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ヒロイン辞めます

結婚を思い描けないとか、そのくせ寂しがりだとか。自分の内で蠢めくコンプレックスとそれに紐づく色々を、すべて父さんが死んだせいにしてきた。

私が人知れず凄惨な事件のルポルタージュを好んで読むのは、自分より辛い思いをした人がいると知って安心したいからだ。ワインを傾けながら救いのない物語を読み、この人と比べたら私は…と思ってやっと眠れる、非道徳な人間。


最近、私のことなんかこれっぽっちも知らない人から「しあわせになれなさそうなオーラあるよね」と言われてドキッとした。という話を親しい人にしたら『関係性もない人間にそんなことを言わせたあなたが悪い』と叱られた。『いつまでも死の悲しみに浸っていないで、そろそろなぜ父が奪われたか考えろ』とも。

「奪われた?」
『仮に神様がいるとするだろう。あなたの家族は神様からえらばれたんだよ、その運命を背負う家族に。運命を憂うのではなく、向き合いなさい。あなたは幸い、昇華する手立てを持っているだろう。』
「文章ですか」
『そうだよ。なぜ父は奪われたのか、なぜ父だったのか。ひたすら向き合い、書きなさい。』

なんて激烈なエール。私のことをこんなにも愛してくれる他人はいないね。

人生はよく映画に例えられるが、それに則るなら、今私は岐路に立たされているのではないかと思った。悲劇のヒロインを続行するか、運命と向き合うかで、映画自体の面白さが格段に変わる。
悲劇のヒロインは綺麗で楽だけど、私は簡単な物語で終わりたくない。24歳7ヶ月をもってヒロイン辞めます。


初めて物書きになりたいと思ったのは11歳の頃のことだ。
自己満足で書き溜めた物語は何ページになるだろう。18歳から公募に出すようになったが、箸にも棒にもかからない。賞金5万のコンクールですら落選するし、出版社の小説賞なんてもってのほか。10年かけて「文才がない」ことを理解していった。
ひょんなことから21歳で編集職に就けて、インタビューや文章に触れられる日々を送るうち「もうこれでいいかな」と思い始めてしまっていたけれど、私が文章に関わる意味や価値は、そこになかったんだと気づいた。

Is he a gangster?
-No(^_^;)

私が書くことから逃れられなかったのは、父さんと向き合って、なお生きていくという覚悟を決めるためだったんだ。
才能もないくせに固執してしまうことを、恨めしく思ったこともある。でもそれでよかった。どこかで文章を捨てられていたら、私はヒロインらしく自死を選んでいたかもしれない。


生きる力を獲得するために、もう一度書いてみようと思う。
父さんの死と、それを中心に広がる運命を見つめ『えらばれた家族』というテーマの答えを出す。
10年目の挑戦を決めた今日は、奇しくも父の日だった。

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