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元家庭教師さんファミリーに会った話。

先日、古い知り合いとその家族に会いました。

その知り合いというのは、
簡単にいうと元家庭教師です。

私が小学5年生の頃から中学2年生まで
算数を教えに来てくれていました。

まぁ、幼少期の私は酷いものでして…笑
暴れに暴れまくってましたから、
たくさん迷惑を掛けましたね。

今ではすっかり、彼が算数を
教えてくれていた時の歳を越してしまいました。

無事に卒論を提出して、
もうすぐ大学を卒業します。

気づけば向こうはご結婚をされて、
パパになっていました。

いやぁ、時が経つとは面白いですね。

ここまで10年以上ですか。早かった。


そんな元家庭教師御一家様とお会いした私ですが、
刺激的だったのは、そちらの息子くんとの
出会いでしたね。

やっぱりねぇ、赤ちゃんは可愛い笑

私には5歳下の弟がいるのですが、
まだ弟が小さい時にいろいろしていたのを
思い出しました。

抱かせていただいた時に感じた
その軽さの中にある生きている重みを
今でも思い出してしまいそうです。

会いたくなりますね。


関東の方からわざわざ足を運んでいただいて
うちの家族が空港まで迎えにいったんですが、

初めて息子くんを抱かせていただいたのが
その空港の駐車場でした。

抱っこすると、息子くんは外に目を向けて
景色を眺めていました。

冬を迎えて光を纏った木々や
走り去る車、佇むお店

いろんな物が映った景色でした。


そんな息子くんを見て、
気になったことがあります。

この子は一体、
どのように世界を捉えているのだろう。


いつか、言語学の授業で学んだことがあります。
「人間は、言葉があるから世界を認識できる。
言葉がなければ、世界は無秩序だ」と。

確かに、私が見ていた景色に「境目」が
生まれているのは

「木」「車」「店」など、
それを区別する単語と意味を認識している
からだと思います。

その「境」という概念がなければ、
この世界は巻物のように、全てが繋がったものに
見えてしまうのでないかと思うのです。

つまりこの生まれて数ヶ月の息子くんには
その現象が訪れているのではないかと
思いました。

いろんなものを覚えてしまった私は、
もう二度とそのように世界を捉えることは
できないかもしれません。

記憶が全て消えてしまうみたいなことが
ない限りは。

だから少しだけ、息子くんが羨ましい気持ちに
なりました。

私ももう一度だけ、そうやって世界を
見つめてみたい。

目の前で起こること全てを
「面白い」と思って見てみたい。


願っても叶わないことではありますが、
息子くんを見ているとそんな気持ちになりました。

この子が言葉を少しづつ覚えていくことは、
この世界を少しづつ知ることになると思います。


息子くんがどのように世界をみるのか。
それが素敵なものとして映るように

おばちゃんは自分ができる精一杯で
この世界を彩っていきたいと思いますよ。

素敵なパパとママに出会えてよかったね。
大きくなるんだよ。


という、そんな呟きでした。
それでは、またいつか。



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