本を読めるようになった私
本を読めるようになりました。まだほんの少しだけれど。
一年前ほどから、本を読もうと思い立ち、コツコツと小さく読んできました。
これまで本はまったく読んでなかったというわけではないけれど、読んできたものはビジネス書や自己啓発書のようなものが多くて、『そういうんじゃないんだよな』と思うところがあったのです。
もうちょっと感性が必要なものだったり、論理的な思考が必要なものだったり、いわゆる本好きと呼ばれるような人たちが『面白い』と唸っている本を読めるようになりたかったのです。
この『本を読みたい衝動』がどこからやってきたのかと考えてみると、日々、習慣としてPodcastを聴いているというのがあるのだと思います。
数年前からPodcastなどの音声コンテンツを常習しはじめて、そして、そのパーソナリティの方々がよく本を読んでいる。そんなこともあって、本っていいなと思ったのです。
本ってきっと面白い。いろんな本を読みたいし、本を読んで面白いと思いたい。そんな思いがふつふつと湧いてきたのですね。
しかし、本を読むことにはトレーニングが必要です。『読みたい』と思ったからといって、そう簡単に読めるものでもない。
とくに読むために文脈が必要な専門的な内容の本だったり、情緒的な内容を含む、感性に問いかけてくるような内容の本を読むためには、ある程度のリテラシーが必要なのだと感じます。
例えば、ちょっと極端な例を取り出すと、短歌の歌集のようなものを読むとした場合、短歌というものの背景を知らなければ、その楽しみ方がわからない...ということがあると思うのです。
もちろん、なにも知らない状態で短歌に触れることでも充分楽しめる人はいるかと思うけれど。
わたしは相撲観戦を嗜みますが、相撲を何も知らない人にとっては、『なんとなくルールは知っているけれど、楽しいかどうかはよく分からないもの』という認識なのだと思います。
楽しむのは視点が必要なのですね。
それに加えて、本を読むという行為には技術や体力が必要です。本を読むという行為は思った以上にフィジカル的な体験で、『目を動かして文字を読む』という動作には慣れが必要です。
さらにそれを理解し、解釈し、自分なりの問いを持ち、論旨を読み取るといった思考の技術も必要です。
長時間本を読むためには、身体が健康でないとならないし、集中力や精神力も必要になります。意外とやることが多いのです。本を読むことは。
一年前に読むことを始めた頃は、ただ目を滑らせているだけで、読めているとはほとほと言えませんでした。
読んでいる先から読んでいくことを忘れていく...というより、そもそも読んでいる内容が頭に入ってこない...というようなことが多かったと記憶しています。
今はどうなったかというと、読みながら話の道筋を覚えていられるようになりました。
山登りで例えると、登ってきた道のりを記憶しながら頂上を目指しているというようなイメージでしょうか。
もちろん、難解な本に出会えば、それなりにしか把握できないのですが、それでも流れを掴む力のようなものは身についてきたのかなと思います。
ジャンルによっては、専門的な知識の積み重ねが必要なものがあります。
むしろそういうものがほとんどだとも言えるのですが、見慣れていない専門用語を頭に入れながら読み進めることにはとてもカロリーが必要です。
例えば今ちょうど、橋爪大三郎先生の『はじめての構造主義(講談社現代新書)』を読んでいるのですが、『構造主義という現代に重要な影響を与えた哲学体系がある』ということや、『レビィ=ストロースは文化人類学的なアプローチで、これまでの西洋中心的な思想を批判した』などということを前提として知っているかどうかで、かなり読みやすさが変わってきます。
本書の中では、レビィ=ストロースが影響を受けた内容として、言語学者のソシュールの話が出てきます。
これも『言語学というものがどういうものなのか』ということ、『ソシュールは研究をラングの共時態に絞った』ということなどの、朧げながらも基礎的で断片的なものでも知ってのと知らないのでは、読むハードルがまったく異なるのですね。
そしてこうやって、知識の積み重ねの中で、この本を読むことでまた新しい知識を得ることができ(この本の場合は、構造主義について)、それを踏まえた新しい知への足掛かりとなるのです。
こうやって、数珠繋ぎで読書は面白くなっていく。だから本を読めるようになるには時間がかかるのですね。
この一年間、あんまり読めるようになる手ごたえはありませんでした。手ごたえが生まれてきたのは、ほんのここ数日の話。
とても不思議なのですが、急に変化がやってきました。
これはきっと、スポーツや自転車を乗れるようになることと同じで、身体の記憶のようなものの蓄積が必要なのでしょうね。
本を読めるようになって困ったことといえば、読みたい本がたくさんありすぎて、どれから読めばいいか悩んでしまうこと。
いやはや、幸せな悩みです。