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踊っているときは自然でいられる


夜になると、いそいそと外に出て踊っている。わが家の玄関先はとても暗い。隣のお宅も斜向かいのお宅も、もうすでに灯りはともっていない。明日は満月なので、雲に煙って薄ぼんやりした月だけが、不気味に光っている。だんだんと目が慣れてくる。コンクリートで出来たずっしりとした柄の凸凹や比較的新しい目のアスファルトのザラザラも、だんだんと目に映るようになってくる。

静かに身体を動かす。決して大げさにはならないように、控えめに身体を動かす。踊るというよりも、たゆたっていると言ったほうがしっくり来るかもしれない。風の流れを感じながら、たゆたう自身の揺れを感じながら、意識は内側へと向かっていく。身体の奥底の芯の部分に自分の操縦桿があるような感覚を意識する。ついつい指先や手の動作に意識が散ってしまう。それはそれで悪くないけれど、指や手は身体の延長線上にある。ふと、身体の延長線上に手指があるのであれば、身体はどこの延長線上にあるのだろうと考えてみる。内側にある操縦桿を動かしているのは誰なのだろう。何なのだろう。

お釈迦様は『無我』と言った。『無我』とは私が私ではないということ。私の意識はどこから来て、どこに行くのか。それはどれだけ考えても明らかにはならず、ただ湧いてくる『何か』であるということ。ラーメンとカレーを並べて、どちらを食べたいかと聞かれたときに『私は今、カレーが食べたい』と思ったのは、なぜなのか。なぜラーメンではなく、カレーだったのか。それは選択しようがないのである。

私の身体は何かに動かされている。それは『何か』なのかもしれないし、何でもないのかもしれない。『何か』があるのではなくて、何もないのかもしれない。


踊っているときは自然と無我になれているような気がする。気がするのか、気になれているのかは分からないけれど、その瞬間はとても楽になれる。何も考えなくてもいい、ただただたゆたっていればいい。自然に身を任せ、どこかの誰かに操縦桿を預け、流れる景色をゆったりと眺めていられる。この感覚はとても豊かなのだと思う。日常の中では、なかなかとこの感覚を保つことはできないけれど、本来はいつだってどこだって、私たちはこうあるものなのだろう。

どこかの禅のお坊さんがこんなことを言っていたのを聞いた。仏教は自我を消し去るためにあるものではないのです。私たちはいつだって無我なのですから。無我になる、のではなく、ずっと無我なんです。だって、私たちの実態はないのだから。




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