クリアな判断での希死念慮

 ちょっと衝撃的なタイトルですけど、あると思うんです。そういうものって。
 精神疾患を持っていて「しにたい」なんて言った日には、少なくとも私の場合は様子から切迫感があるようで一発で入院になります。なので、絶対言わないんだけど(笑)いや、それでも入院になるんだけどね。
 私も昔は病状としての抑うつからの希死念慮ってあったと思うんですよ。そういうものは治療反応性があるだろうし、医療の力が有効な可能性が高い。
 けどね、私みたいに15年以上、つまりそれは人生の半分以上精神疾患患者、そしてどこかからは精神障害者となって、医療では正直お手上げ、というかやることはやりつくした、けど、どうにも生活ができない人が感じているのは「社会の中での生きづらさ、立場のなさ、居場所のなさ」なわけです。いや、症状としての抑うつで医療の手助けが大いに役に立つ人も社会の中での生きづらさはもちろんあるんだけど。レベルの問題というか。
以下詳しく書きます。

 私は希死念慮発生時は抑うつなので、それを例に書くと、症状としての抑うつによる視野狭窄や動けなさ他であれば、症状が改善すれば生きやすくなる可能性がある。だから抗うつ薬だったり、休養だったり、認知行動療法が意味があるわけです。あと環境調整で再発予防も大事。
 だけどね、私なんかはそういったことはやりつくしてある意味低め安定というか、何もなければご機嫌。それに考え方とかはむしろ達観してるとか言われるし、服薬アドヒアランスも良好。ぶっちゃけ精神科的にはやれることってそんなにないんです。(根底のトラウマ治療って話はあるけど、それは規模が大きすぎる話なのでおいて置こう)

 ただ、慢性化して生活障害が顕著になって色んなことに支援が必要になった結果、立場や言動や全てが「精神障害者」扱いになってしまうポジションにいる。
 そのため、「この人のいうことは『せーしんの人だから』って流しても皆納得する」「まともに聞く価値がない」「まともに聞いたら図に乗る」「そもそも何言ってんだこいつ(混乱すると発語不明瞭)」など、

【とにかく一人の人として対等に扱ってもらえない】  のです。

 道行く人、街の人は仕方ない。けどね、障害福祉に関わる人(事業所や行政)がそれをするんですよ。いや、地獄よ。
もちろんそうじゃない人もいるし、一番の理解者も障害福祉に関わる人なんだけどね…

 そんな中で、手は貸さない、発言も聞かない(というか都合の良いようにゆがめる)、生活に困ってても知らんがな、しかし死んだらダメだぞ。というのが一部の心無い人によって行われるのではなく「社会の構造」として許容されてしまっている。つまり、生きている限りこれが続くし、良い方向に社会が変わっているとも到底思えない。
 そんなのは前向きに生きろと言われても無理であって、抑うつや幻覚妄想に囚われた結果ではなく「クリアな判断に基づく絶望、無力感、孤独、孤立、そしてその結果としての希死念慮」が生まれるのはある意味当然じゃないか、とすら思うわけです。

 むしろ長くこの繰り返しをしてきたからの無力感、虚無感、絶望感の高まりなんだよね。「ああ、またか」って。 
 それでも、私に時間をかけたからって報酬が増えるわけでもなかろうに、みたいな人々の熱心さとか、友人からの無償の愛とか、日々成長していく友人の子どもたちの動画とか、ちいかわとかそういったもので自分をあやしごまかしだましつつ生きています。だからツンッってだけで崖から落ちちゃうんだけどね。

 まあのらりくらり行けるのかいけないのかわからないけど、しっかりした思考回路での希死念慮ってあるよなあと思うってことを書きたかった次第です。

(かといって簡単にはしねないという何となくの思いも持っているよ)

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