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言葉にしてみて、わかったこと

「頭の中で考えていることを、ノートなどに書き出す」というのは、知的生産に関わる本では繰り返し繰り返し、書かれていることで、でも、そうは言われても、私にとってはなかなか取り掛かることがむずかしいことでした。

書き出してみると、なんだかショボかったり、もしくは、うまく言葉にならなかったり、うまく、つながらなかったりして、「いったいこれはなんだろう……」と、けっこう凹みます。

自分が言葉にすると、ぜんぜん深みがなくて、水深5センチくらいしかなくて、「水たまりじゃん……」と、書いてから三日ぐらい経つと、凹みます。

(書いた直後は、「書けた!!!」とすごく喜んでいるので、自分の文章のおかしいところがわからないのだなあ……と気が付きました)

前回書いたエントリ「どうやって、文章を書くことを楽しむか」

で、かっこよく「読者は一人でいいのです」と言い切ってしまっているのですが、今読み返すと、「ほんとに一人でいいとは思ってないんだなあ……」と気がつきました。

できればもうちょっと、10人くらいの人に、面白がって読んでもらえたらいいなあ、と思っているな、と気がつきました。

(でも、100人、になると、よくわからなくなります。あんまりうまく想像できない感じです)

自分の内側を覗き込んでみると、「1人いれば十分だと思う。あんまり欲張ると、文章が書けなくなっちゃう」と思っている自分と、「それなりに、10人くらいの人に読んでもらえたら嬉しいなあ」と思っている自分が存在することに気がつきました。

一人の人間の中に、違う意見を持っている「自分」が複数人、いるのです。

PCに向かって文章を書いているときに、一番全面に出てくる「自分」と、別の意見を持った「自分」が複数人、後ろのほうに隠れているんだなあ、と思いました。

さらに、物の考え方、感じ方は、その日その日によって違うし、周りから影響を受けると変わってゆくし、実はかなり流動的なんだなあ、と思いました。

①もともと、複数の、「違う意見を持った自分」が、自分の中にいる。

②そして、日によって、それぞれ、意見が変わったりする。

①と②をあわせて考えてみると、「長い文章を書くと、まとまらない」のは、そこが原因なのかなあ、と思いました。

それと、文章を書いて外に出してみると、一応、「意見が固定」できるし、自分が文字にしたものを読んでみて、「うーん。そりゃ違うんじゃね?」とツッコミを入れることもできるんだなあ、と気が付きました。

文字にする前、頭の中にあるものは、煙のような、雲のような、「形がよくわからないもの」として存在しているのですが、文字にすると、ちゃんと「形がわかるようになる」んだな、と思いました。

でも……かっこよく言い切ると、あとがすごく恥ずかしいですね……。

すみません……。


photo credit: Natalia Medd

. via photopin (license)


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