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おもに短歌にかんする既発表原稿の置場です。 詩集についてはJapan Poetry R…

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おもに短歌にかんする既発表原稿の置場です。 詩集についてはJapan Poetry Review のゲストページに「近・現代詩おぼえがき」という記事を別途ご掲載いただいています。 https://note.com/japanpoetry

最近の記事

佐伯裕子歌集『流れ』評

 歌集名のそっけなさに軽く驚き、なにかの暗喩かと考えてみる。想像どおり時代の移り変わりの意味もこめられていたが、まずはもっと即物的な、著者が生まれ育った東京を「河川の流れをたどるように訪ね歩いてみた」(あとがき)記録なのだった。   川がつなぐ街をたどれば思い出は生まれる前の花野を行けり   切りかけのキャベツを置きて彷徨に出でたる春の忘れがたしも  しかし単純な記録でないことは、この巻頭二首がすでに過去の時間をはらんでいることからうかがわれる。以前〈彷徨【ほうこう】もし

    • 寺山修司とわたし:わたしの選んだこの一首

      一つかみほど苜蓿【うまごやし】うつる水青年の胸は縦に拭くべし  歌集『血と麦』のこの一首以外にさほど思いいれがない自分は、寺山短歌のよい読者ではないのだろう。『空には本』は思春期の自意識が、『田園に死す』は演劇的身ぶりが勝ちすぎていて私には居心地がわるく、純粋に「歌」に身をひたせる歌集は、この二冊のあいだに位置する『血と麦』なのである。  上の句はいかにも田舎びて、水面にゆらめくわずかな草の映像が可憐である。だが「一つかみ」という語は「一束」や「一かたまり」と違って荒々し

      • 色彩を言葉で表現すること(諏訪順子歌集『蒼穹を見よ』栞文)

         先にこの歌集のタイトルをうかがったときには、「蒼」の一文字から、青空のように澄んだ心境へのあこがれがストレートにうたわれているのかと想像した。内容を読むとはたして、具体的には東京スカイツリー竣工前後の日々、その近隣・浅草での暮らしにまつわるさまざまな思いが複雑に溶けこんだタイトルであった。  ただ、巻頭から順にながめるかぎり、まず意識されるのは赤い色のイメージである。それから黄、青のイメージがつづく。絵画などでいうところの三原色が出そろった。  前歌集のタイトルは『ジョルジ

        • 優しい歌(松川洋子歌集『月とマザーグース』評)

           これまでの歌集名には『聖母月』『シャクティ』など宗教や神話につながる語もあり、見ようによってはこわもて【「こわもて」に傍点】の作風ともいえたが、このたびの第六歌集『月とマザーグース』は装幀もかわいらしく、北原白秋訳のイギリス童謡をときになぞりながら編まれた内容も、優しい。   やはらかな血管のやうにうねりくるモーツァルトをねんねんころり   休眠を解かれれば数日の命とふねむりゆすり蚊【「ねむりゆすり蚊」に傍点】眠り続けよ   一億の鬱きはまれる母の国に ねんころねんころね

        佐伯裕子歌集『流れ』評

          社会史・個人史としての歌書(岡井隆『今から読む斎藤茂吉』評)

           一九九五年刊の『茂吉の短歌を読む』は評釈に紙幅が割かれていたが、題は似ていても本書の趣旨は異なる。ある特殊な時期、ここでは日中戦争開戦時に関して歌人と歌誌を核に考察する、一種の歴史の書でもある。  昭和十三年の「アララギ」誌。すでに大家である茂吉は爆撃の実行された地に思いを馳せ、若い金石淳彦は反戦の意思を示し、土屋文明は文学の運命を憂い……後述されるように「『戦争体験』などといふものは個々別々のものであり、誰にも共通する要素はむしろ少い」ことが、掲載歌の検証から窺われる。

          社会史・個人史としての歌書(岡井隆『今から読む斎藤茂吉』評)

          渡辺松男歌集『〈空き部屋〉』評

           冒頭に、父への(そして母への)挽歌群が配されている。読み進めるにつれ、悲しいというより心細い気持ちに襲われた。   大いなる足に履かれているときの黒い靴下の思いに湿る   父よ過度に死になさるなよと微風来て白き狐の手袋の花   透明なる歯を落とす木々あまた立ちわれに父母なき冬がくる  肉体をなくした肉親は、存在しない。よって「過度に死になさるな」という呼びかけへの答えは、返らない。ここで、作者が歌においてたびたび肉体のパーツに執してきた理由は、不在ということへのおそれに

          渡辺松男歌集『〈空き部屋〉』評

          静かに激しく(渡辺松男歌集『蝶』評)

           歌集『蝶』のことを好きすぎて、なにから書いてよいかわからない。気を落ちつけて、前の歌集をまず見てみる。 夕陽巨大 せっぱつまりて木にあまた赤い消防自動車実る  『自転車の籠の豚』  しかし考えてみれば、この一首をはじめて見たとき、落ちつくどころか立ちあがってそこらをうろうろしたくなったのだった。せっぱつまりてと言われてこちらもそういう気分になったのか。それもそうだが、赤い消防自動車という句に、ただならぬものがあった。  消防車を出すなら、短歌の手法として、その色をわざ

          静かに激しく(渡辺松男歌集『蝶』評)

          藤原月彦一句評

          軍神の父が桜の奈落より  藤原月彦  明治男が嫌いである。文学者からして、鴎外は無責任だし子規は偉そうだし。富国強兵の掛け声のもとに彼らは泣くことを忘れ、父性という人工概念を内面化し、年月をかけて自らの首を絞めていったのだ。文明の転換期、すべての〈父の卵〉たちが共犯的に自己像を投影したのは軍神であっただろうか。父たちの父、軍神。それは武勲を立てて斃れた死者の美称でもある。美しい桜花を見上げていれば、やがて自らが花の底へと沈んでゆく心地。その先には美々しい父がおり、美々しい明

          藤原月彦一句評

          人間的な、あるいは妖怪的な(久保芳美歌集『金襴緞子』栞文)

           久保さんの歌とはじめて出会ったのは「かばん」二〇〇九年六月号誌上で、〈さて皆さん物欲しそうな顔をしたろくろっ首がここにおります〉〈心臓にわっさわっさと毛が生えた三つ編みをして君に見せよう〉など八首と(前者は表記を若干変えて本書に収録されている)、「茨城県在住のパート主婦もどきです」との自己紹介が掲載されていた。  もどき、というのはどうにも妖怪めいている。身元の明らかな人間みたいに在住地を明記しているところが逆に怪しい。  伝承やフィクションにおいて、妖怪・幽霊・宇宙人

          人間的な、あるいは妖怪的な(久保芳美歌集『金襴緞子』栞文)

          知性と安定性の宇宙(石川美南歌集『裏島』『離れ島』評)

           石川美南の短歌はおもしろい。と同時に、どこか評しにくい。理由を考えるに、傾向の似た先行歌人や作品をあまり思いつかないということもありそうである。  このたび同時刊行された歌集『裏島』『離れ島』は本のサイズもデザインも軽快な感じで統一されているが、まずはいくぶん薄めの後者から引いてみる。   最後尾は二万年待ち 謁見の叶はぬままに幾世代経ぬ   止まらないソフトクリーム機の前で(脳やはらかし)ひどく慌てる   からうじて強気な人よ 西風はうたふ涙腺上のアリアを  これら

          知性と安定性の宇宙(石川美南歌集『裏島』『離れ島』評)

          愛ある真面目(依田仁美歌集『正十七角形な長城のわたくし』評)

            死生観いやさ内裡の脂肪肝獅子身中に熟れて楽しも  『悪戯翼』  一九九九年刊の依田さんの歌集にこの一首を見つけた。当時から「獅子身中」という発想にこだわりがあったらしい。このたびの『正十七角形な長城のわたくし』は体裁としては歌文集だが、散文で始まり散文で終わるせいか筆者には「著者の思索を辿った」感が強く、なかでも次のくだりに注目した。 現代の「覚醒した作家」の多くは、疑いなく短歌社会の《獅子身中の虫》になる決意をしている。(中略)ただ、その願うところは、断じて「獅子の

          愛ある真面目(依田仁美歌集『正十七角形な長城のわたくし』評)

          傘の歌のことなど(『中川佐和子歌集』評)

           著者による歌論も読むことができる現代短歌文庫、その80『中川佐和子歌集』には、著者の最初の師・河野愛子の短歌に関するいくつかの論考が収められている。つまりは著者の初心のありどころがたどれるわけで、文中の「湿潤とならず」「客観的なまなざし」「『アララギ』の写生の方法を基本にして清潔なリリシズムを失うことなく」といった評言は、そのまま中川の作歌信条をうかがわせるものである。  河野の初期作品〈ベッドの上にひとときパラソルを拡げつつ癒ゆる日あれな唯一人の為め〉はもの悲しい歌だが

          傘の歌のことなど(『中川佐和子歌集』評)

          島田修三歌集『蓬歳断想録』評

           すでに第六歌集であり、断想の無造作な羅列に見えるつくりながら、老成をあえて目指さない意地のようなものが基調にある。   ゆふぐれを煙草くゆらせ放心にただよふ誰も来るなよ祟【たた】るぞ   初めての還暦なればなどと言ひし長嶋茂雄いとほしきかな   天心にかかる月しろ軽やかにピースのけぶり吐くひと俺は  〈祟るぞ〉に笑ってしまう。前後の歌を読むかぎり研究室の教授の呟きといったところだが、若輩に親しまれることを拒み、きつい煙草をひとりふかす〈俺〉への愛、いわば独特のナルシシズ

          島田修三歌集『蓬歳断想録』評

          小島ゆかり歌集『さくら』評

          ・母病めば父の居処なきやうなこの世の秋の吹きぬけの天  このように第十歌集『さくら』は、なんともやるせない歌からはじまる。前二冊の『ごく自然なる愛』『折からの雨』が、言葉とたわむれること、あるいは専門用語(気象用語)を取りいれてみることのたのしさを伝える傾向にあったのに対し、本書はなんというか、辞典や参考書にあまり当たることなく、口からこぼれたつぶやきをそのままを書き留めたような、素朴な印象がある。  実際、資料を幅広く参照する時間を取りにくい環境での作歌だったかもしれない

          小島ゆかり歌集『さくら』評

          「大らかな物語」への道(松村由利子歌集『大女伝説』評)

          ・春は鯨 大潮の夜ぽっかりとかすてら色の月が上れば  『枕草子』ふうの導入、なにかなつかしい「かすてら」という表記、「大潮の夜」のはるけさ――長い時間、遠い場所が力みなく描かれて快い一首。  あとがきに、哲学者リオタールが指摘した「大きな物語」の終焉に触れた箇所があるが、そのサイズはどうあれ「物語」が人を魅了も呪縛もする両義的なものであることに変わりはない中、作者はただ「大らかな物語」を求めているようだ。 ・女という植民地得て活気づく暗き野望を男気と呼ぶ ・物語から逃れる

          「大らかな物語」への道(松村由利子歌集『大女伝説』評)

          やぶれかぶれの果ての美しさ(藤原龍一郎歌集『ジャダ』評)

            すでにして戦前の日々生きつつも昭和八十一年・銃後  第十歌集『ジャダ』を統べる気分と思想を表した一首を選ぶなら、これだろう。「ジャダ」とは「jazz」と「dada」の合成語で、一九二〇年代に流行していたと、あとがきにある。たとえば摂津幸彦の句〈蝉時雨もはや戦前かも知れぬ〉が澄んだ危機感に満ちているのに対し、右の歌はそのアナクロニズムにおいて、危機感とは相反する甘美な頽廃感や空虚な喪失感をも孕んでいる。短歌とはそもそもそうした矛盾、混沌を呼ぶ詩形らしい。   「過ぎ行き

          やぶれかぶれの果ての美しさ(藤原龍一郎歌集『ジャダ』評)