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なぜ私たちは他人の評価を気にしてしまうのか?


前回の記事からの発展的なお話。


素直な自己表現、純度の高い自己表現、または自分自身に負荷の少ない自己表現などについて、もう少し考えを巡らせてみる。



▪︎自己表現の目的とは?

表現行為の目的を考えることはとても難しい。良し悪しの判断も難しい。なので、素直な表現や純度の高い表現を『なんのためにやるのか?』という問いに答えることは非常に難しい。

ここに関しては一生をかけて追求をしていくような気がするのだけど、苦し紛れに強いていうのであれば『自分に優しい自己表現』をするためなのかなと思う。


エキサイティングな自己表現は健全か?

過激な表現、自己を蝕むような表現をする人も沢山いる。そして、それらはヒリヒリとするような存在の危うさと自傷行為のような狂ったようなエキサイティングさが相まって、人を魅了することがある。それはアートとしてとても魅力的であり、光り輝くものがある。

しかし、そのような自己表現はいつまでも続かない。刹那的な打ち上げ花火のように本人の命を擦り減らし、無慈悲な観客者によって消費されてしまう。かつてのロックスターが自己と社会の境界線の曖昧さに苦しみ、若くして自分の命を絶ってしまうように、本人を大いに傷つける危険性を孕んでいる。

自傷行為のようなエキサイティングな自己表現を否定するわけではない。それは本人の人生の中で必要な行為なのかもしれないし、本人のネガティブな意識が人の心を救うことだってある。私だってそういう音楽が好きで、マリリンマンソンやナインインチネイルズなどを聴いていた青春と呼ばれるような時期もある。


サスティナブルな自己表現を求めて

問題はこのような表現手法はいっときの発散であって、サスティナブルではないということだ。自己表現を生きることと結びつけるのであれば、どこかで発散行為を終了させ、継続可能な『自分に優しい自己表現』に移行する必要があるのではないだろうか。そしてきっと、自己を傷つけるような表現をもって他者を魅了することができるのは一部の天才的な感性を持った人間だけで、多数の人間の表現に応用し難いということもあると思う。

ゆえに無理に自身の感情を荒ぶらせ、自己を傷つけ、危うい橋を渡るのではなく、長い人生の中で行ったり来たりをしながらも継続をしながら、自分なりの表現のあり方を積み上げていく方が健康的であり、建設的なのではないかと思うのである。



▪︎なぜ表現を続けることができないのか?

ひとまず苦し紛れの目的を設定したところで、それではその『優しい自己表現』に向かって歩んでいくための道のりを考えてみたいと思う。

その方法論を語る前に、今度は『なぜ表現を続けることができないのか?』ということを考えてみる。そしてそれは私たちが生きていく中で『他者からの評価を気にしてしまっているから』という結論に行き着きたいと思う。


他者からの評価を気にしてしまう

私たちが表現を続けられない理由は他者からの評価を気にし過ぎているからだと考える。もしくは、他者からの評価を恐れているからと言い換えてもいい。本来は続けることは誰にだってできるし、好きなことだったらなおさら。誰に何を言われようと、続けていけばいい。ギターを弾くのが好きなら死ぬまで弾いていればいいし、絵を描くことが好きならば死ぬまで描いていればいい。

でもそれが出来なくなってしまうのは『自分には才能がないから』とか『あの人と比べて、上手くならないから』とか『もうこんな年齢だから』などという理由を並べて、続けることが苦しくなり辞めてしまうからだ。はたまたその表現行為に社会的な価値を見出せないことが理由で『お金にならないし』とか『仕事に出来ないから』という理由で辞めてしまうこともある。


好きなことを辞める理由にはならない

しかし、そのような理由は『好きだから続ける』ということを辞める理由には一切ならないのである。食べることが好きな人が『お金にならないから食べるのを辞める』とはならないように、表現行為だってそのくらい生きることと直結しているのだと私は考えている。



▪︎他者評価、2つの執着

評価が気になるという現象には二種類あると考える。ひとつは『否定的な評価への嫌悪感』、ふたつめは『好意的な評価を必要以上に求めてしまうこと』である。ひとつめはネガティブな理由、ふたつめはポジティブを求めるがあまりに陥る罠である。


①否定的な評価への嫌悪感

これは自身が取った表現行為に対しての悪い評価を恐れるあまりに、不安になったり怖くなったり、はたまた怒りに苛まれたりすることで、続けることが苦しくなったり億劫になったりすることである。自分が良いと思って追い求めていることを否定されることで、心が傷ついてしまう経験がある人は多いのではないかと思う。

私自身の体験としても、評価を恐れるために動けなくなってしまうことが多々ある。その度に『自分はクソだな』と自己卑下を繰り返してしまうこともあれば、『は?ふざけんな?』と心の中で罵詈雑言を吐き捨てていることもある。どちらにしても他者からの評価に比重を置きすぎて、その評価によって自身傷つけている、もしくは傷つくことを恐れて、逆に相手を罵るという行為をとってしまっているということである。


②好意的な評価を必要以上に求めてしまう

こちらも構造としては前者と同じことである。ネガティブな評価を恐れるために、ポジティブな評価を求めることに躍起になってしまっている状態である。これは言い換えると、表現することの目的意識が『相手から評価されること』へとすり替わっているとも言える。良い悪いの判断基準を相手に求め、相手からの賞賛を得ることが目的となっている。

一見これは、悪いことには見えないし、結果によっては相手に評価をされることで成功への道に向かっているように見えることもある。しかし、どんなときも他者からの評価を基準としながら行動することは楽なことではないし、その評価基準と自分の特性とがマッチしなければ無理して評価基準へと合わせていかなければならなくなる。そうなってしまっては、そもそも『自己表現ってなんだっけ?』という話になってしまうし、本人への負荷も多大なものであろう。



▪︎なぜ評価を他人に委ねてしまうのか?

それでは私たちはなぜ自身の表現価値やその評価を他人に委ねてしまうのだろうか。その理由は自身の存在価値に『なにかしらの後ろめたさ』を感じているからなのではないかと私は考える。ここでは『後ろめたさ』という言葉を使ったけれど、このニュアンスを的確に伝えるのはとても難しいような気がする。

それは『自分自身が存在していることの後ろめたさ』と言い換えてもいいかもしれない。私たちはとある集団の中にいるときに、自分自身が役に立っていないように感じると『後ろめたさ』を感じることがある。それは『恥ずかしさ』だったり、『居た堪れなさ』だったり、『不甲斐なさ』だったり、その時々によって、または感じる主体者によって感覚は異なるだろう。


『後ろめたさ』の実態はあるのか?

いずれにしても『自分がここに居てはいけないような感覚』を覚えることがある。そういった不快な感覚を総称して『後ろめたさ』という言葉で表記したということだ。無価値観ということもあるかもしれない。これらの感覚はどこから来るものだろか。そして、これらは本当に実態があるものだろうか。

これらの感覚が生まれてしまう理由は仏教でいうところの業や縁起のようなものかもしれないし、スピリチュアル的には前世から受け継いだもの、もしくは宇宙の全体意志が拾ったものかもしれない。はたまた心理学的には一種のトラウマ的なものかもしれないし、成長過程での親などの教育者からの影響なのかもしれない。

理由はどんなものであろうと、なにかしらの理由で私たちは生まれながらであろうが、成長過程で獲得したものであろうが、自身の存在への『後ろめたさ』を感じるようになってしまったのである。


評価を求めるのは『後ろめたさ』を埋めるため

『後ろめたさ』を感じている状態は自己というものが欠落している感覚がある。いまの自分のままではダメなような気がするし、変わらなければならないような気がしてしまう。そしてその欠落感を埋めるために他者からの評価や承認を求めてしまうのだ。

今のままの自分に自信が持てないと、それを補ってくれる証拠が欲しくなる。『あの人に評価されたら安心だろう』という気持ちが湧いてくる。『モンドセレクション金賞』だとか『宮内庁御用達』とか、そういうお墨付きが欲しくなる。


その行動は存在価値を埋めるためのものか?

現代的にいうと『総フォロワー数〇〇万人』とか『月収〇〇万円』とか、そういう肩書きのようなものを身につけようとすることもある。そういったものを純粋に楽しんで追いかけている人もいるので、一概に否定してはならないけれど、自分の存在価値を埋めるために追い求めているのか、そうでないのかは丁寧に見ていかなければならないだろう。


私たちが生き残るための苦肉の策

ここまでの話をまとめると、話の目的を『自分に優しい自己表現』に設定した。これは無理な表現は自己を傷つける可能性があり、持続可能性が少ないということと、一部の天才的な表現者にしか適用されない可能性があるからだ。自分なりの表現を積み重ねていくことが大切であり、好きなことは好きなのだから死ぬまで一生続ければいい。

しかし、好きなことを続けることは誰でも出来るはずなのに、私たちはなぜか途中で諦めてしまうことがある。それは他者からの評価を気にするがゆえにそのプレッシャーや罪悪感などを理由に表現をやめてしまうことだ。続けることは自由なのに、居た堪れない気持ちに耐えきれずに辞めてしまう。

『他者から評価を得たい』という感覚は『自己存在への後ろめたさ』から来るものである。『私がここに居てはいけない感覚』をなんとか埋めるために、他者からの承認を求め、安心しようとする。それは生き残るための必死の策なのかもしれない。



▪︎『自己存在への後ろめたさ』を埋めるためには?

それではここからが最も重要な部分。どうすれば『自己存在への後ろめたさ』を埋めることができるのか?ということだが、これに関しては答えを明確に出すのはとても難しい。

ただ、現在進行形でトライアンドエラーを繰り返している中で見えてきているものは『生きている実感を深く感じること』が有用なのではないかと感じている。それも含めて、どうすれば私たちが他者評価の呪縛から逃れられるのかという、対処法について考えてみる。


対処方①他者評価を求めないこと

これは本当に元も子もないことを言っているようだけれど、無意識で他者評価を求めている状態から意識的になるということはやはり大事なことだろう。『いまの私が行っている行為は他者からの評価を求めていることか否か?』という問いかけを繰り返すことは、常日頃心がけていたい。


対処法②手数を減らす

無意識になんでもかんでも行動をしていると、そのほとんどが他者評価を意識している可能性がある。というのも本来、1人の人間が抱えられるタスクの量やプロジェクトの量はそれほど多くないはずで、もし忙しさや慌ただしさを感じているのであれば、必要以上のことをやっている可能性を考えた方がいい。

ではなぜ、必要以上のことをやってしまうのかというと、他者からの評価を得たいがためにやっている可能性がある。社会のためやプロジェクトのためだと言っておきながら、『自己存在への後ろめたさ』を埋めるための行為だという可能性を常に考えておかなければならない。


対処法③自分へのハードルを極端に下げる

自己存在価値が損なっていると、ついつい自分に対するハードルを上げてしまいがちである。たいした経験のない状態なのに、相応以上の成果を自分に求めてしまったり、なにかしらの失敗をしたときに必要以上に自分を裁いてしまう。

これらは自分の存在に価値を見出せないあまりに、自身の行動行為によってそれを埋めようとしているからである。『もっともっとまだ足りない』とまるで喉の渇きを潤すために海水を飲んでしまっているように、制限のない渇きのループに迷い込んでしまっているということだ。


対処法④今あるものに意識を向ける

私たちは自分が思っているよりも多くのものを持っている。まだまだ手に入っていないものが沢山あると感じることもあるかもしれない。それでも、手に入っているものも同じくらい沢山あるのだと認識することはとても重要なことだ。また、手に入っていないものを数えることは無限に出来る。どれだけ手に入れたとしても、手に入らないものは必ずある。

100万円のものが欲しいと渇望し、もし100万円が手に入ったとしても満足できるかというと、次は1000万円のものが欲しくなる。1000万円を手に入れれば次は1億円が欲しくなる。どこまで行っても、物質的なものであれ精神的なものであれ他者から与えられたものでは満足することは出来ない。満足するための唯一の手段は『今あるもの』を認識するしかないのである。



対処法⑤今生きているということを実感する

本記事で一番伝えたいことはここである。今この瞬間、私たちは生きている。この生きているという状態をどれだけ尊み、深いレベルで実感できるかどうかが自己存在を取り戻すための鍵となってくる。

この生きている感覚から目を逸らし、その他の行為で価値の埋め合わせをしようとすると途端に自己の存在が揺らいでしまう。表現するという行為の中で考えてみると、絵を描くにしても歌を歌うにしても、その行為自体に意識の重心を向ける。その行為の結果や、それに対する評価は一旦は無視をして、その行為を行えていること自体に意識を向けてみる。

生きていることに感謝をしよう...というように無理やりと心を動かそうとしなくてもいい。ただただ私という存在自体がここに存在していることに意識を向ける。そして、そこで何かを感じるのであれば無理に言語化することもなく、ただその感覚を得ていけばいい。


▪︎自己表現のゴールの在処

いまの段階で気づいている自身の感覚を出来るだけ言葉にしてまとめてみた。実際は様々な要因が複雑に絡み合っているので、そんなに簡単にはいかないと思うけれど、それでも少しずつ意識をしていくことで変化は見られるはずだ。

実践していくことは簡単なことではないかもしれないけれど、構造自体はとてもシンプルだ。私たちが表現を続けられなくなってしまうのは『他者からの承認』を求めてしまっているからである。それは『自分の存在に後ろめたさを感じている』からであり、それを埋めるためには『生きている実感』が必要だということだ。

そこの土台さえ安定してしまえば、純粋な表現ができるようになる。他者からの承認を求めることなく、批判をものともせず、自分の好きなことを好きなように楽しみながら探求することができる。

自己表現のゴールをあえて設定するのであれば、どこか目的地のような場所にたどり着くことなのではなく、自分という存在に確信を持ちながら『歩き続けられる状態』になることなのではないだろうか。

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