの先、自分は大阪を出て、東京に来る予感がしていた。

そんな感覚で過ごしていると、順調に選考が進み、
夏の終わりに内定が出た。
特に驚きはなく、「やっぱりそうか。」と思った。

当時の会社も嫌いではなかったが、
5年後も働いていたいかと言われると、そのイメージが持てなかったので、
リクルートに転職することにした。

急に東京に転居することになったので、suumoで家探しをスタート。
ただ、妻も当時は大阪でフルタイムで働いており、
その仕事を続けるため、自分は門前仲町に賃貸住宅を借り、
妻は実家に戻る形となり、結婚して半年ほどで別居状態になった。
(この半年後に妻も東京転勤となり、再び同居に戻った。)

門前仲町のお寺。休日によく座禅に行ってた(で、その後はだいたい焼肉)。

まだ、ここにない出会い(リクルート時代)

リクルートに入ってからは、また新しい世界が広がっていった。

それまではドラマや書籍でしか知らなかったような世界だったし、
仕事で関わる人たちも名だたる投資銀行やローファームの方ばかりだった。
昼夜を問わず働く日々が続いたが、
新しい体験ばかりでなかなか楽しかった。

リクルートに入ってから2ヶ月経った頃、2011年12月31日の早朝、
チームに入っていたディールが初めてクロージングした。
早朝に東京駅前のオフィスを出て、
八重洲口からそのまま朝イチの新幹線に乗って帰阪したのを憶えている。

その頃から、社内外の人間関係もでき始め、
M&Aディールの解像度が少しずつ上がってきて、
「いける!」という感覚が出てきた。

年が明けて、すぐにindeedのディールチームにアサインされた。
今では「仕事探しはindeed」って、子どもでも知っているくらいの知名度。

でも、当時は検討していた買収価格が
当時のindeedの規模からは超割高な金額であり、かつ
将来的にはリクルートの既存の人材事業と競合しうる事業でだったため、
リクルート社内でもかなり議論があった。

男は黙ってNYC

2012年夏。
出木場さん(現在のリクルートCEO)率いるチーム数名で
ニューヨークまで行き、indeed創業者と会い、ディールの交渉を詰めた。
(このとき、睡眠不足が続いており、移動中の機内でどうしても寝たかったので、ビジネスクラスで行ったら、帰国後、まあまあ怒られた)。

ニューヨークで、チームのみんなで麻婆豆腐を食べに行ったとき、
出木場さんからみたindeedの未来や
彼がこのディールに懸ける思いなどを聞いた。

そのとき聞いたことが数年後、
本当にそのまま実現していく様子を見て、
彼の異次元のレベルを実感した。

帰国後も一悶着あったが、9月に無事クロージングを迎えた。
日本時間の深夜12時に、
イギリス、アメリカ、日本の3地点を繋いで、
懐かしのポリコムで、クロージングのための電話会議を行った。

当方の弁護士と先方の弁護士が些細なことで議論を始めてしまい、
あわやブレイクするんじゃないかと思うくらい紛糾したが、
そこをなんとか収めて無事にクロージングを迎えた。

社内外の関係者にメールで報告し、
タクシーで家路に着いたが、しばらく寝付けなかった。

翌朝、なんとか起きてメールを見ると、いろんな方から返信をいただき、
労いの言葉をいただいたことを憶えている。

やりきった感覚があった。

何かのインタビューに答えた時の写真

ただ、この頃から夜、ベッドに横たわると、
周りの景色がグルングルンと回る感覚に襲われるなど、
自分の体調に異変を感じるようになっていた。

indeed案件が終わった後もいくつかディールは絶え間なく走っていた。
その中でも、アジア各国で人材系の事業を展開していたBoLeという企業の買収案件に時間を使った。

この企業は、過去に一度買収を検討した際のデュー・デリジェンスで
法務面及び税務面で重大なリスクが発見されたため、
すぐにはディールに至らず、将来的に買収を検討することを前提に、
一定期間をかけてリストラクチャリングを進めていた案件だった。

長くかかったが、この案件も2013年4月に香港に行き、
無事にクローズすることができた。

この案件は、中国企業の買収案件であったため、
アメリカ企業の案件と比較すると、
法制度などの面で不透明な部分も多かった。

また、対象会社の協力を得て、
買収に向けたリストラクチャリングを行うため、
先方においてそこに投下する費用と時間が増えれば増えるほど、

「ごめん、やっぱ、やめた!」という意思決定が事実上できにくくなっていく=交渉力が弱くなっていくという構造があった。

その意味で、ディールの難易度は、indeedより間違いなく高かったし、
クロージングを迎えた時の達成感は非常に大きかったし、
案件を共に走り抜いたチームメンバーや対象会社のメンバーとの強い結束も感じることができた案件だった。

クロージングの時に訪れた香港

新築マンション購入

長男が生まれることになり、いよいよ家を買おうという話になり、
suumoでマンションを探し始めた。

物件探しは23区内で行い、
本郷三丁目や中野に内見に行ったことを憶えている。

初めて行く街での物件探しは楽しかったが、
東京なんて、そもそも縁もゆかりもない土地ばかりなので、
どこに住んでもいい気がして、決め手に欠く状態がしばらく続いていた。

そんな時、アメトークで「不動前芸人」の回をたまたま見て、
行ってみようという話になった。

そして、その週末に不動前を訪れた際、スマホでググってみると、
近くに林試の森公園という大きな公園があることがわかり、
行ってみることにした。

武蔵小山駅で降りてみると、
いい感じの商店街があるじゃないか!(パルム)

駅から林試の森公園に歩いていく途中で、
たまたま新築マンションの販売ブースを見つけた。

物件の説明を受けた後、林試の森公園に行ったところ、
緑がとても豊かな公園でがっちり心を掴まれた。

何より、生まれてくる子が男の子だとわかっていたので、
この公園でたくさん遊ばせてあげようという話になり、
このマンションを購入することを決めた。

とはいえ、いざローンを組むとなると、
必要以上にレバレッジを効かせることに抵抗があり、
3LDKではなく、2LDKで4,700万円の物件を購入した。

購入にあたっては、いろいろと手続きが面倒だったが、
妻にも手伝ってもらって、何とか契約まで漕ぎつけた。

そのうち、購入したマンションの建築が完了し、
内覧会を経て、2014年3月に引っ越した。

毎朝、家を出る時、ドアを開けると、森の景色が見える。
予想どおり、林試の森公園の隣にある物件の住み心地は最高だった。

林試の森で、いつも心をニュートラルな状態に戻す。

長男誕生

少し遡って、2013年5月に長男が生まれた。

妻は一足先に里帰りしており、自分は東京に残り仕事をしていたが、
ある朝、妻から破水したとの連絡があり、
その日の夕方に新幹線で大阪に戻った。

そして、そのまま病院に泊まり、翌朝8時過ぎに無事に長男が産まれた。
彼がこの世に生まれ落ちた瞬間は今でも忘れることができない。

長男誕生のタイミングで、育児休暇をとることにした。

当時では男性の育休取得は珍しかったが、
ちょうど大きな山を越えてひと段落したタイミングだったことと、
しばらく長時間労働を続けていたせいか、
体調面に不安があったこともあり、少し家族と過ごす時間を設けたかった。

ただ、実際は、よほど疲れが溜まっていたためか、
育休中も夜中に息子が泣いても全く起きることができず、
妻に負担が偏ってしまった。
(このことは、今でもずっと妻に言われる。)

その長男の10年後の姿

さらば、リクルート法務

育休から復帰してから、しばらくまたディールの毎日を過ごしていたが、
リクルートは上場前のn期に突入。しばらくM&Aは行わないことになった。

そして、2014年4月、社内の制度を利用して、
リクルート住まいカンパニーに転籍し、法務を離れることにした。

このときは法務から離れるか、
法務に残ってマネージャーとしてキャリアを積むかの選択だった。

法務での仕事は、
スキルセットとしては自分には合っていると思っていたが、
ある時から「このディールを回し続ける日々は、いつまで続くのだろう。」
と思い始めていた。

それに何より、一緒に仕事をさせていただいた弁護士の先生方の
専門性と労働量に圧倒され、
ここで法律の専門性だけで勝負しても、
彼らには勝てないと思う気持ちがあった。

そのため、法務から離れて、
新たな経験値、能力を獲得しようという決断をした
足りないものを埋める思考)。

住まい探しは、SUUMO

2014年4月から、リクルート住まいカンパニーでの仕事をスタートした。
事業推進という一般でいうところの経営企画的な仕事をすることになった。

初年度は、住まいカンパニーの各事業部の
事業計画作成、KPI設定・モニタリングなどをひたすらやっていた。

実家を出るタイミングから数えて、3回引っ越しをしているが、
いずれもsuumoで物件を探していたため、サービスには親しみがあった。

とはいえ、住宅業界の知識はほとんどなかったため、
OJTと書籍などを通じて、キャッチアップする毎日だった。

海外との繋がりがほとんどなくなり、
国内を中心に仕事をすることになったが、
ここでも今まで知らない世界が拡がる感覚があり、毎日仕事に明け暮れた。

年齢が30代半ばに差し掛かったことに加えて、
共働きのため家事育児の負担も増えて、
徐々にゲームが難しくなりつつあることを感じつつ。

喫煙所で作られる人間関係

長男が生まれてからしばらく禁煙していたが、
異動のタイミングできれいに挫折した。
喫煙所で、禁煙に挫折したことを話したら、
「あるある、そういうことも。」と謎に暖かく迎えてもらえた記憶がある。

当時は、まだ役員や事業部長クラスの人に喫煙者が多く、
会議が終わって、次の会議までの間に、
喫煙所に行って会話することが多かった。

今となっては考えづらいが、
当時は喫煙所で、役員や事業部長と
「あの〇〇は、こういう感じでいこうと思ってますが、問題ありますか?」「いいよ、それでいこう。」
という感じで、会議の事前すり合わせや根回し的なことをやっていた。

今思えば信じがたいが、当時は、こういう感じで、
新しい環境での人間関係の多くは喫煙所で作られていった。

死にそうになった研修

2014年の秋
2泊3日の合宿形式の研修を3回ほどやるプログラムにアサインされた。

この研修では、経営コンサルタントの巨匠のH先生が講師で、
それまで常識だと思い込んでいたことが、
常識ではないこととに気付かされる場面がいくつもあった。

今思えば、
自分の頭で考えることの大切さを強く意識し始めたきっかけは、
この研修だったのかもしれない。

ただ、しょうもない答えを言ってH先生の地雷を踏んでしまうと、
それまでにこやかだったH先生の表情が急にハードモードの表情に変わり、

「お前さあ、なんで今、その答えを言った?」

と、そこから立たされて、全員の前で1時間近く詰められる事態になる。

そんな緊張感の高さに加えて、
毎回のように深夜までグループワークが続く鬼のような研修だった。

ほとんど寝ないまま昼過ぎに合宿を終え、そのままオフィスに行って、
翌日の経営会議に向けての資料作りを行うこともあった。

体力的にも精神的にもマジできつかったが、
これも必要な鍛錬だと信じて、やり抜いた。

そして、電池切れ

翌年の4月に事業推進から事業開発に異動になり、
あるプロジェクトのリーダーにアサインされた。

新しいチャレンジの機会なので、ぜひ頑張ろうと思っていたが、
それまでのハードワークのダメージが蓄積していたためか、
GW明けくらいに、朝起きようとしても起きることができなくなった。

体が全く動かなかった。

このときは、さすがに心配になったので、病院に行ったところ、
おそらくストレスが原因で健康状態に重大な影響が出ている状態のため、
仕事をしばらく休んだ方がいいと言われた。

とうとう電池が切れてしまった。

ただ、以前から予兆のようなものを感じていたので、
驚きはあまりなく、
この時は素直に医者の指示に従い、
たまりまくっていた有給休暇を使って休むことにした。

休んでいる間は、
仕事と関係の薄い本を読んだり、映画を観たりして過ごすことが多かった。

また、運動する習慣がなかったので、
筋トレを再開し、ランニングを始めた。

当時、喫煙者だった自分は、当初はほとんど走れなかったが、
少しずつ走る距離が伸びてきて、
毎日3キロ程度走る習慣がついてきた頃に、禁煙することにした。

それから、食事にも気を配るようになった。
そうすると、すごい勢いで健康状態が回復してくる実感があった。

この期間でコンディショニングと回復の手段を身につけた。
そして、心身の健康は、気合いや根性では得られないことを理解した。

このとき以降、二度と体を壊さないと心に固く誓った。

大阪マラソン2017

ここまでの社会人時代を振り返って

  • 足りないものを埋める思考で修行に明け暮れた

  • 組織の中で、少しずつチームプレイをおぼえ始めた

  • 結婚、出産などを経て、ゲームチェンジ

  • 結果的に、体を壊すことになった(自分は、超サイヤ人ではなかった)

という感じだ。
ただ、同じような道を歩んでいる方は、多いのではないかと思う。

趣味の話

サウナの再発明

ある日、後輩から、「サウナに行きませんか?」と誘われた。

以前から、たまにはサウナにはたまに行っていたので、
特に何の考えもなく、「ええで。」と言って、
仕事帰りに、赤坂見附のサウナリゾートオリエンタルへ一緒に行った。

この時、サウナと水風呂の正しいとされる入り方を教えてもらった。
そしたら、めちゃくちゃキマった(今でいう「整った」。)

それまでの僕は、
サウナのポテンシャルの2割くらいしか享受できていなかった。

後輩からは、
「おめでとうございます!ここが前田さんの産湯ですよ。」と言われた。

この後輩の発言は、かなり意味不明だとしても、
この体験は自分の中では、ある意味イノベーションだった。

それまで運動でしか血流を促進する手段がなかった自分に、
新たな手段が加わった。

サウナリゾートオリエンタル

これ以降、回復のために定期的にサウナに行くようになったし、
飲み会の代わりに、友人や同僚とサウナに行って話す機会も増えた。

それ以外の趣味

  • ・ランニング

  • ・自転車(ロードバイク)

  • ・寺社仏閣巡り(大学生の時から、伊勢神宮や出雲大社など巡ってた)

  • ・家庭菜園

  • ・マッサージに行くこと

などが色々やってきたが、全体を見てみると、
仕事以外の時間は、「心と体の調和の追求」に使っているなぁと思うし、
結構スピリチュアル寄りな感じもする。

再び仕事の話

ホワイト化するリクルート

復帰してからは、事業開発室の制度設計や予算管理など
ふたたびバックオフィスの整える系の仕事をやるようになった。

数字系の仕事が合っていた自分は、
翌年に事業統括という予算管理の部署に異動することになり、
半年後、予算管理を担当していた子会社に出向することになった。

当時のリクルートでは、上場したこともあって、
社内では働き方改革が進められており、
生産性の向上が強く掲げられていた。

無駄な会議や業務をできるだけなくし、
少ない労働時間で、より大きな成果を上げよう!という動き。

この時点で僕がリクルートに入ってから5年ほどが経過していたが、
この間にずいぶんホワイト化が進んだ。

そんな中、第2子である長女が生まれた。

兄弟も親戚も男ばっかりの家系で育った自分にとって、
娘ができることはあまり想像していなかった。

嬉しい反面、
長男の育児に加えて、またあの怒涛の乳幼児育児が始まる。

そういう危機感があったので、
このホワイト化の動きに関しては、個人的にはとても賛成だった。

このホワイト化がなければ、
共働きの我が家は、仕事と二人の子どもの家事育児に押しつぶされて、
破綻していたかもしれない。

安心・安全のホームプロ

出向先のホームプロという会社は、
リフォームしたいお客様とリフォーム業者を
マッチングするサービスを提供していて、
リクルートの子会社でありながら、
リクルートと絶妙な距離感で事業運営をしていた。

社内の規程やルール、福利厚生等はリクルートグループの恩恵を受けつつ、
サービス設計や文化などはかなり独立自治を維持していたし、
かなり「性格のいい会社」だった。

自分は、経営企画室の経理・統括チームを担当することになった。

  • 事業計画策定

  • 予算管理

  • 経理

  • 審査

  • 法務

  • コンプライアンス、内部統制

と人事以外のコーポレート業務を幅広くカバーしていた。

メンバーの人たちは、真面目な人が多く、定常業務を丁寧に遂行しつつ、
生産性を上げるための持続的改善もコツコツと継続されていて
感心しきりだった。

それに、単一事業で、かつ45名規模の会社だったため、
PLの構造も非常にシンプルで、事業に関するデータも取りやすく、
社内の状況がとてもよく見え、仕事もやりやすい。

その中で、当時の業務の中心は、数字面だったが、
担当していた法務の仕事の中で、
自分のキャリアの背骨には、
「法律を通じた問題解決」が横たわっていることも再発見できた。

とはいえ、何も悩みはなかったというわけではなかった。

公務員、外資系企業、日系上場企業を経て、
組織というものがある程度、理解できるようになった感覚があった。

法律知識、英語、会計、ファイナンスに加えて、PCスキル、論理的思考力、プレゼン力、コミュニケーション能力、マネジメント・・・
どんどんできることが増えてきた。

ただ、今でこそ機嫌よく働いているが、
この「できることをどんどん増やしていくゲーム」にはキリがないし、
自分はこの先、この会社で昇進するとしたら、この辺りまでというのが見えてくるようになった。

それに、僕はこれまで数年度ごとに
新しい環境に飛び込むことを繰り返してきた。

それは

新しい世界を見たいとか、成長したい

という思いからくるものだと思っていた。

でも、一方で、
新しい環境で積み上げたものを、
自分で破壊して、次の新しい環境へ移っていく

こんな焼畑農業みたいなことを繰り返していては、
結局は何も残らないんじゃないか

このままやっていけないわけではないが、
この先も、卒なくこなしていくだけ
これが自分の人生でやりたかったことなのかという疑問があった

それに、会社員としての自分、父親としての自分、夫としての自分。
全方位で求められる役割、期待に全力で応え続ける人生は、
もはや自分の人生でないような感覚もあった。

これが中年の危機なのか。

とある転職エージェントからは、
「管理部門の仕事を広く経験しているので、今後CFOを目指したらどうか。」
みたいなアドバイスをいただいた。

しかし、それがどうしても自分のやりたいことのように思えない。

一瞬、「いいかも」と思うところもあったが、
それもおそらく他人から見たときにイケてる、輝いている
キャリア、ビジネスパーソン像に寄せてるだけなんだと思う。

要するに、この期に及んで、まだ他人の評価を気にしている。

他人の期待に応える人生を送っているうちに、
自分のやりたいことがわからなくなってきたのではないか。

そんな思いも、日々の仕事と家事育児の忙しさにかき消され、
しかも生活には特に大きな不満もないので、どんどん時は経っていった。

第二の反抗期

ある日、wantedlyでスカウトメールが届いた。

「資格スクエア」という
司法試験を中心とするオンライン資格試験予備校の代表からだった。

すごく熱い文面だったので、話を聞きに行ったところ、
この会社は、これから事業拡大とバックオフィスの体制を
つくっていくフェーズだった。

受験生の事情がわかる自分には、やれることが多そうだと素直に感じた。
しかし、同時に、この会社で仕事するとなると、
合格していく人たちを間近で見続けることになる点が気に掛かっていた。

この面談のあと、
当時某メガベンチャーのコーポレート役員だった
Y氏とお会いする機会をいただいた。

ひととおり自己紹介など話した後、突然

「前田さん、司法試験を諦めたことを後悔してますよね?」

と突然、核心に迫られた。

慌てて「いや、まあでも、もう年齢も38歳ですし、
子どもも2人いて、今からやるのはとても、、、」みたいな返事をしたところ、

「それ、やらない理由になります?やりたかったらやればいいんですよ。
 やれる方法を見つけるんですよ。」

と返されて、それ以上言葉が出てこなかった。

頭を割られた感覚だった。

その面談が終わってから、
数日間は、ほぼ放心状態にだったが、
そのうち直近の司法試験の状況や予備校などについて、
情報収集をし始めた。

調べてるうちに、「これはいけるかもしれない。」と思い始めた。
そして、40代以降、「法律知識を通じた問題解決」に戻る道が見えてきた。

そう思って、しばらくして、

「俺、もう1回、司法試験を受けようと思うんやけど。」

と妻に告げた。

妻のリアクションは、当然のことながら、

反対。

そらそうよ。

妻からしたら、しなくていいチャレンジ、とらなくていいリスク。

ちなみに、
グロービスのアルムナイネットワークでも相談したところ、
賛成と反対が半々だった。

ただ、自分の中では「やる。」という結論は決まっていて、
頭の中は既に「どうやるか。」だけだった。

当初は、働きながら、司法試験予備試験を受験しようと考えていた。

資格スクエアの代表に挨拶に行き、司法試験への再チャレンジを告げた。
そのまま資格スクエアを使って
(普通にお金を払って一受講生として)
勉強することにさせてもらうことにした。

働きながらの勉強のため、勉強時間が足りない分は、
お金はかかるが、個別指導をつけてカバーすることにした。

でも、ひとつだけ、
東大ロースクールだけは、受けてみることにした。

その年の夏のある日に東大の本郷キャンパスに行った時に、
「自分はここに来るんじゃないか。」
そんな予感がなんとなくしたからだ。

東大ロースクールの入試当日の手応えはさほどなかったが、
蓋を開けたら合格していた。

驚きはなく、「やっぱりそうか。」と思った。

こうして第二の反抗期の自分は、妻の反対を押し切って、
リクルートを退職することを決めた。

第二の青春

2019年4月、東京大学法科大学院(東大ロー)に入学した。

まさか39歳になって
自分が東大のキャンパスに通うとは思ってもみなかった。
こんなことあるんか。

同じクラスの大半が20代だったが、
その中でも30代以上の年齢の方も数名いて、意外だった。

社会にはい自分が思う以上に、
いろんなキャリアや選択肢があるのかもしれない。

東大ローに入学する際に、
リクルートの後輩(東大出身)が、
1年前まで東大ローに在籍していた友人Kくんを紹介してくれた。

このKくん、
灘高→東大法学部→東大ロー主席卒業と恐ろしく優秀な人なのだが、
めちゃくちゃ気さく。しかもガチのサウナー。

ということで、よく一緒にサウナに行って、
東大ローの勉強や司法試験について、相談に乗ってくれた。

この時期の環境変化にもうまく適応できたのも、
この後の予備試験にも合格できたのも、彼のおかげだと思う。

司法試験予備試験

東大ローに入学してすぐ、
司法試験の前哨戦である予備試験の勉強を始めた。

予備試験とは、これに合格すると、ロースクールを卒業しなくても、
司法試験の受験資格が得られる試験。
短答式試験(一次)、論文式試験(二次)、口述式試験(三次)がある。

短答式試験を一撃でやっつけて、いよいよ論文式。

この予備試験の論文式試験は、
旧司法試験とは少し形式が異なるが、かなり似ている部分が残っており、
自分にとっては10年越しのリベンジ戦。

そんな中、僕は、この数ヶ月間、
やると決めた勉強はやりつつ、運動を欠かさず行い、
サウナでコンディショニングを継続してきた結果、
かなりいい状態で当日を迎え、全てを出し切って終えることができた。

学生時代との明確な差分は、

全人格的に勉強するのではなく、
ゴールから逆算して、やるべきことを決めて、淡々と進める。
心身のコンディショニングも怠らないという点。

この辺りは、社会人経験が効いていた。

この後、三次試験である口述式試験まで突破し、
東大ローに入って半年後に、予備試験に最終合格した。

というわけで、ロースクールを卒業しなくてもよくなった。

「あれ、俺、リクルートを辞めなくてよかったんじゃね?」

とも思ったが、

僕にとって、東大の本郷キャンパスは、
そこにいるだけでスイッチが入る特別な空間だし、

この結果は、東大ロー入学やKくんとの出会いなど、
何か一つでもピースが欠けたら、実現しなかった。

自習室がある法4号館。精神と時の部屋。

ちなみに、この予備試験は合格率が4%台で、
日本一難易度の高い試験と言われている。

それに合格したことで、
自分は正解がある問題を解く能力という面では、

かなり高いレベルにあることを自覚した。

考えてみたら、

  • 司法試験以外の公務員試験や書記官任用試験は、上位合格

  • TOEICも900点超えてる

  • 宅建とかも、一発で余裕で合格

そう思うと、一部の天才の方々を除いて、
人間の能力なんて、そんな大差なく、
結果を左右するのは、
むしろ精神面などの人間の内面ではないかと思うようになった。

このことが後々になって、コーチングを学ぶことにつながっていく。

想定外のパンデミック

この勢いで、景気よく「司法試験合格!」といきたかったが、
そうはいかなかった。

2020年1月3日。近所の銭湯に行った時、
「中国で原因不明の肺炎が拡がっている。」
というニュースを見た。

「これはやばそう。」

その予感は的中し、

2月頃からテレビや新聞のニュースは、
新型コロナウイルスのニュース一色。
3月の下旬には、東大のキャンパスも閉鎖されてしまった。
そして、4月8日の緊急事態宣言。

その日、5月に予定されていた
司法試験の延期(開催日未定)が決定した。

「おいおい、マジかよ。」

どうしようもなさすぎて、
それくらいしかリアクションが出てこなかった。

試験が開催されないことには前には進めないので、
何もできなかった。

この時期は、東京を離れて、
娘とともに大阪の実家で過ごしていた。

朝からとりあえず勉強して、
昼から娘と近所の公園に行き、
夕方に実家で新型コロナウイルスのニュースを見る、
という毎日をただただ過ごしていた。

ただ、昼間の公園で見た満開の桜や花がとても綺麗で、
それだけで何気ない日常がスペシャルなものに感じた。

5月に入って、季節は、すっかり夏。

緊急事態宣言が明ける頃、
司法試験が8月に開催されることが決定した。

何より司法試験が開催される見通しが立ったことに安堵し、
そこから2ヶ月半、奮起してなんとか走り抜けた。

迎えた司法試験本番。
正直、試験が実施されれば、勝てる自信はあった。

そのため、余計なことは考えず、
粛々と問題を解いて答案を書くマシーンと化すことに徹底した。

毎日、試験が終わると、実家に戻り、ご飯を食べさせてもらい、
サウナに行って回復し、ストレッチをして寝る。これの繰り返し。

あんなに準備した試験も終わってみれば、一瞬。
40歳の夏が終わった。

それから合格発表までは、5ヵ月あった。

精神的に落ち着かない時間が長く続いていたので、
気分を紛らわすため、
緊急事態宣言明けのディズニー(空いてた)に娘と何度か行った。

学生時代から何度か
当時の彼女とディズニーに行ったことはある。

いつ行っても大行列で、ストレスしかなかったが、
娘と行ったコロナ明け、人数制限のディズニーでは
いろんなアトラクションに乗れたし、
娘も喜んでくれて、めちゃくちゃ楽しかった。

あんなに嫌いだったディズニーのことが、こんなに好きになるなんて。
おかげでディズニーにもかなり詳しくなった。

2020年は、娘と過ごす時間が自分の心の支えだった。

世間的には、自分が娘の親であり保護者であることは間違いないが、
実際は、親も子に守られて、生きているんじゃないか。

そんなことを思って、家族の大切さを痛感していた。

コーチングとの出会い

この時期に、進路について考える時期があった。

グロービスの友人に相談したところ、
Kさんというコーチを紹介してもらい、
オンラインで1時間ばかり時間をいただいた。

僕の話を聞いたKさんは、過去や現在についてほとんど触れず、
「おお、これからめちゃくちゃ楽しみじゃないですか!」
と爽やかに言い放った。

自分は過去や現在ばかり見ていたが、
未来は、これからまだまだ拡がっていくように思えた。

ちなみに、この出会いの1年後くらいにも、
別のコーチのモニターセッションに協力することがあったりして、
人生の中に、コーチングが少しずつ現れてくるようになっていく。

そして、司法修習生へ

司法試験に、無事に合格した。
長かった戦いが終わり、心が軽くなった。

もうこれで十分だろうと思うことができ、
自分の中で偏差値教育に終わりを告げた。

司法試験に合格すると、
法曹資格を得るために、およそ1年間、司法修習生として学び、
司法修習所の卒業試験(通称、「二回試験」)をクリアする必要がある。

15年ぶりの裁判所

司法試験に合格したあと、司法修習生の時代に、
東京地方裁判所にいく期間があった。

大阪地方裁判所を退庁してから、およそ15年ぶりの裁判所。

内装や雰囲気、仕事のスタイルなど当時とほとんど変わっておらず、
懐かしさに涙が出そうになる。

一方で、変化が少ない職場って、こんな感じなのかと思いつつ、

今の時代に、FAXを常用してたり
(※ただ、これは法律や規則で定められているから、ある程度は仕方ない)、

業務用PCがだいぶ古いモデルだったり、

「あれ、まだこんな感じなのか。大丈夫かな。」
と思ってしまうシーンも多々あった。

変化の多い自分の人生を振り返ると、
ここまで変わらない環境に長くいつづけることはできなさそうだった。

そう思うと、自分はあの時、
たとえ裁判所を辞めずに残っていたとしても、
どのみちいつか辞めていたのだろうと受け入れることができた。

溢れる人間ドラマ

余談だが、東京地裁での修習の指導教官が、
自分が大阪地裁にいた当時の部署で
左陪席をされていた女性の裁判官だった。

才色兼備という感じの人なのに、人柄もよく、
当時からとてもお世話になっていた。

裁判所を退庁して以来、連絡は途絶えていたが、
紆余曲折の15年を経て、なんと東京で再会することができた。

こんなことある!?

やはり、縁というものは、存在するようだ。

これ以外にも人間ドラマはそこにはたくさんあった。

司法修習中は、民事、刑事ともにいろんな事件に触れる機会があり、
その一つ一つにその人の人生にまつわるストーリーがあって、
自分の知らない世界、想像していなかった世界に触れることができ、
ここでもまた世界が拡がっていく感覚があった。

一方で、当然のことながら、法律の勉強もしなければならないのだが、
こちらはそれほど楽しいと思えなくなっていた。

なので、夕方になって拘束時間が終わると、
自分の好きな本を読んだり、サウナに行ったり、
休日は家族と家庭菜園をやったりして、特に勉強らしい勉強はしなかった。

狂気の二回試験

そんな司法修習もあっという間に終わりを迎えた。
司法修習の最終関門である二回試験は、以下のような形で行われる。

・試験時間は、10:00から17:30
・昼休みなし。食事は持参し、12:00から13:00の間は各自とってよい
・試験科目は、5科目。1日1科目で計5日間
・分厚い記録と問題を渡されて、回答を手書きで起案する形式(論文式)
・最後に、答案用紙を紐で結ばなければならない(時間内に結ぶことができない、
 または、結んだがほどけてしまった場合、不合格になる)

最後の紐ルールとかマジで意味不明なのだが、
「やらない」という選択肢はないので、最後まで試験を受けた。

ちなみに、今思えば、予備試験も司法試験も二回試験も、
法曹になった後に、
過酷な状況に耐えられるようにするための精神修行だったのだと思う。
(ほんと僕の人生、精神修行だらけな気がする)。

弁護士になってみて、どうよ?

弁護士になって、都内の法律事務所に勤務し始めた。
クライアントから感謝の言葉をいただけることに充実感があった。

これは世を忍ぶための仮の姿

もともと独立開業したいと思っていたので、
しばらく法律事務所に勤務したのち、自分で事務所を開業し、
あるスタートアップ企業の仕事と
知人友人から紹介された案件をやるようになった。

そのタイミングで、今まで関わり方が微妙だった実家の家業にも、
顧問弁護士として関わるようになった。

だが、またすぐに毎日仕事と勉強に追われる日々を過ごすようになる。

離婚、相続、交通事故、労働、刑事、景表法、金商法、不正競争防止法、
著作権法、個人情報保護法、、、

『あれ、弁護士になったのに、前とあんまり変わってなくね?』

気づけば、
また「できることをどんどん増やしていくゲーム」が始まっていた。

もちろん弁護士としてできることを増やすことは大事。

だが、いつまでもこのゲームをやっていると、
それだけで自分の残りのビジネス人生はあっという間に終わってしまう。

自分は、弁護士になることをゴールにしていたので、
弁護士になって何がやりたいかを全く考えていなかった。

ようやく気づくとかマジでアホだなと思いつつ、
コーチングの話を思い出す。

こうして3年越しで、
KさんにLINEで連絡し、コーチングスクールの扉を叩いた。

Mindset Coaching Schoolとの出会い

とんでもない学校に来てしまった。

初回の講義から衝撃の連続で、
それまでの自分の人生で当然のことと思っていた常識がことごとく破壊されていき、痛いところをグサグサ刺されるので、

毎回の講義のたびに

「ぐはぁ」

「いやあああああ!!!」

と悶絶していた。

このスクールがめちゃくちゃ特徴的なのは、
ただコーチングの知識を学ぶのではなく、
スクール期間中に、徹底的に自己適用するという点だった。

自己適用とは、ざっくり説明すると、
自分の人生を通底する欲求(want to)は何かを特定した上で、
仕事、趣味などの領域で心からやりたいと思えることで、
現状の外側にゴールを設定し、それに向けて動き、そこから気づきや学び を得て、 
コーチングマインドを獲得していく、そんなイメージ。

「心からやりたいと思えることは何か。」
これはずっと自分が最も苦手とする問いだった。

周囲の同期が、
どんどんチャレンジを進めていき、気づきや学びを得ていく中で、
自分はなかなか動き出せずにいた。

そんな中、講義と講義の合間に、学校長との面談の機会をいただき、
「弁護士のバッジを外した君が何をやるのか。」
という問いかけをいただいた。

この一言で、
「そうだ。自分のアイデンティティは弁護士でなくてもいい。
 弁護士はスキルとして考えておくくらいでいいのかもしれない。」
と思えるようになり、一気に心が柔らかくなった。

そのとき、
「弁護士は、国から資格を与えられて仕事をしている。
 司法修習という制度で、牙を抜かれてしまう。」
ということも教えてもらった。

司法試験に合格し、
解放されて自由になったと思っていた心の柔軟性は、
司法修習の間にいつの間にか失われていて、
気づかないうちに、「弁護士はこうあるべき。」と思い込んでしまっていた。

ただ、それでもすぐには仕事でやりたいことはすぐに出てこなかった。
そこで、趣味からチャレンジをスタートすることにした。

「格闘技の試合に出て、勝つ。」

これを趣味のゴールに設定した。

「もう俺43歳やで。めちゃくちゃやんか。」

と思いながら、心はワクワクで震えていた。

Yawara Jiujitsu Academy

こうして原宿にある柔術の道場「Yawara」に足を運んだ。
道着の袖に手を落として、帯を締めたときの久々の感覚。

正道会館に通っていた少年時代を思い出した。
とても懐かしく、かつ新鮮だった。

初めての練習で、Tさんという方が声をかけてくれた。
後で知ったのだが、この方は著名な投資家だった。

道場では、本当に気さくな方で、
何もわからないでいる自分に、いろんなことを丁寧に教えてくれた。

その他の先輩方も、
フラットなコミュニケーションをとってくださる方が多く、
想像していた道場とは全く違う道場だった。

入門から1か月半くらいで、
鈍り散らかした体の機能回復訓練が終わ理、
ストライプ1本目を獲得しした。
そのとき、思い切って、道場内の試合にエントリーした。

「40代で、柔術始めて3ヶ月で試合とかすごいっすよ。」
「え、そうなの?」

「相手、30歳っすよ。」
「え、そうなの?』

試合が近づくにつれて、高まりゆくビビり感。

仕事終わりの練習と隙間時間でYouTubeでの学習をしながら、
試合に備えるという非日常を過ごした。

そして、迎えた当日。試合時間は、5分。

途中から握力がなくなっていったり、足を攣りそうになったり、
呼吸が不十分だったり、

5分間でこれほどカロリー消費したことは、
これまでの人生では体験したことがない
と思えるくらいきつい時間だった。

結果は、完敗。

当たり前のことだが、試合では、
・相手も動くので、練習の時のように、すんなりと技が決まらない
・体力が減っていくので、思考が働かないし、体も動かせない
・セコンドの声は聞こえるものの、それを全く実行できない

負けて悔しいという感情は、当然あった。
ただ、それ以上にはっきりわかる変化があった。

これまで健康維持やリフレッシュのためにやっていた感覚の練習から、
勝てるようになるための練習に変わった。

また『相手と対峙して勝負するとはどういうことか』
の感覚を持つようになった。

それからというもの、先生や諸先輩方にサポートいただきつつ、
さらに練習を積み、さらにはパーソナルトレーニングで仕上げて、
再び試合に臨み、初めて一本で勝つことができた。

祝 初勝利!

柔術を通じて、僕は、
幼少期の自分に戻るというか、
偏差値教育に毒される前の幼少期の自分を取り戻していく。
そんな感じがしていた。

突然やってくる痛み

「柔術」という新たなアイデンティティが出来つつある中、
Mindset Coaching Schoolを卒業した。

これからどんなチャレンジをしようかとワクワクが止まらない。
そんな感じだったある日、ふと背中に違和感を感じるようになった。

はじめは「寝違えたかな。」くらいに思っていて放置していたが、
旧友と神田のガード下で焼き鳥を食べている時、
明らかに背中が痛いことを自覚した。 

5日ほど経っても痛みが続くので、
整形外科を受診したところ、背中の痛みの原因は頚椎だと指摘された。

簡単にいうと、首の骨が神経に当たって、
炎症を起こしているのではないかということ(軽度の頚椎ヘルニア)。

すっかり忘れかけていたが、司法修習生の時代に、首を痛めてしまい、
腕に力が入らなくなっていた時期があったことを思い出した。

痛みがひどい場合、注射による治療や手術も考えられるが、
現時点では、痛み止めと内服薬の処方で様子を見ることになった。

「え、これから柔術できるの?」

せっかくこれから柔術にハマっていくフェーズなのに、
もしかしたら続けられないんじゃないか。そんな不安がよぎった。

いつも指導いただいてる柔術の先生に連絡をしてそのことを伝えたところ、
なんとその先生も頚椎の怪我に悩まされていたことが判明した。

そして、腕のいいカイロプラクティックの先生を紹介してくれた。

そのカイロの先生に診てもらったところ、
首の状態が思った以上に悪いことが判明した。

そうか。(いや、整形外科でそう言われてたけどさ)。

昔からよく自分より年上の方が、
「歳をとるとあちこち痛くなる。」
「君らもそのうちわかるようになる。」
って言ってたけど、その意味がわかり始めてきた。

できないことより、できることを意識する

ただ、よくよく振り返ると、
首が痛くなったことも悪いことばかりではなかった。

その後、治療を数ヶ月続けているうちに、
首の痛みはなくなっていった。

それどころか、カイロの先生に首をケアしてもらううちに、
偏頭痛もなくなっていった。
(頚性頭痛といって、首から来る頭痛があるらしい)。

カイロの先生と話して、
柔術も人生も戦い方を変える必要があること、
できることはまだたくさんあることがわかった。

こうして柔術の練習も少しずつ再開していった。

バランスのとれた人生と不確実な世界

いろいろなあったけど、
現在は、結果的に、
仕事(弁護士、プロコーチ)、趣味(柔術、サウナ)をはじめ、
家族、人間関係、社会貢献、知性、健康、ファイナンスの各領域で
バランスは整ってきた。

一方で、世界に目を向けると、
災害、戦争、急激に進む円安など、不確実性が増していることも明らか。

それに加えて、
これからも自分の健康、家族の健康、子どもの問題、介護、相続など
予想外の出来事が加わってくるだろう。

自分ではコントロールできない変数が多すぎて、
この先どうなるかなんて全くわからない。

今の幸せな生活がいつまで続くかなんてわからないし、
たとえやりたいことがあっても、
やろうと思ったときにやれるとは限らない。

だとすると、結局は、

「残された時間の中で、やりたいことを、やれる時に全力でやる。」

これしかないと思って毎日を生きている。

リクルートを辞めて弁護士になった時代を振り返って

  • 「法律を通じた問題解決」に戻ってきた

  • 偏差値教育のパラダイムから脱却した

  • 「人の心の問題」に戻ってきた

  • 格闘技に戻ってきた

と、前に進んでるつもりが、不思議なもので、
実は、過去の伏線を回収しているかのような人生であることに気づく。

あと、40歳になった頃から、
人生の残り時間が少ないことを強く意識するようになる。

そこから、2回目の人生が始まったと思う。

こっちの方が本来の自分の姿

これから何に青春を注ぐのか

これからも

  • 柔術(生涯スポーツ)

  • ゴルフ(多くの人と一緒にやれそうだし、ゴルフの後のサウナが最高な気がする)

  • 旅行(アメリカ、ヨーロッパ、アジア。できれば、子どもと)

  • バイク(当時は、買えなかった大型バイク)

  • そして、以前から興味のある仏の道の追求

などなど、やりたいことはたくさんあるが、

今回、自分史を振り返ってみて、
やはり自分は企業のコーポレート部門の課題解決
をやっていきたいし、その中でも、特に

子どもの頃から、偏差値教育の中で生き残ってきたものの、
いつの間にか自分のやりたいことがわからなくなってしまった
コーポレート部門で働く30代、40代の高度専門人材の課題解決

に青春を注ぎたい。

長い文章を最後まで読んでくれてありがとうございました!



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