生涯、本棚フェチ宣言

東京にきて思ったことのひとつは、池袋、新宿、東京駅あたりはヒマつぶしにもってこいだということだ。

その正体は、本屋さん。もとい、本棚だ。

恋や婚活と同じように、素敵な本と出会うコツは出会える場所をいくつか持っておくことだろう。新聞の書評に、ネットの話題。気になる作家さんの新作や立ち読みできないコンビニの雑誌コーナーにと、出会いの場はたくさんある。

わたしはリアルな場としての本棚が好きだ。実物を触って紙の質感を確かめる作業。並ぶ背表紙。マーケティングの塊の帯。大型書店や図書館は頭の中をカーニバルにしてくれる。

そんな中、なかなかお目にかかれないのがいち個人の本棚だ。持ち主の好みや考えにフィットした本しか置かない、こだわりのセレクトショップ。めったに見れない幻のポケモンくらい、興味がある。







興味を抱いたきっかけは、父の遺品整理の時だ。

画像1







10年前、いきなり父が死んだ。

連絡してきた姉は「お父さんが突然死んだ」としか言わないものだから、「父が自殺するなんて……」とひとり、勘違いの悲しみを膨らませていた。

帰省して対面したとき、最初に確認したのは首もとだった。キズも痕もないし、ただ横になっている父がいるだけだった。立ち入り禁止の部屋もなければ遺書の話題もでてこない。

小声で弟に状況を聞いたら「自殺するわけないだろ!」と怒られた。でも悪いのは長女だから反省はしなかった。


慌ただしい通過儀礼を終えたあと、父との思い出を語り合う「遺品整理」が開催された。けれどもわたしは参加せず、ひたすら姉のブッダを読んでいた。





手伝わないわたしを「父親よりもマンガか」と母と姉が言っているのを聞きながら、1日かけて全巻読んだ。内容はまったく覚えていない。マンガの神様のチカラを持ってしても、喪失感を埋めることはできなかったのだ。





わたしが遺品整理をしたのは、父が亡くなって3回目の冬。実家のそうじをしていたときだ。




ホコリまみれの遺影と表彰状の額縁をマイクロクロスで拭きとり、ひと段落してリビングの片隅にある本棚を見た。


昭和の置きみやげがそこにあった。
キャットタワーにできない中途半端な高さ。重厚感のある焦げ茶色の四角い箱。意味もなく開け閉めしていた昔なつかしいガラスの戸棚。




「めちゃくちゃクモの巣ついてるじゃん…」




ゴミ屋敷をそうじしていたわたしは次のターゲットを見つけた。さんぴん茶を飲み、汚れたゴム手袋を脱ぎ捨て、棚の中身を取り出そうと思い戸を開ける。


父の本が無造作に詰め込まれていた。



仕事関係の本、ミステリー小説の文庫本、黄色のマーカーだらけの本。金持ち父さんになれなかった名残と、奥に隠れていた官能小説。




休日にいつも誰とも話さずに、リビングで読書をしていた父。友だちができずにいたわたしにパソコンの使い方やチャットを教えてくれた父。母の家出に付き合って「大嫌い」と言った娘に、毎週日曜日のお昼にPHSに留守電を残していた父。


いるのかいないのかわからない空気のような存在だった父が、戸棚の中に隠れていた。


ホコリまみれの宮部みゆきや東野圭吾を読むものの、あのときと同じで内容が頭に入らない。




3年遅れの、遺品整理。
わたしはずっと、泣いていた。

画像3



「嫁には行かないでね」と娘に未練タラタラな父を置いて、上京したのがちょうど10年前。たまに電話をして(99%向こうからの着信)安心させていたつもりでいた。

誕生日プレゼントも、父の日も、これからずっと祝うであろう機会を逃したわたしは、思い出を記憶しながら年を重ねることしかできなくなってしまった。

仏壇は故人を想うために存在するが、わたしにとっては本棚がまさにそれだ。


本棚には人格がある。
思考がつまっている。

それはきっと、書店でも個人でも同じだ。

だから、本棚に興味がある。


これからも大事な数だけ、自分の本棚にたくさんの本を詰め込んでゆくと思う。いつか誰かとサヨナラするとき、わたしにとっての正しいサヨナラは間違いなくコイツになるハズだから。

画像2

コロナが明けたら、二人目の息子にも線香をあげてもらわないとな、と妻になった娘は思った。泡盛を飲まされなかったのだ。このくらいはしてもらわなきゃ父も納得しないだろう。









いただいたサポートはおなかにやさしいごはんをつくるためにつかわせてもらいます。