見出し画像

言語偏重の必要性一他者との情報伝達、自己解析の記録についての試論

とある本に、「言語偏重」について触れられている一節があり、「なぜ、言語偏重になることが大事なのかを自分なりに考えてみました。

ちょっと、内容が散らかっていると思うのですが、いったん試論として書いてみたいと思います。

■他者との情報伝達

まず、至って日常的な言語の用途として、「他者との情報伝達」に使われることが多いのでは、と思います。

メールで、電話で、直接対面で、仕事や生活を営む上で必要な情報を受け取ったり、こちらから伝えるために言語を使います。

社会に出たときに、自営業を営む家庭で育った若者のほうが、職場への馴染みが良く、仕事の効率が高いのも、このあたりの事が関係していそうです。

「職場で交わされる独特の用語」があるのです。

「職場で交わされる独特の用語」は「状況」とセットになっています。「言語化されていない付帯情報」をある程度正確に推測されることが求められるのです。

あまり良い言葉ではないのですが、「一を聞いて十を知る」ということが求められます。

「社会人となる」ことはすなわち、「言語と、言語化されていない付帯情報をきちんとセットで取り扱うことができる」ことを求められる、ということになります。

このような状況で「言語」は、「言語化されていない付帯情報」も含めて酷使されているのではないでしょうか。

自己解析の記録

ですが、「言語と、言語化されていない付帯情報をきちんとセットで取り扱うことができる」ことを求められることは、すでに「過去の遺物」だと思います。

特定のある状況で、「必ずこういう行動を取らなくてはいけない」という不文律が決められており、親から子へ、先輩から後輩へ、上司から部下へ、と、丁寧に伝達することができていた時代は、それで良かったのかもしれません。

ですが、もう「生身の人と人」が接触して、対面で話し合うことができる時間を極限まで削ってしまった状況に、現在は陥ってしまいました。

父親と母親が働かなくては、子供を養うことが難しい時代になってしまいました。母親が働いている間、子供は保育園や幼稚園に預けられます。仕事があっても家事はしなくてはなりませんから、必然的に自宅に戻ったあとは、父親も母親も家事仕事に従事する時間が増え、子供と落ち着いて話す時間がなかなか取りづらくなります。

学校や保育園、幼稚園でも、状況は似ています。
ごく限られた人数の先生や保育士で、多くの子供達の面倒を見ます。
ここでも、「生身の人間同士のコミュニケーション量」はごく限られたものになってしまいます。もちろん、学生同士、園児同士ではコミュニケーションを取ることがありますが、それでも「課題に沿ったコミュニケーション」を一方的に求められる場面が多くなり、「子供から大人に自由に質問をし、答えをもらう機会」が少なくなってしまいます。

職場でも、状況は似ています。
次から次へと押し寄せる仕事に、誰もが必死で対応しているような状態です。
雑談をする時間があったとしても、「場の空気を読んで、無難に話す」ことに注力することが求められ、「自由に話す」時間はなかなか取れません。

誰もが、どこかで「このしきたりは、この仕事は、本当にする必要があるのだろうか」と心のどこかで思っていたりするのではないでしょうか。

今までの「しきたり」や、「仕事を進める手順」では、もうとっくに間に合わなくなっているのではないでしょうか。

不要な「しきたり」を一時的に停止したり、「仕事を進める手順」を変更したりするためには、まず「現状を分析すること」が必要ではないか、と思います。

「現状の分析をすること」に、「言語」を使うことが求められるのでは、と思います。

現在の状況は、非常に苦しい。なにがどう苦しいのか。どこをどう変えたいのか。それを、「言語化」することで、初めて、「自分自身の苦しみ」がどんな形をしているのかが、わかるのではないでしょうか。

この過程は、かなり苦しいと思います。
なぜなら、苦しんでいる状況を思い出しながら「言語化」する作業が必要となるからです。

ですが、一度きちんと「言語化」することができてしまえば、苦しみが減る場合が多いと思われます。

「言語化」して、脳内から、自分の体の中から「外へと出す」ことで、自分の中に「空いた空間」を作ることができるからです。

「言語化」することで、「自分の中にあったもの」の大きさがずいぶん小さくなります。水蒸気のように大きかった体積が、水となって、ショットグラス一杯分ほどの容積まで縮んでしまうような感じです。

GTDの根幹も、実はここに関係しているのでは、と思います。

自分の中に抱え込んでしまっているものをいったん「外へと出す」ことで、「自分の内部」一脳内とも言えるし、心の内側とも言える場所一に、空きスペースを作り出すことができ、楽になることができるのです。

■空きスペースができたあとに

自分の内部に空きスペースができたら。

まずは、いったん休憩をしましょう。

できれば一週間ぐらい、書き出した文章から離れて、仕事時間以外は休養を取ります。

「言語化」したあとしばらく時間を置くことで、自分が書いた内容から心理的に距離を置くことができます。

「言語化」したばかりの時、自分の中にはいろいろな感情が渦巻いていると思います。思い通りにゆかない悔しさ。自分の能力が足りないみじめさ。家族や、学校の友人や、職場の同僚・上司にわかってもらえなかった悲しさ。

もうもうと、自分の中に竜巻のように、感情が吹き荒れている状態から、しばらく時間を置いたほうが冷静になることができます。

十分冷静になってから、自分が「言語化」した文章と対面するのです。

すると、不思議なくらい、自分を苦しめていた問題が、小さく感じられます。

言語で固定化すると、ふわふわと不定形で、霧のようにたちこめていた問題は小さくなるのです。

一週間経ってみると、思ったよりも、良い対処法を思いつくことができ、自分で自分を助けることができるのです。

■おわりに

ちょっと、いろいろな内容が混ざっている文章となってしまいました。

この文章をちゃんと素因数分解して、それぞれの内容についてできるだけ書いてゆけたらと思います。

ここまで読んで下さって、ありがとうございました。

photo credit: joushikijin URL:http://www.flickr.com/photos/47506186@N02/23540607672
Title:Menton, Provence-Alpes-Côte d'Azur, France

via photopin
http://photopin.com





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?