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5年前 <19>

矯正歯科に入ると「手術お疲れさまでした!」と先生と歯科助手さんに出迎えられた。
1年ちょっと前、初めてここに来た時「どうしてこの手術をすることにしたんですか?」と訊かれて
「このままで棺桶に入りたくないからです」と答えたのがものすごい昔に思える。

矯正装置にフックを掛けてもらってから、鏡を見ながら自分でゴムを掛ける練習をさせられた。これから半年くらい?歯磨きと食事の時だけゴムを外し、終わったらすぐに付けなきゃいけないんだけど、これが難しい。なにしろ口は全然開かないからね。何故かゴムが入ってる袋にはギリシャのパルテノン神殿のイラストが描かれてる。あとで調べてみたら太さや大きさによって柄が違うようで、フラメンコを踊ってる女性や自由の女神が描かれたものもある。そしてフックにゴムを掛ける道具はワニの形!可愛い。これもタコとか他の生き物のもあるんだよね。けど、ワニちゃんを使わずに指でやった方がやりやすいという。

毎日何度も何度も鏡を見て、顔の腫れをチェックする。うーん。アンパンマンからハコフグに変わったくらいかなぁ。なんていうか、顔が四角い。洋ナシっぽいともいう。このまま治らなかったら嫌だ、嫌すぎる。もともと面長でシュッとした輪郭だったからこの落差はひどい。
「これ、丸顔になったりしませんか?」って渡部先生に訊いたら
「個人差ありますけども、太らなければ元に戻ります」って言ってたけどさ。

まだ麻痺もひどい。効果音が聞こえるんじゃないかってくらい口の周りや目の下がビリビリ、ゾワゾワする。特に右側。ああ、そういえば右側の方が骨を多く切ったんだっけ。それと関係あるのかなぁ。けど食事が少しマシなものになっただけでも喜ばないといけないんだろうね。もう2度と重湯なんてごめんだよ。食べてる気がしないんだもん。食事って大事よね、食べなきゃ死んでしまうけど、ただの「エサ」じゃなんだかな~って思う。3週間近くエサを食べてたから本当にそう思う。好きなものを好きな時に好きなように食べることが出来るって幸せなんだなって改めて気付かされる。

そうこうするうちに3月になった。私の誕生月ーー私はもうすぐ42歳になる。例の友達からメールが来た。
「どうよ、調子は?花見いつにする?」
「なんとかやってるよ~。まだ軟らかいものしか食べれないんだけどね」
「そっか。どこ行くよ?」
「どこでもいいよ」
「あ、私、横浜に来てから桜って見たことないんだよね。どこかいいとこある?」
彼女は去年に都内から私の生まれ故郷、横浜に引っ越していたのだった。
「じゃぁ、大岡川なんてどう?桜の名所だよ。今調べたら川下りの舟もあるらしい」
「私、船酔いするんだよね、パス」
「じゃぁ普通に花見するべ」
この頃には結構腫れは引いていたけどまだまだちょっと下膨れだった。

冷蔵庫で1年以上眠っていたシャンペンと戸棚の肥やしだったフルートグラスを持参し、彼女との待ち合わせ場所に向かった。早く着きすぎたか?まだ彼女の姿は見えない。
「おう、久しぶりっ」声を後ろから掛けられた。
「久しぶり~」
「恰好から君って分かったんだけど、もしかしたら違う人かなって思って声かけるの躊躇ってたんだよね」
「まだ顔腫れてるからね」

川縁のベンチに座って用意してきたシャンペンとグラスを取り出す。彼女はこれなら食べられる?とシフォンケーキを作って持ってきてくれた。
「ありがとう。けどちょい待ち」
そう、固定してるゴムを外さなきゃいけないのだ。
「このシャンペン美味しいわ~。それにグラスで味変わるね、やっぱちゃんとしたやつだと違うんだねぇ」
私は数年前からワインにハマって、色々なグラスをリーデルで揃えていたのだった。
平日の昼間だから花見をしている人はまばら。のどかな早春。桜は8分咲きくらいだけれど、綺麗だ。

「ケーキだけじゃ足りないね、どこかでお昼にする?」
「そうね、どこ行くかね?」
「ミホは食べれるもの限られてるじゃん?」
「まぁ、何かしら食べれるものあるから適当にぶらついて入ってみるか」
「そうしよう」

私の生まれ育った横浜旧市街。街の様子は住んでいた頃と少し違うけど、やっぱり私の知ってる街なんだよなぁ。
お喋りしながらあてもなく歩いていると馬車道に来ていた。結構歩いたな。
「あ、中華食べようか」
「いいね」
有名な広東料理の人がオーナーのお店に入る。ま、伏せる必要ないね、周富輝の「生香園」。
私がこの辺りで仕事をしていた頃、店の前に富輝さんが立ってる姿を何度も見かけたことがあるけれど、今日は店にいないっぽい。

店に入って着席してメニューを見るとどれも美味しそうだけど、悲しいことに私が食べられるものは数品……。麺類は難しい、お肉や魚も無理。チャーハンならいけるな。友達は翡翠餃子と海鮮焼きそばを頼む。
「ん、美味しい!」
「初めて入ってみたけど、美味しくてよかったわ」
友達は中国に留学の経験があって、平素から中国文化に触れていて、卒論も中国文学関連にしたといういわば中国関連のセミプロみたいな人だ。グルメも大好きで中華料理には特にうるさい。その彼女が美味しいと言うくらいだから本当に美味しいのだろう。ううっ、私もその翡翠餃子食べたいなぁ。小さくお箸で切ってからなら食べられるかも?1つ分けてもらって口に運ぶ。ああ、本当に美味しいわ。

「もう卒業して何年だっけ?」
「旅行したのが2011だから、8年だわ」
「もうそんな経つんだねぇ」
彼女と知り合った頃まだ私は27歳だったっけ。そうだ、彼女と初めて会ったのは2度目のパリ旅行から戻った直後に開かれたオフ会でだった。あの頃は私の人生のピークだったよ。24歳から毎年、年に3度も長期の海外旅行してさ。旅行のために働いて、勉学にも励んで。けど色々なことがあって31歳の時に放浪生活はストップ、仕事と学校以外では人と交流することもなくなった。

「今日はありがとね」
「こちらこそ。楽しかったわ。ケーキありがとう。美味しかったよ」
「うん、また近いうち会おうぜ」
それから彼女とはたまにやりとりはしたものの、未だに、つまり5年間会っていない。今はどこでどうしてるんだろう。