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表現とは対象との戯れを、透明なガラスの中で世界に『晒していく行為』なのかもしれない


先ほどの細胞やら自己やらの話の続き。





この話を発展させて、自分自身と音楽について考えてみました。




自分は歌うことが好きだけど、そことの関係性ってあまりみてこなかった。


自分で歌の練習をしたりギターの練習をするのは毎日出来るけど、


それを人に披露することの意味があまり見出せずに、モヤモヤとすることがありました。




どこに落とし所をつくって、自分は音楽をやっていけばいいのだろうと...。





しばらく考えてみて感じたのは、


自分にとって音楽は探究する対象であって、仲良くなりたいと願う対象であること。



もっともっと一緒に遊びたいという、友達のような存在なのかなと思いました。





きっとその関係性を一生かけて深めていくことが、自分にとっての音楽なんだろうなぁと。




いまWSでコンテンポラリーダンスを教わっている、鈴木ユキオさんが、


Twitterでこんなことを書いていました。




一つとして同じものがない

自分の身体を探求するそのプロセスを

ダンスにしてしまえば、

自分だけの時間を紡ぐことができる


この意味がわかるようでわからなくて、わかりたいなと思っていたのですが、


それは多少との戯れを表現として晒していくことなのかもしれませんね。





私と音楽との戯れを透明なガラスの中で、世界に晒していくこと。



これが表現なのであれば、それは音楽と自分との関係性のアートのようなものなので、


小難しい技術の評価や他者と比べて落ち込むことなんてナンセンスに思えてくる。




上手く自分自身が腑に落とせなくて、前に進めなかったものが少し動いたような気がしました。






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