「大らかな物語」への道(松村由利子歌集『大女伝説』評)

・春は鯨 大潮の夜ぽっかりとかすてら色の月が上れば

 『枕草子』ふうの導入、なにかなつかしい「かすてら」という表記、「大潮の夜」のはるけさ――長い時間、遠い場所が力みなく描かれて快い一首。
 あとがきに、哲学者リオタールが指摘した「大きな物語」の終焉に触れた箇所があるが、そのサイズはどうあれ「物語」が人を魅了も呪縛もする両義的なものであることに変わりはない中、作者はただ「大らかな物語」を求めているようだ。

・女という植民地得て活気づく暗き野望を男気と呼ぶ
・物語から逃れるという物語 女よ靴を脱ぎ捨てなさい
・大女死すごと大き物語死して世界は荒涼とせり

 一首目の露骨な比喩「植民地」は、「物語」とソフトに読み替えることもできる。三首目がファット・フェミニズム(太った女性を醜いと見なすような既成の身体観への問い直し)を連想させるように、最新のフェミニズム思想は一枚岩ではない。松村独自の思想として「女という物語=既成観念から逃れること」への希望を読みとっておきたい。
 そして本書は、物語の存在を否定するものではない。「歌によって何か物語を紡ぐことができれば」とあとがきにあるように、物語の別のあり方をさぐるものである。

・閉経は作用点すこし動くこと力まかせに押さぬ知恵もて
・歌を詠む母詠まぬ母詠むわれは手放しという愛し方をせず

 こうした歌は現実的あるいは理知的であり、物語という概念がもつドラマ性やロマン性とは離れたところにある。このように物語に溺れることを回避しつつ、たとえば

・アルプスをゆく喜びに一枚ずつ服を脱ぎ捨てハイジ笑えり

のようなメルヘン的情景(他人のまなざしを免れる自由、というファンタジー)を差し挟むことにより、物語を主体的に泳いでゆこうとしている。
 主体的に泳ぐ存在、そのシンボルのひとつが、鯨である。

・六月の鯨うつくし墨色の大きなる背を雨にけぶらせ
・海に棲むものらはノアの手を借りず大洪水をやり過ごしたり
・食うがよい私の耳を目を鼻を巨き鯨として地球在り

 短歌研究賞受賞作「遠き鯨影」の一連もまた、ジャーナリストの作者らしく捕鯨にかかわる軋轢や欺瞞に言及しながら、伝説や空想を織り交ぜた構成。現実と幻想は、松村の中では争うものではなく、物語という名のもと、切っても切れない関係にある。

・ああわれの太郎は人に育てられ電話の声も野太くなりぬ

 ここで「太郎」は、岡本かの子の息子の名(であることは前の歌から知れる)というより、男の子の代名詞としての意味合いが強い。第二歌集『鳥女』でもしばしば詠われた子への思いは、つづく本書において共有化へと向かう。物語への道のひとつに、古来より、共有という作用があったことを思う。

佐藤弓生

初出「梧葉」26号(2010年夏号)


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