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触れることができる文章

年末、100マイルを走る友人のブログを一気に読んだ。すごい文章だった。
そのときからずっと考えていたことをいったんメモ。

エントリーされていた文章は全部で書籍一冊分くらいあったのだけれど、片っぱしから読んでいるうちに年が明けた。どれもそれぞれにドキドキしたのだけれど、なかでも強烈にVividですごみがあったのはこちら。

読んでいる最中に口の中に砂の味と血の匂いがした。のどが渇いて、何度も水を飲むために立った。

これは以前、小野美由紀さんの文章を読んだ時にも思ったことなのだけれど、身体の中をちゃんと通った文章は、触ることができる。

小野さんが書くと、
そこに置かれた扉は開くことができるし、
皮膚には触れることができる。

それと似た感覚を、この文章を読んでいて感じた。

脳だけじゃなくて、ちゃんと身体を通過した文章は、その映像の立ち上がり方が本当に立体的だ。こういうときの文章は、写真より雄弁だな、と思う。写真よりも解像度が高い。

そしてしみじみ、アスリートの方の文章だなあと思う。

大げさでもなく、でも過小評価するのでもなく、世界と自分との間にある距離を、ひとつひとつ確かめるような、その手探りのものさしの差し出し方が、ばくばくと迫ってくる。

悔しいとか
嬉しいとか
生きているとかを
こんなふうに表現できるのだなあ……。
地球と魂の交換をしてるみたいだ。
決して口数は多くないけれど、いつも色のある友人の言葉を思い出す。
しみじみ文章は生き方だなあ。と思う。

自分が書く文章の反対側にあるタイプの文章だと思ったけれど(だから)、とても焦がれたし心打たれました。

言葉って不思議で、思ってもいないこととか適当に書くとすぐにそっぽを向く。

でも彼が書く言葉は、嬉しそうに整列している。
こんなふうに嬉しそうに並んでいる言葉を見ると、あー、相思相愛なんだなってわかる。
そういうのも、やっぱり生き方だと思う。格好いいもんなー。

・・・

12月はずっとアーティストさんの原稿を書いていた。
年始からずっとアスリートさんの原稿を書いている。

(もちろん、彼らが扱う言葉や思考の違いは、職業の差よりも、個の生きざまの差によるものの方が大きいのだけれど)その違いにまだ時差ぼけしていて、うまく新しい世界にスイッチしきれていない。

一見彼らは、世界に対して真逆のアプローチをしているように見える。
でも、
近くで見ると全然違うのだけれど、ずっと離れたところから見ると、同じ場所に向かって走っているように見えるときがある。

友人の文章を読んでから何かつかめそうで、指の間からこぼれていくさらさらさらさらしたものを追いかけている。
ここしばらく、もう少し身体を矢面にさらして投げ出して書く感じの書き方に変えてみようかな、とか。
もう少し、身体の内部に言葉をつっこんで吐いてみようかな、とか。

まだ整理しきれていないけれど、年末に圧倒された文章の話でした。
東京に戻ります。

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