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息子がぎゅっと抱きしめさせてくれなくなった

8歳息子氏が、夏休みの間、祖父母のいる北海道に行くというので空港に見送りに行った。
小さい頃から私の出張に付き合わされている彼は、一人で飛行機に乗ることにも特にプレッシャーを感じず、じゃあね、といって旅立っていった。

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優先搭乗した彼は、途中一度振り返って私を探し手を振ったけれど、それは、彼が心細かったからとか、私と別れて寂しいからとかじゃなくて、あきらかに、見送っている私を気遣ったものだった。

子が母の手を握っている時間は本当に短い。
それを少し寂しく思うのは、親の方ばかりだ。そういえば、私も、子どもの頃からはやく、「個」になりたくて仕方なかった。

先日、やっと4度目のトライで『嫌われる勇気』を読み終えたのだけれど、ああそうか、と、とても納得したところがある。

それは、「自分の課題」と「人の課題」を切り分けるというキーワードだった。

私は自分が批判されている時や、意見を否定されている時ですら、それは、自分の問題ではなくて、あなたの課題だなあと感じることが多かった。

たとえば、1度目の結婚のとき。

社会人になって早々、両親に「結婚しようと思うから」と伝えたら、反対された。
相手が18才年上だったことや、すでに半同棲していたことが、両親にとってはすんなり「おめでとう」と言えなかった理由だろう。

その時、私は彼らに、
「あ、これ、相談じゃなくて、報告だから。私、結婚にあなたたちの許可が必要だと思っていないから。
私はお父さんやお母さんが好きだし、彼のことも好きだから、できれば仲良くやってもらえたらと思っているけれど、あなたたちが受け入れるのが難しければ、無理しなくていいから」
と言ったのを、明確に覚えている。

あなたたちの気持ちはまあわかるけど、それは、あなたたちの課題だから、そちらでなんとかしてね、って思ったんだよな。

これ、24歳の時の話だから、この頃にはもう、自分と他者を切り分ける思考回路がはっきり生成されていたんだと思う。
このコラムに書いた、のちに逮捕された先輩の影響も大きかったのかもしれない。
私が自分の著作に対するdisコメントを見るのが特別嫌ではないことも、ここに起因する。

で、この私の気質というか、性格というかは、見事に息子に遺伝している気がする。

息子は
「ママはそう感じたかもしれないけれど、僕が感じたことは別なんだ」
「僕が感じたことは理解できなくてもいいけれど、自由にさせてほしい」
というような主旨のことを、小さいころからよく主張する子だった。

つい最近、彼は、おかえりのハグをさせてくれなくなった。

玄関で無事に帰ってきた我が子を「おかえり」と言ってわたしが抱きしめようとすると、
「もう2年生だし、恥ずかしいからやめてほしい」
と、きっぱり言われた。

「え、どうして?」
と聞くと
「理由はさっき言った。恥ずかしいから」
という。

「え? でも、誰も見てないじゃん」
と言い返したら
「誰かが見ているとかという問題じゃなくて、僕自身が恥ずかしいからやめたいの」
と。
「え、でも、外国の人たちは大人になっても、ずっとぎゅってハグするんだよ」
少しうろたえて言う私に、
「うん。それでも、僕は、いやだ」
と答える。

そして、私がしょんぼりしているのに気づいたのか
「あ、でもママのこと嫌いになったとか、そういうんじゃないから」
と、付け加えて、ランドセルを置きにいった。

その言葉を聞いて、ハッとした。

私が24歳の時に、「それはあなたの課題であって、私の課題ではない」と思ったのと同じことを、いま、彼も思っているのだな、と。

私がどこまでいっても私であるように
彼ももう、どこまでも彼であるんだなあと思う。

ハグに応じてくれなくなったことに対する寂しさも
「ママ、いつも一緒にいて」と言ってくれなくなったことに対する寂しさも

どちらも、彼の課題ではなく、私の課題である。

夏休みは子どもを成長させるという
多分夏休みは大人も成長させる

私は私を成長させる時間にしよう。

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