子育てと仕事との両立 #12 復帰4年後編(最終回)
今回が最終回。子育てと仕事との両立について、書いてみたいと思います。私は今(2020年6月)41歳です。起業して4年目、ブランディング専門のフリーランスとして活動しています。娘は8歳の小学生です。そして、シングルです。
#12 復帰4年後編(2017年4月~)※私38歳、娘5歳~
2017年4月。
娘は新しい保育園が決まり、通い始めました。私は、フリーランスとして、活動を始めました。お互いが緊張感と期待を募らせ、新しい生活を送っていました。
毎日が平和かというと、そういうわけではありませんでした。
フリーランスで生きていくということは、サラリーマンより大変です。なぜなら、全部自分でしないといけないからです。私は、クリエイティブ以外のことを何もしてこなかった。
営業も、経理も、何一つわからない。
そもそも、お客様ってどうやって探したらいいのかもわからない。
そんな中、早くも事件が起きました。
2017年5月末の金曜日。娘は、体調を崩し胃腸炎で嘔吐と下痢を繰り返していて、病院で薬をもらったものの飲めずにいました。そして、嘔吐が治り、熱が下がり、下痢のみの症状になっていた土曜日の夜。
娘は、私の呼びかけに応答しなくなりました。
目は開いているものの、立ち上がることもなく、ぐったりしていて、私が話しかけても返事をしてくれない。
パニック、#8000.
(※子どもの病気で焦ったら、#8000に電話です。)
私が#8000の人に状況を説明すると、電話の向こうの方は、焦ることなくむしろぶっきらぼうにうんうんとうなづいていて、何となくこちらも落ち着かねばという気持ちになる威圧感でした。
でも、沈黙の後…#8000の人が、
「お母さん、至急、病院へゴー!もう一度言います。至急、病院へゴー。急いで!」と大きな声で言い放ち、これは、そういう状況なのか!!と、頭が真っ白になりました。
#8000の人の指示が明確だったからか 、私の真っ白な頭の中には聞いたこともない地名と病院名がしっかり記憶されました。救急車なのかタクシーなのか、悩み・・・タクシーを呼んで病院へ。
この判断は間違いで、病院の先生たちに、救急車で来ないといけない状況だったよ、と言われました。
行先の病院が、どこにあるかもわからないけど、タクシーの人は知っていて、急いで向かってくれました。でも、とても長い道のりに感じました。
妙に眩しい病院に到着。
救急病院は、当たり前なんだけど、そこにいる人全員救急なので、私と同じようにみんな慌ただしい。それも、子ども専門の救急病院だから、病でぐったりしている子どもで溢れかえっていました。
ちなみに、受け付けするにもまず書類。
保険証や医療証の提示。娘を抱き抱えて書類なんて書けないよ!と泣きそうになりながらも、この辺りからだんだん冷静になりました。なんでも、自分でやるしかない。ライトがやたら眩しくて冷静になりました。
娘をイスに寝かせて、私は、その横で書類を書けばいい。
落ち着け、私。
書類を書いていると、すぐに、看護師さんが来てくれて、娘を診てくれました。娘は言葉を発さないけど、目は開いて動いているものを追うから大丈夫とのこと。普通の順番でいくから、もし、急変したら教えてと言われました。
これ以上の急変て、どんなん?と思いながら、ただただ、順番を心細く待ちました。夜の21時過ぎなのに、ごった返している救急。こんな世界があるんだなーと、放心しているうちに、順番が来て、医師たちは、速やかに採血をし、結果を見て、低血糖と脱水と診断。
どちらもひどい数字でした。
あともう少し判断が遅かったら、危篤状態だったと言われました。
とにかく、至急点滴を開始しますと言って打ち始めた途端、みるみるうちに娘の顔色が青からピンクに。そして、娘は言葉を話し始めました。
点滴を2時間くらい続けた頃、医師からは、子どもは少し前までは元気でも、急変します。今は、点滴で一時的に回復したものの、自分で摂取する体力はないから入院したほうが良いと思う、「お母さん、どうするか判断してください」言われました。
私は、怖くて自分での看護は無理と感じ「入院します」と言いました。
受け入れ先が見つかり、また、タクシーに乗って移動。これもまた、長い道のりでした。でも、この時のタクシーでは、娘は喋ってくれていて、安堵。
でも、病院に着いたのが、夜の1時過ぎ。
気がつけばもう日曜日になってました。
入院
深夜1時過ぎに入院する病院に到着し、また、書類。事務手続き。その上、紹介状も検査結果も持たされたのに、また、採血。
採血は、脱水のせいで血管が縮んでるらしく、何度も看護師さんが失敗し、今まで、ほぼ何も話せてなかった娘が、ものすごい大声で泣き叫んでました。大人3人がかりで、娘を羽交い締めにし、血を採る。私の精神は、この辺りでかなり弱りました。
2時半過ぎ、ようやくベッドへ。
うとうとしている娘をゆっくり寝かせてあげたい。でも、入院の説明が始まる。ひと通りの入院の説明をうけて、丑三つ時に驚愕。
「お母さん、入院中はお子さんにつきっきりでお願いしますね。」と。
そもそも、入院すると思ってなかったので、今持ってる持ち物、9割入院に必要ない…。着替えとか色々取りに帰りたいんですがと言うと、看護師さんは「私たちは看護師なので、つきっきりで娘さんを見れません。ベッドに柵をして帰るか、誰か交代の人をお願いします。」と、きっぱり言われました。
わかるけど、冷たい。
わかるけど。
私はどっちも、できない。
ベッドに柵?泣き叫ぶに決まってる。
交代?誰が交代してくれるの?
頭が働かなくて、入院中に何が必要なのかも考えることができず、とにかく、朝を待ちました。
朝になると、先生が来て、データと症状を照らし合わせたけど、明確な病名が、わからないと言われました。
意識混濁は、胃腸炎とは関係がないし、脱水がひどいから意識が混濁したんだと判断している。そして、回復して反応もあるから後遺症なし。気になるのはCRPという値。CRPとは炎症反応をみる数値なんですが、うちの娘は10。通常は0。胃腸炎だけで、こんな数値にならないらしく、なぜかわからないと言われました。
私がこの日、思ったことは、自分の周りにいざという時に連絡できる人、助けてくれる人がいないというのは、本当につらいことだなと思いました。
ひとりで子育てをしていく厳しさ。
私はシングルで、実家族とも疎遠。
きっと、私みたいな人、世の中にたくさんいるんだろうけど、皆、どうしてるんだろう。
私は、大概のものを売店で揃えました。
そして、入院している間、色々と反省しました。
起業して1ヶ月で、早くも私は、娘を殺してしまうところでした。
娘がこんな状態になるまで、私は気が付けなかった。
私は、仕事をしていました。仕事を取らなきゃ、生活を安定させなきゃと、必死になっていました。
あの時、私は、優先順位を間違えたんです。
娘が静かなうちに、仕事を終わらせよう!と。ちゃんと、娘の様子を確認すればよかったのに、仕事を優先して、娘をおざなりにしました。
この件は、今でも、深く後悔しています。
※
少しずつ回復
娘は、入院2日目くらいから、少しずつ食べるようになりましたが、脱水状態が続きました。ずっと点滴、抗生剤を投与され、CRP10から0.2に。ただ、今度は、リンパ球が増加してしまい再検査に。
でも、入院5日間で無事に帰れました。
私の優先順位は、娘。
娘と私の生活があるから、稼がないといけない。だから、もちろん働かないといけない。でも、私は、お母さん。この世で娘が頼れる、唯一のお母さん。私が、娘を優先して行動しないと、取り返しのつかないことが起きてしまう。
私は、この出来事で、仕事をスピードを緩めることにしました。ただ、緩めたことで、当然、収入は思うようには得ることができませんでした。
こういうときに頼りになるのは、貯金です。
もし、シングルで、フリーランスでやっていこうという人は、ある程度の貯金を持って、起業したほうがよいです。
※
初めてのお客様
起業して初めてのお客様。
きっと、生涯忘れることのない出会いだと思います。
彼女と出会って5ヶ月。
とても濃い5ヶ月でした。
私が、会社を休職せざるを得ない状況に陥り、放心状態の中で、さらに祖母が急死し、途方にくれていた時に彼女と知り合いました。
運命なんてないと思うけど、思わずそう言いたくなる出会いです。波長もあい、同い年で、出会ったとき共に悩んでいました。その悩みを何となくお互い話し始め…、お互いのスキルでお互いの悩みを解決し合った、5ヶ月間。
本当に不思議な出会いです。
彼女は私が、一時的に子どもを預けていた、認可外の保育園の園長さん。そして、彼女は、起業したばかりの私に、「ブランディング」を依頼してくれました。保育園のブランディング。
私は、結果として、成功させることができました。彼女の保育園は満員になり、人材も確保でき、経営が回るようになりました。
リアルに、結果が、この手で実感できた。
私にとっては、大きな達成感でした。
※
新しい出会いがないと、人は変われない。
私は、人は誰かに出会い、自分の価値観と相手の価値観を組み合わせ、さらに、新しい自分の価値観を見い出すのだなと実感しています。
新しい出会いを求め、そして受け入れる柔軟性を持つと、自らは変わることができます。
ここで言う変化は、進化のこと。
私が離婚をしなければ、彼女には出会えなかった。
私が会社を辞めなかったら、彼女には出会えなかった。
そして、彼女と出会わなかったら、保育事業、そして、地域に目を向けなかったと思います。
限界の先には、新しい世界がある。
※
そのほかにも、少しずつ仕事をもらえるようになりました。そして、お客様が、私の仕事を、必死に広げようとしてくれていて、色々な人に紹介してくれました。
さらに私は、ブランディングの資格を取り、ブランディングのセミナーをして、「ブランディング」という考え方を、もっと、みんなに知ってもらおう!と、活動を始めました。でも、最初はなかなか、集客できず。
継続することが、大事なんです。
最初のセミナーは、一人しか来てもらえませんでした。それも超大手の広告代理店の偉い人でした。私よりお客様のほうが詳しくて、その後、セミナーを開くのが怖くなりました。でも私は、毎月1回、ずっと続けました。そうすると、少しずつ来てくれる人が増えました。
※
そんな中、とある企業の社長が、会社でブランディングセミナーやってよと、声をかけてくれました。
ちなみに、社長という仕事は、お金はあるけど、孤独で辛いものだと、私はいつも思います。責任と不安の中で、「社長らしく」しなければならない。なかなか弱みは、だれにも見せれない役職です。
私のブランディングセミナーを受けて、自分と向き合う時間が作れてよかったと仰ってました。
社長は、会社を何が何でも維持しなければならない責任と、たくさんいる従業員のこと、そして、100年後もあり続ける事業を創出しなければならない難しさ。毎日、決断しなければならない重圧に、日々向き合っています。
2時間話したところで、すべてがクリアにはなりませんが、何となく、大事なことを思い出してくれたように思いました。
私、今、人を少し幸せにできた。
その社長からは「お金が必要かもしれないけど、嫌な仕事は受けたらダメだよ」とアドバイスをもらって帰りました。
本当にこれは守るべきことです。私は、今だに受けてしまうことがありますが、でも、せっかく、フリーランスになったんだから、好きなことしなきゃ、ね。
※
2017年末。
去年の今頃は、家を追い出され何も片付いていないこの場所で、娘と泣いて途方にくれた年末年始を送っていました。
あれから、一年が経ちました。
3月末に会社を辞めることになり、4月に起業し、慌ただしい毎日を過ごしました。そして私は、新しい環境になれることに必死で、娘の体調を甘くみて、意識不明になるまで気づくことができず入院させてしまいました。
あの入院生活で、本当に私たちは孤立してるのだと知りました。
危機的状況になった時、身近に助けてくれる人はいない。
病院のベットで、母子家庭になったことが正しい選択なのか、会社を辞めたことが正しい選択なのか、私は追い詰められました。
でも、今は、たくさんの笑顔に囲まれて、いつの間にやらすっかり悲しさも不安も悩みも消え、楽しくやってます。
毎日が楽しいんです。
いろんな決断をして、とても大変ではあったけれど、私は強くなり、凛々しくなりました。営業に行ったら、ブランディングなんて胡散臭いって言われて、落ち込むこともあるけれど、私は、今の時代には絶対必要だと思っているし、企業も人も、自分らしさの確立って大事だと思っています。
人は人。私は、私。
自分らしく生きることを取り戻し、わかったことがあります。
私は、やっぱり、仕事も家庭も、子育ても大事。
全部大事なんです。全部やりたい。
全部やるためには、自分の人生を大切に生きないとできないです。
そして、「自分の人生を大切に生きること」は、この先、自分自身がハッピーに生きていくためにも必要です。
最後に。
2020年6月。私は、41歳になり、娘は8歳になりました。そして、「さつきデザイン事務所」は、4年目を迎えています。
相変わらず営業が苦手で、このコロナの中どうしよう!と思いつつも、周りに助けられて、自分らしく生きることを保てています。
そして、娘も強くなり、ほぼ病気をしなくなりました。正直、娘が今、幸せを感じているかどうかはわかりませんが、私は、娘との時間をできる限りたくさん取って、娘に寄り添って、物事を進めることができるようになりました。
お母さんになって8年。
色んな失敗を繰り返し、ようやく私は、仕事と家庭と子育てのバランスを保てるようになりましたよ。
これから、両立を始められる方、今、真っただ中の方へ。
皆さんが、少しでも自分らしく生きて、自分の人生を楽しく過ごせるよう願っています。自分自身が幸せであることによって、周りも幸せになります。だから、自分を犠牲にせずにね。
最後まで、読んでくださってありがとうございました。
お気持ちありがとうございます。娘と元気に楽しく生きていくために使わせていただきます。