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私の四半世紀

皆さんは余命宣告を受けたらどうしますか?もしあと一年しか生きられないと言われたら、その瞬間から何を考えますか?明日から何をしますか?どう生きますか?

過去に私は余命宣告を受けたことがあります。25のときでした。

「あと一年悔いのないように生きてください」

あの時、医師の口から発せられた1音で私の頭は真っ白になった。私はそれを悟られないように余裕ぶって笑ったけど、引きつった下手な笑顔の裏は不安でいっぱいでした。

だからあの日家に帰って一人になってから泣いた。

涙が枯れるくらい泣いて「あぁ、私の人生あんまり楽しくなかったなあ」とか「あれやっときゃよかったなあ」とか、頭によぎるのは後悔で、それが悔しくてまた泣いた。

あれから2年が経った。今でもまだ生きている。

私の人生を振り返ってみると、うまくいかない事ばかりだった。

「人生とは長い選択の連続である」

どこかで聞いたこのセリフが正しいとするならば、私の人生は長きにわたって選択を誤ってきたんだと思う。

私のこれまでについて聞いてほしい。


序章

弱みを見せたら付け込まれる。弱きものは淘汰される。今までずっとそう思っていた。

『誰も助けてはくれない。自分の身は自分で守れ。』

私は子供の頃からずっと人前で弱さを見せることに怯えていた。

付け込まれるのが嫌だった。人を信用できなかった。

だから強い自分を演じてきた。理想の自分という虚像を作り、見栄を張って、生きてきた。

そんな自分を脱いだのはあの告白が初めてだった。

そしてあの日から私のすべてが変わった。

多くの人に名前を知られ、それと同時に一部の人から嫌がらせを受けるようになった。

TwitterやLINEに届くメッセージ。誹謗中傷を読んでは落ち込む毎日。しばらくして私は表舞台から姿を消した。

時間と共に誹謗中傷のメッセージは落ち着き、嫌がらせも徐々に減っていった。

あれから2年の歳月が流れた。

話すべきことができた。

でもその話をするにはみんなが私のことを知らなすぎる。

まずは私の幼少期から話そう。

小学生

幼少期の私は本を読むことが好きだった。

何故かというと、本は私を一人にしてくれるから。

生まれつき体が弱かった私は友達とのかけっこも大縄跳びも想像の中でしかできなかった。

だから休み時間はいつも図書室で本を読んでいた。日の当たらない生活をしていたから肌が白く、それにいつも一人だったから「幽霊」とか「おばけ」なんてあだ名をつけられたりした。

読書は一人でいることの理由付けでもあった。思い出の中の私はいつも一人。でもプライドが高い私はそんな状況にさえ理由付けをし抵抗したかった。

『友達がいないのではなくて読書が好きなだけ。』そんな小さな抵抗。

まぁでも実際友達はいなかった。

私の家はシングルマザーだった。父のことは知らない。母はたった一人で私を育ててくれた。

母は夜勤の仕事をしていたけど、その給与のほとんどは私の病院代に消えていった。だから食べ物すら満足にありつけなくて、生活保護を取って暮らしていた。

家はかなり貧しかった。床は歩くと沈むし、ジャンプするもっと沈む。ひび割れた木製の扉は体当たりすれば壊れそうで、外壁に落書きのある外観はもはや廃墟を彷彿とさせる。

当然そんな家にお風呂なんてない。

体を洗えるのは3日に一度、母と行く銭湯のみ。

小学生からすればいじめる要素盛りだくさんだった。

貧乏、汚い、仲間外れ(運動ができない)、毎日同じ服装。

案の定学校ではいじめられていた。

小学校4年

新学期が始まったある日、母に下敷きを買ってもらった。色も柄もない透明な下敷き。私はそれがすごく嬉しくて右下にきらきら光るプーさんのシールを貼った。

下敷きはすぐに宝物になった。買ってもらったその日は一日中眺めていても飽きなかった。学校で使うのが楽しみだった。

次の日下敷きがなくなった。

1時間目の国語と、2時間目の算数の時間には確かにあった。なのに、3時間目の音楽から戻ってきて4時間目の道徳が始まるころには忽然とどこかへ消えてしまっていた。

みんなからすればなんてことないただの下敷きだけど、私からすれば初めて母に買ってもらった下敷き。

もちろん授業なんてそっちのけで下敷きの事しか頭になく、授業が終わってすぐ探しに行った。

ロッカー、教室、中庭、校庭、どこを探しても見当たらない。

最終的に下敷きは学校のゴミ捨て場に捨てられていた。

ボロボロになった一枚の透明な板。昨日まではあんなに綺麗だったのに、今では真ん中からぱっくりと折り曲げられている。

右下に貼られたプーさんの顔もどことなく悲しそうに見えた。

悔しかった。当然そのままにもしていられるわけもなく、折曲がった下敷きを持って帰った。

母には転んで折れたと言い訳した。母はそんな私を怒るどころか慰め「また買わないとね」なんて言っていた。

悲しさなのか、悔しさなのか、申し訳なさなのかよく分からない。夜、気づかれないよう布団の中で声を殺して泣いたのを覚えている。

それからいろんな感情が渦巻いて、弱い自分に腹が立った。やられてもやり返すこともできず、やられっぱなしの自分。

このままじゃダメだ。そう思った。

次の日図書館に行った。

当時の私にとって頼れるのは本くらいだった。

そこで一冊の本に出会った。

題名こそ忘れたが、それは孫子の兵法について書かれた本だった。

孫子の兵法とは、古来中国の武将、孫子が著したとされる兵法書で、戦いにおける戦略について綴った本。

現代はビジネス書としての評価も高いらしい。

『弱みを見せたら付け込まれる。弱きものは淘汰される』

冒頭で書いたような考え方になったのはこの本の影響だ。

実際、孫子の兵法には相手の隙を一瞬のうちに突けとある。逆に言えば隙を見せたらやられるということだ。

本を熟読した私は自分の弱みを隠すようになった。病気でも病気でないふりをして、弱くても強いふりをした。

一カ月後にはいじめが劇的に減った。友達も少しずつだができるようになった。

大親友1

しかし、せっかく出来た友達にも相変わらず本当の自分は隠したままだった。

心は繋がっていない上辺だけの友達、そんな感じがした。

そんな中、大親友ができた。

もちろん人間ではない。尻尾の生えた可愛い親友。その子といる時だけ本当の自分をさらけ出せた。

彼女は捨て猫だった。捨てられたといっても人にではなく母猫に。

拾ってすぐ名前を付けた。小学生なのに、まるで親にでもなったような気分だった。

それから私は誰にも内緒でその茶色のふさふさに覆われた彼女を近所にある神社の境内で飼うことにした。

彼女といると不思議と温かい気持ちになれた。友達のような我が子のような存在。守るべきものができたような、守られているような不思議な感覚。

学校での嫌なこととか、家での寂しさとか、全部忘れられた。

中学生

それから時が流れ、私は小学校を卒業し、気が付けば中学生になっていた。

中学の思い出を振り返ると真っ先に出てくるのは大親友との思い出だ。

春夏秋冬、私は彼女と同じ時間を過ごした。

春は桜の木の下で一緒にお昼寝をして、夏は近所の空き地で一緒に虫取りをした。

秋は月を見ながら一緒にお団子を食べ、お互いのぬくもりを分け合って冬を越した。

雪が溶け、春になったらまた…。そんな風に何気ない幸せがこの先もずっと当たり前に続くと思っていた。

彼女は私のすべてだった。

大親友2

そんな彼女が死んだのは、蝉の音が蒸し暑さを助長する真夏日。

彼女は車に轢かれてこの世を去った。私と出会ってから4年の歳月が流れていた。

今でも時々、あの日のことが夢に出てくる。

夢の中の彼女は何故かセピア色で

バッタを咥えた彼女に「おーい」と私は声をかける。

彼女は私に気づき、道路を渡ろうとする。

その時、一台の車が道路を横切って、彼女は宙に舞う。

彼女が轢かれた瞬間、まるで噴水のようにスカーレットに染まった液体が彼女の華奢な体からあふれ出して、セピア色の世界は一瞬にして彼女の濃い赤で染まる。

私は泣き叫び、彼女の方へと走っていくのだが、走っても走っても前に進めない。

そのうち私の視界はぼやけて世界は闇に包まれる。

いつも決まってそこで目を覚まし、枕は涙で濡れている。

こんな夢を半年に一度くらいのペースで見る。

高校生1

夏が終わって、あっという間に秋冬が過ぎ、彼女と見た桜が満開になる頃、私は高校生になった。

高校生になるのと同時期に、訳あって遠くへ引っ越しをした。初めての土地で新しい生活が始まった。

少しだけ大人になった私はアルバイトを始めた。

はじめて稼いだ給与は母に使おうと考えていた。

気付かれないようそれとなく欲しいものを聞いて、数カ月後サプライズでデジタルカメラをプレゼントした。

『こんな高いの貰えないよ』なんて言っていたけど、母は内心嬉しそうだった。

「記念に二人で撮ろっか」

そう言いシャッターを切った。

まさかこれが母との最期のツーショットになるとこの時は微塵も思っていなかった。

母の失踪

高校も2年になり、勉強に熱を入れるようになった私は夜中まで起きていることが多くなった。

朝から晩まで一日12時間はやっていたと思う。友達とも遊ばず、勉強に青春全てを捧げた。

その頃から母と顔を合わせることが多くなった。夜中まで勉強する私と夜中に仕事から帰ってくる母。

ある日の夜、大事な話があると母に呼ばれた。

面と向かった母はどこか寂し気に

「ごめんね」

そういって私を抱きしめた。

私はその「ごめんね」の意味がなんか分かった気がして泣いてしまった。

次の日の朝、母はいなくなった。

すぐに警察に相談したけど1週間たっても、1か月経っても母は見つからなかった。

私は私でできることをしようと思い、母と行った図書館やその周辺を探したり、SNSにも書き込んだ。

しかしそんな努力も虚しく、結局母は見つからないまま高校を卒業する。

大学と引っ越し

大学入学と同時に引っ越しをした。

引っ越しの日、行方が分からなくなっていた母からの手紙を見つけた。

『○○(私の名前)へ』と書いてあったから一目見て母の手紙だと分かった。

母に繋がる唯一の手掛かりだった。

手紙とお守り

母からの手紙には私に対する謝罪の言葉が綴ってあった。

『苦労させてごめんね』『どこも連れて行ってやれなくてごめんね』『寂しい思いをさせてごめんね』

それから最後にお礼が書いてあった。

『お母さんは幸せでした。あなたに出会えたんだから。生まれてくれてありがとう』

私は手紙の隅々まで読んだけれど、いなくなった母の手掛かりになるようなことは書いていなかった。

ただ、手紙と一緒にお守りが入っていた。

私はそれを常に肌身離さずに持っておきたくてスマホケースに括りつけた。

大学入学

一方で新生活はというと普通だった。普通というのはいい意味になる時もあれば、悪い意味にもなる時もある。

この場合の普通は悪い意味だ。

大学に行けば何か変われると思った。ダメな自分とか、何もできない無力さとか、

でも大学に通っただけでは何も変わらなくて、

大学に通い始めて数か月たち、燃え尽き症候群のようになってしまった。

目的が無かった。夢も、目標も。

ただ、誰かに褒めてほしくて、がむしゃらに上を目指した。

なりたい自分というのはいつも、私の中には存在しなくて、誰かの中にある。

「社会的に認められたい」「褒められたい」そういう思いだけが私を奮い立てることができた。

大学に入ることが目的だった私、それが叶ってしまえば、次の目標ができるまでお釈迦になる。

動力を失った私はまるで片翼を失った飛行機のようにゆっくりと墜落するしかなかった。

鬱病だった。

ヒッチハイク

それから、なんとなく旅をしたくなってヒッチハイクをしてみた。

鬱なりに、変わろうと模索したんだと思う。

意外にもヒッチハイクは心のケアになった。

色々な人に出会って、いろんな大人たちの話を聞いて、なんか少しだけ前に進めた気がした。

当たり前の日常を輝かせたいなら当たり前の日常に感謝しないと。そう思えるようになった。

人生の分岐点

ある日、ヒッチハイクで出会った人に感化され投資を始めるようになった。

その人は変わった人だった。常識に囚われなくて、話が面白く、どこまでも自由。

投資家を名乗るその人は 株、FX、不動産投資。色々な話をしてくれた。

視野が広くて、達観していて、経験豊富で、お金持ちで、それなのに少しも慢心していない。むしろ謙虚で控えめ。

はじめて他人に憧れのようなものを抱いた。

悩みを打ち明け、旅の話をして、投資の話をして、これからの話をして、人生を語った。

「世界は君が思うほど悪くはないが、期待するほど良くもない。頑張れ」

降りるときに言われたこの言葉には、その人の人生がぎゅっと凝縮されている気がした。

投資

投資を始めて数か月、私の貯金口座は数字でいっぱいになり人生で初めて使いきれないほどのお金を手にした。

うれしくてTwitterに投稿したりもした。

でもどこか虚しさもあった。

お金を手にしても、手にできるのは目に見えるものだけ。

銀行口座に貯まった数字はただのお飾りで、大金の使い方も知らない私は大学の友達にこのことを話した。

案の定、ぽっと出のお金持ちだということが知られ、私の周りには変な奴が集まり、時折お金を貸してほしいとせがまれるようになった。

多分、全員分合わせて200万は貸したと思う。未だ1円も回収できていない。一層人を信用できなくなった。

大学卒業

そんなことがありながら試験や勉強やらで忙しくしながらも気が付いたら卒業の時期がきて、同期が進路を次々と決めていく中、私は進路を迷った。

周りを見渡せば小さい頃からの夢を実現する人や家業を継ぐ人、就職する人、はたまた起業する人。

たくさんの選択肢がある中で私はこれからどうしたら良いのか分からなかった。投資があれば就職しなくてもある程度の生活は出来る。お金を稼ぐ方法は知っていたから。しかし、それはなんか違う気がした。

お金を稼ぐだけではダメ。本当のお金の価値を知らないと上手に使えないと思った。

聞けば宝くじで億越えの当選をした人は不幸になりがちだという。上手にお金を使うことができず、お金に使われてしまうからだ。

時に人を乱暴にし、理性を失わせ、そうかと思えば歓喜し感謝される。なんでも手に入る魔法の紙。それを得るために毎日身を削って働く人々。

私はお金の価値を十分に学ばないといけないと思った。

そう思い普通に就職することに決めた。

2020年・就職~退職

就職

普通に就職活動をし、普通な上司に普通な会社で、普通の仕事をこなし、普通の給与を貰った。

何もかもが等身大。投資と違って月の給与は決まっていて、減ることもないし、増えることもない。時間がお金で、何をしたかよりも何時間働いたかで給与が決まる。

就職してから3か月間は投資を辞めた。仕事に集中し、世間一般の仕事についての価値観を知ろうとした。

繰り返しの毎日だった。

いつもと同じ時間に起きて、いつもと同じ時間に家を出る。いつもと同じ電車に乗り、いつもと同じ改札でいつもと同じ人を見かけて、いつもの時間にいつもの会社について、いつも通りPCを起動。いつもと同じタスクをこなし、いつもと同じ時間に会社を出る。いつも変わらない日々。

眠る時と食べる時だけが幸せだった。仕事ってこんなもんなんだ。そう思った。

同時に悲しくなった。どうやら私は仕事というものにずっと期待をしていたようだった。

電車でうなだれるおじさんも、道ですれ違う若い子も、期待に胸を躍らせた新人も、大学の友達も大好きだった母も、こんな風に仕事をしていたのかと思うと胸が苦しくなった。

投資で得るお金と働いて得るお金の違いが分かった。

3か月が過ぎ投資を再開した。

勝って勝って勝ちまくった。あっという間に10万円が100万円に、100万円が1,000万円になった。

しかし私の運もここで尽きた。

仕事をはじめて1年が経った頃、医師から余命宣告をうけた。

2020年1月の出来事だった。

それをきっかけに仕事を辞めた。

ここから私の人生はどんどんおかしくなっていった。

余命宣告

「あなたの命はあと〇〇日です。」

そんな風に言われたらあなたはどうするだろう。

きっと冷静ではいられなくて、悲しんだり、寂しんだり、苛立ったり、喜怒哀楽では言い表せないような様々な感情が顔出すに違いない。

私も同様にどうしようもないほどの黒い感情が心の奥深くから一気に溢れてきて、押しつぶされそうになった。

当然、「死ぬまで楽しむぞー!」みたいにドラマのような前向きな気持ちにはなれるはずなくて、落ち込んで悩んで絶望して泣いて、3日間くらい寝込んだ。

言うまでもなくこの時の私の精神はボロボロで、生まれて初めて誰かに助けを求め、藁をもすがる思いでこれらの出来事をTwitterに吐き出した。

誹謗中傷

たった一人でよかった。たった一人でも私の全てを肯定して、心配して、寄り添ってくれる人がいたらいいと。そう思ってた。

あの時の尻尾の生えた彼女と私の関係みたいに、お互いがお互いを信頼し、必要とし、必要とされるような。

でもそんなうまくはいかなかった。私のツイートは瞬く間に拡散され、多くの人に見られると同時に物議を醸した。

心配し労ってくれる人、ツイートの真偽を問う人、嘘だと罵倒する人。

「証拠は?」と言われた。

私は思った。例えばあなたが原因不明の腹痛で悶えていたとする。燃えるように熱くて、ちぎれるように痛い。そのうち耐えられなくなって、友達、両親、配偶者、もしくは恋人に助けを求める「おなかが痛いんだ」。そしたらこう返される。「本当?証拠があるなら優しくするんだけど…。」

この後にやってくる感情は形容するまでもないだろう。

私の気持ちも似たようなものだった。精神的に辛い状態の私にとって、真偽を問う人も、罵倒する人も、同じで、結局どこかに疑いの念があり、「ツイートが事実なら側にいますよ」と言われているみたいで、気持ちが悪かった。

条件付きの優しさなんて、偽善だ。そう思った。

そんなウソの優しさ欲しさに事実を証明すること自体も心底気持ちの悪い事だと思った。

身勝手だけど、私はただ優しくされたかった。それ以外の声なんて何一つ聞きたくなかった。

その気持ちをどうにか伝えたくて、数千字にもわたるブログ記事を書いた。

あの日のいじめを経験して以来、私は弱みを見せることにずっと臆病になっていた。

だから初めて他人に弱みを見せたあの日は、胸がドキドキしたし、そのせいで生まれた誹謗中傷には心底傷ついた。

助けを求めたのは、あの時の私にとって弱さを見せること以上に、強さを偽ったまま死ぬ方がよっぽど怖かったからだ。

でもやっぱり、弱みを見せるんじゃなかったと後悔した。なんとか分かってもらおうと一生懸命書いた文章も逆効果だったから。

「辛い人は普通そんな長文かけないよ」

そんなことを言われた。あの頃のいじめを彷彿とさせる嫌がらせは勢いを増し、私の住所宛に大量の牛糞を送るものまで現れた。

ブログから住所が特定されたのだ。

不幸に不幸が重なって、地獄のような日々だった。生きた心地がしなかった。

それでも、優しくしてくれる人はいた。私の為に闘って、声をあげてくれる人もいた。

Rさん、Bさん、Sさん他にもたくさん、ありがとう。

そんな人たちの声だけに耳を傾けていればよかった。綺麗な景色だけを見れていたらどれだけ楽だっただろう。

精神的に辛いときというのは、視野がぐんと狭くなる。優しい言葉よりも、嫌な言葉やキツイ言葉の方が大きく強く写ってしまう。

この時の私はおよそ30°の視野で、辛い言葉だけを拾ってはグサグサと心にナイフを突き刺していった。

自殺未遂

そんなある日、

「はやく死ぬといいですね」

そんなことを言われた。

その瞬間私の中の何かが弾け飛んだ。

アツアツに熱されたポップコーンが一気に弾けフライパンの蓋を押し上げてあふれ出すように、私の頭はある考えでいっぱいになった。

『自殺』

それは絶望の成れの果てというよりは復讐のつもりだった。

「自分の死を以て、誹謗中傷をした奴らに制裁を加えてやろう」そう考えた。自身が発した言葉で誰かが死んだとなればさすがのやつらも後悔するはずだと。

それからの行動は早かった。山で自殺配信をやろうと山を歩いている動画を撮り、Twitterにアップした。

「誹謗中傷した奴らはきっと後悔する」

そう思っていた。

しかしそれは幻想だったことにすぐ気づかされる。奴らは後悔するどころか面白がり、さらに煽った。

「死んでくれて嬉しいです!」

愚かだった。この期に及んでまだ、自分の命は尊くて崇高で気高いものだと勘違いをしていた。

私の命はその程度だったのだ。

悔しかった。分かり合いたかった。でももう無理だと悟った。この世界に期待など何一つ無かった。

5,700字にもわたる遺書を書き、このブログで公開した。

当時の遺書の復元がこれ

そして最期の最期に、みんなのヘイトを聞きたくなった。

私に対する暴言、悪口、死ね、消えろ。

全部見て、聞いて、それから死のうと思ってTwitterでLINEのQRコードを公開した。

クソみたいな人生を振り返って、

それでも「ああ楽しかったな」なんて言いながら

死ねたらいいなって

公開してすぐ大量に届くLINE。

ヘイトより心配の声の方が多くて泣いた。

全部読むのに何時間もかかった。

ほぼすべてに返信した。

そうしているうちにスマホのバッテリーが切れ、朝になった。

死ななかった。死ねなかった。

自殺旅行

山での自殺が失敗した時、沢山の人からラインで心配したと言われ、もうしないよみたいなことを返信したと思う。

でもそれは皆を巻き込まないという意味であって、自殺をしないという意味ではなかった。

本当におかしくなっていたんだと思う。

だから、ひっそりと出かけた。自殺旅行に。

私は旅行が好きだった。

高校生の頃ネット環境を手に入れてから私の趣味は専らグーグルマップでの旅行。ストリートビューで色々な町を歩いた、綺麗な景色も汚い景色もみた。

パリの凱旋門にも行ったし、マチュピチュも見た。スラム街だって歩いた。一日でアメリカ大陸を横断したこともある。

大学生になってからはヒッチハイクをして外の世界を肌で感じる楽しさを知った。色々な景色を歩いて、味わって、特別な場所の、特別な空気を感じて、人の温かさに触れた。

そんな旅行がまたしたかった。

それを最後に死ねたらいいと思った。

投資で貯めたお金を全部下ろして家を出た。

死ぬ場所は決まっていた。でもすぐには行かなかった。途中寄り道して、何日もかけて向かった。

最後に決めた場所は九州のとある田舎町、お母さんの故郷だった。

そこを最後の場所に選んだのは、失踪した母の手掛かりが掴めるかもしれないという淡い期待があったからだ。

町を散策して、母の幼少期を勝手に想像して、聞き込みをして、他愛もない事を考えながら一日中歩き回った。

3日経っても何も得られず、5日経って諦めて、一週間が過ぎ覚悟を決めた。当然と言えば当然だが、母は見つからなかった。

その日の晩はハンバーガーを食べた。最後の晩餐がこれでいいのかと思ったけど、意外にも良かった。

次の日海へ向かった。

景色のいい場所だった。

そこは断崖絶壁で、地球の丸さを強調するかのように遠くの方で水平線が弧を描いている。

私はその水平線に向かって背負っていたリュックサックを放り投げた。

リュックサックは水平線に少しも届かず、私のいるすぐ真下、崖の下に落ち波にさらわれ消えていった。

下を見ると波が岩に打ち付けられてザブンザブンと大きな音を立てている。

(次は私の番だ。)

目を閉じて、この後のことを想像する。

1歩、2歩、3歩進めば終わり。あとは重力が私を引っ張って、真っ逆さまに海に落ちる。

岩に当たって死ぬか、溺れて死ぬか、どちらにせよラクになれる。

目を閉じたまま、今度はこれまでの人生を振り返った。

子供の頃の苦労、貧乏、学校でのいじめ、本との出会い、猫の死、母の涙、手紙、失踪…、それから大学での生活と鬱と投資と余命宣告、誹謗中傷…、知らない誰かの「死ね」。

波の音に耳を澄まして、風を感じて、海の匂いを嗅いで、塩が体中に纏わりつくのを肌で感じながら、深呼吸をし、ゆっくり目を開けた。

その瞬間一粒の雫が頬を伝って地面に落ちた。それを合図に次から次へと涙がボロボロ出た。

悔しかった。虚しかった。わけわかんない感情が渦巻いて、どうしようもなかった。

力が抜け、地面にへたり込んで、静かに泣いた。

隠された真実

それからしばらく時間が経って、ポケットの中のスマホをみた。
リュックは捨ててしまっていたから、私が持っているのはそれだけだった。

スマホには何の通知もなかった。
TwitterもLINEも削除していたから当たり前っちゃ当たり前だけど。

ふとその時、スマホに括りつけたお守りが目に入った。

そのお守りは母からもらったもので、私は母から貰ったそれを肌身離さずに持っておきたく、キーホルダー代わりに携帯に着けていた。

機種変更するたびに付け替えてボロボロに色あせたそれはところどころほつれている。

その時なんとなくお守りの中身が気になった。

高校生の頃、修学旅行で買ったお守りを開けたときは小さい硯みたいな長方形の石と文字の書かれた半紙のようなものが入っていた。

でも母から貰ったお守りは母の手作り。石や紙が入っているようには思えなかった。

お守りを優しく指でなぞると薄くて固い感触がある。

「何かが入っている」

そう思った瞬間無性に開けたくなり、石とか歯とか、その場にあるものを使って無理やりこじ開けてみた。

引きちぎられた糸の隙間を覗くとポリ袋に入れらた薄いチップのようなものが見える。

取り出すとそれはメモリーカードだった。

お守りの中身が気になり開けてみたらさらに中身が気になるものが入っていて、まるで好奇心のマトリョーシカみたいな構造に私は真実を突き止めなければならないと思い、自殺旅行を中断し家へ帰ることに決めた。

SDカードの中身

帰るための交通費が無かったから数年ぶりにヒッチハイクをした。世間はコロナ真っ只中で、結構大変な道のりだった。その時のことはまた今度話そうと思う。

家に帰ってすぐPCを起動、マイクロSDを差し込んだ。

しかし、いくら待ってもSDカードは読み取られない。

SDカードは壊れていた。

落胆した。母が残した唯一の望み、私の生きる希望だった。

私はこれからのことを考えた。

自殺は失敗した。SNSで助けを求めたけどダメだった。最後の旅行は最期じゃなかった。

この半年間で私が行ったことはどれもこれも想像通りとはいかなかった。

私に唯一残された道はー生きること。生きて現実と向き合うこと。それだけだった。

それからやったことは、まず病院に行くこと。

一縷の光

最初に行った病院は1か月以上も(私が)音沙汰なしだったから、行きづらくて(しかも診断書は旅の前に捨ててしまった)、別の病院に行った。

事情を話したら、また一から検査することになり、精密検査の予約をしその日は帰宅。

それが一年半前。

後日行われた精密検査の結果、悪いところは見当たらないと言われた。

そんなはずはないと、医師に掛け合ったが

極稀にこういったケースはある。と説得された。

医師によると、余命宣告されるほど手の打ちようがない状況でも半年後には何もなかったかのように改善していることが全国で年間に1,2件はあるらしい。

「何はともあれよかったじゃないですか。」

そう言われ複雑な気持ちになった。

余命宣告をされたあの日、本気で悩んで打ち明けて、心配の声と誹謗中傷を同時に聞いて、「嘘だ」と罵倒され、叩かれ精神を病んで、自殺するほどまでに追い詰められた。

「信じてほしい」そういう思いで書いたブログも、遺書も、無意味になって

皮肉なことに、あの日「嘘だ」といった人たちの言葉が「本当」になった。

本来は喜ぶべきところだろうけど、素直に喜べなかった。喜んでいいのか分からなかった。

近い未来約束された死に怯える必要はなくなった代わりに、あの日私を罵倒した人たちが、 「やっぱり嘘だったんだ」と戻ってくるかもしれないと思うと怖かったから。いっそのこと死んでしまっていればよかったとも考えたりもした。

2021年~現在

第二の人生

そうは言ってもいつまでも引きずっているわけにはいかない。

前に進まなければならない。

そう思いながら私の第二の人生がスタートした。

自殺旅行でほぼすべてのお金を海に投げ込んでいたから、貯金もなく、消費者金融で10万円を借りて、それを元手にFXをして生活費を稼いだ。

もともと自信があったのもそうだけど、それ以上にうまくいったのが嬉しくて、「FX教えます!」みたいなツイートをしたら結構人が集まって、無料で教えた。

秘密のSDカード

それから落ち着いたころにマイクロSDカードの修理を試みた。

業者に電話したり、現物を送ったり、自分でいじってみたり、

しかし、結果は芳しくなかった。

いろいろしてみたけど結局SDカードを読み取ることはできず、自分一人ではどうにもできないことを知った。

そこで別の方法を考えた。

お金配り

2022年1月8日kifutownというものをはじめた。

それから立て続けにプレゼント企画を行った。

Amazonギフト券、スタバギフト、PayPay、任天堂swich、いろいろなものいろんな人に配った。

そうすればたくさんの人が見てくれると思った。この記事を読む人が多ければそれだけ失ったデータ(SDカード)に興味を持ってくれる人が増える。そうなれば復元に協力してくれる人も出てくる。

「ひとりでだめならみんなの力を借りよう」そんな風に考えた。

プレゼント企画を行ったのはそのためだった。

私はこの記録媒体を復元し、データを読み取り、母の最期のメッサ―ジを確認したい。

中身がなにかは分からない。もしかしたら期待したものじゃないかもしれないし復元しなければよかったと後悔するかもしれない。

それでも、こいつを復元させたいのは私が母のことを本気で好きだからなんだろうと思う。

つまり、何がいいたいかというと、ここから先はお願い。

PCに精通している方、SDカードに詳しい方、力になれそうな方、そういった方たちは連絡が欲しい。LINEを載せる。

そうでない人たちは広めてほしい、ツイッターのRTでも、youtubeでも、なんでも。

RTしてくれた人には抽選で1名に30万をあげるし、完全に治ってデータを閲覧することができるようになったらその人に修理費として100万円を支払う。それくらい本気だ。

母から私への最期のメッセージだと思うから。絶対に中を知りたい。

【追記】

2/13中身を確認することができました。協力してくれた皆さまありがとうございました。

最後に

ここまで読んでいただきありがとうございます。文字数の都合上、端折っているところが沢山ありますがこれが今までの大まかな私の人生の要約、同時に私の自己紹介記事でもあります。

インターネットの世界は実に1年ぶりです。

罵倒され逃げるように出ていったSNS。正直のところまだ完全復活というわけではありません。

実を言うとこの記事を書いている今もドキドキしています。結局私は生きていて、だからこそ「やっぱり嘘だったんだ」とあの日の人たちに言われるんじゃないかと思うと戻ってくるのも憂鬱でした。

でも最近考えました。

世界ってそんなもんなんです。私が今こうして悩んでいる間も、世界のどこかでは紛争や争いが絶えずあって、大勢の人が血や涙を流しあっている。

みんな傷つき傷つけあって生きている。きっと私も知らない間に誰かを傷つけているし、悪気無しに傷をつけられたりしている。

人生で最も落ち込んだ時、私は何も言わずに手を差し伸べてくれる人を求めた。望み通りとはいかなかったけど、結果的に今はよかったって思っている。

それはもしかしたらあの頃の自分を慰めるための口実なのかもしれないけれど、それはそれでいい。

学べたことがあった。

分かり合うってとても難しい。分かり合っているように思っても実はすれ違ってたり、そんなこと日常茶飯事。

この世界で生きていれば、自分の足跡を誰かが不快に思うこともあるし、誰かの足音が気に入らないときもある。みんながみんな自分の歩幅に合わせてくれるわけじゃない。自分もまた100%誰かに合わせられるわけじゃない。

みんなそれぞれ自分の道を持っている。生きるってのはたぶんきっとそんな世界の中で自分と歩幅合わせて歩いてくれる大切な人をみつけ共に手を取り合っていくことなんだろうと思う。

いつかきっと私もそんな風になれたらいい。

ここまで読んでくれてありがとう。重ねてお礼を言わせて。

この記事のシェアどうか協力お願いいたします。

もしくは私のツイートをリツイートしてください。

この記事のツイートをリツイートしフォローしてくれた方に抽選でお金を配ることにしました。30万円×1名様です。

どうかご協力よろしくお願いいたします。

【追記】

30万円の応募は終了しました。

連絡先

最後に、連絡先をおいておきます。

TwitterのDMでもいいんですけど、いまいち信用できない人の為に個人的に使っているLINEを公開します。自由に追加してください。

SDカードを直せそうな方は、TwitterのDMもしくは上記のLINEまでご連絡ください。

【追記】

SDカードの修復が完了しました。協力してくれた皆様ありがとうございました。

母へ

『もしかしたら』そんな一縷の望みを抱いてここに手紙を書きおろします。

お母さんへ

お母さんがいなくなって10年近く経ちます。元気でやっていますか?

私はというと、そこそこ元気です。あれから色々なことがありすぎて、挫けそうなときもあったけどなんだかんだ今もこうやって生かされています。

どこで何をしているんだろう…。そんな風に思う。お母さんのこと一日だって忘れたことはないよ。会いたい。触れたい。話したい。

でもね、なんとなく、お母さんはもうこの世にいないんじゃないかなって思うの。そんな風に思いたくないけどね。

生きるのが辛くなっちゃって、何度か死のうとしたことがある。でもね、その度に失敗して、生きている。

きっとお母さんが生きろって背中押してくれているんだろうな。

お母さんがいなくなってから辛い事ばかりの人生だったけど、これからきっといいものにしていくよ。

輪廻転生があるのかは分からないけど、もし生まれ変わるなら、またお母さんの子に生まれたい。またぎゅっと抱きしめられたい。あの時のように笑いあいたい。

お守りありがとうね。まさか中にSDカードが入っているなんて思わなかったから、びっくりした。もう少し早く見つけていればひらけていたのかな。データ破損していた。

でも大丈夫、きっと直すから。お母さんの最後のメッセージちゃんと受け取るから。

もしも、この手紙をどこかで読んでいるのなら、連絡が欲しい。

大好きです。


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