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ずっと誰かを口説いている

ライターの仕事は、ずっと、誰かを口説いているようなものだなと思う。

誰かに何かを知ってほしい。
誰かにこれをやってほしい。
誰かの身体に入りたい。
誰かの人生にくさびを打ちたい。

自分の本でも、どなたか著者さんの本でも、ライターの仕事は、ずっと誰かを口説いているようなものだと思う。

時々、そっと囁くように小さな声で。
時々、街宣演説のように大きな声で。

私は書籍の先にいる彼/彼女を口説き続けている。

自分の本だと、これがとくに顕著に出て
先日上梓した『女は、髪と、生きていく』にかんしては、こんな感想をたくさんいただいた。


私の本はおしゃべりらしい。そしてやっぱり、全力で口説いているらしい。


だけど、というより、
この場合は、だから、かもしれないけれど

私が文章を書く時に痛感するのは
「結局、人は、自分で気づいたことしか、実行できない」
ということ。

どんなに口説いても、相手にその気がなければ、届かない。
それに、相手にその気があれば、そのときは全然口説かなくたって、堕ちる。

書く時に難しいなあと思うのは、そのさじ加減で、

「みなまで言うな」の羞恥心と、
「かゆいところに手を差し出す」のテクニックとの間で揺れること、久しい。

ギリギリまで踏み込んでかき乱して翻弄して、でも最後は、「私が(俺が)キミを欲しいと思ったんだ」と抱きしめられる文章。「自分が決めて選びとったんだ」と求められるような文章。

それはどこにあるんだ。
それは、計算して書けるものなのか?


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先日、私がもっとも憧れている編集者さんに、ばったりパーティでお会いした。ビジネス書の分野で、何年も、売れる本を作り続けていらっしゃる方だ。

「さとゆみさんの新刊、読みましたよ」と言われ、心臓がびくんと跳ねる。


「わかりやすい文章は誰にでも書ける。でも、読ませる文章を書くことは、誰にでもできることではない」
その日、パーティの挨拶でもおっしゃっていた言葉を、その人は、私にもかけてくれた。

彼がとくに褒めてくださったのは、私があの本の中で唯一、泣きながら書いた部分だった。あの部分だけは、誰に伝えるわけじゃないけれど、今、書き残しておかないと消えちゃう感情だなと思って、衝動にまかせて書いた部分だった。

不思議だ。誰かを口説こうと思って書いていない文章のほうがなぜか、すごく好きな人に届いてしまうこともある。


昨日も今日もずっと書いている。
最近は、自分よりずっと歳上の著者さんの、遺言のような魂の言葉をまとめている。
この言葉が誰かに届けばいいなと思いながら書いている。
この言葉があの人が話すように届かなければ完全に私の責任だと思いながら書いている。
起きている時は書いている。寝ているときもずっと書いている。数時間に一度はっと目が覚めては、記憶があるうちにと思ってケータイに文章を書き留めてまた寝ている。
正直、苦しい。

人生を長く生きた人の言葉は、必死に口説いているんじゃなくて、なんというか、そこにそっと寄り添うような言葉だなあと感じる。言葉がやわらかくて弾力がある。相手によって、自由自在に形を変える。

そんな言葉と溶けたい。
溶けて一体化して、その人の唇から紡がれる言葉として再構築して届けたい。
特定しても規定しても断定しても、
読んでいる人の心のありように寄り添ってしなやかに形を変える文章。

きっとどこかにあるはずなんだ、そういう言葉が。


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